第8話 苗代に水を、手に弓を
朝靄が立ちこめる川辺に、稲夫は鍬を手に現れた。
葉の先には露が光り、空気は湿り気を帯びていて、足元の草は歩くたびに水気を含んだ音を立てる。
まだ鳥の声すら聞こえない時間。空気は澄み、土の匂いが濃かった。
「さて、今日で苗代も仕上げだ」
稲夫は川の水面と苗代の位置を見比べる。今日の仕事は、水を引き、排水路を整え、泥を練るところまで。
やることは多いが、手順は頭に入っている。
「まずは取水口……っと」
川沿いを見渡し、流れの穏やかな場所を探す。やがて、自然に川岸が抉れて低くなっている場所を見つけた。水の入り口として理想的だ。
「ここなら、いけそうだな」
鍬を地面に突き立て、掘り進める。最初は柔らかかったが、少し進むと石が混じってくる。
「じいさん、言ってたな……“自然には逆らうな、寄り添え”って……」
が、次の瞬間、鍬が大きな石にぶつかった。ガキンと嫌な音を立てる。
「うん、寄り添えねぇ!クソッタレ!」
ぼやきながらも作業を止めず、手を動かし続ける。やがて、水がじわじわと流れ出した。
蛇のように細い流れができ、苗代へと向かっていく。
「……お、流れた」
だが道半ば、水の流れが止まった。どうやら小石や草が溝を塞いだらしい。
稲夫は手を突っ込み、泥ごとかき出す。水が再びちろちろと流れ出した。
「……よし、とりあえず通ったな」
今度は苗代の反対側に移動し、小さな溝を掘って排水口を作る。
これがないと、水が腐るし、土が過湿になって苗が根腐れを起こす。
「出口がなきゃ、水量も調整できないしな……」
土を削り、ゆるやかな傾斜をつける。しばらくすると、排水口から水がちろりと音を立てて流れ出した。
「さて、あとは……ん?」
苗代の中央に目を向けると、水の溜まり方にムラがある。一方では水があふれそうなのに、もう一方は地面がまだ乾いている。
「これ……傾いてるな」
稲夫は鍬を持ち直し、苗代の高さを確かめながら少しずつ地面を均していく。
鍬で削っては水を流し、流れを見てまた削る。その繰り返し。
(じいさん、田んぼは水平命って口を酸っぱくして言ってたよな……)
根気の要る作業だが、手を抜けば秋の収穫に影響が出る。何より、自分は神と勘違いされている身だ。手抜きは許されない。
やがて水面が静かに苗代全体に広がった。歪みは消え、水はまるで鏡のように静かだ。
ひとまず苗代はこれで完成した。
「……ふぅ、よし。じゃあ泥を練ってくか」
土と水が程よく混ざったのを見て、稲夫は素足で苗代に踏み入れた。足で踏みしめ、こねるように泥を練っていく。
ぬるりと滑る感触が足裏を包むたび、均一に混ざっていくのがわかる。
(苗代に種籾をまくんだ、よく泥を練って良い環境を作ってやらないとな)
黙々と泥を練っていると、背後の草むらがガサリと音を立てた。思わず振り返ると、肩に何かを担いだタケルが現れた。
「稲夫様、ここに居られましたか」
姿を現したのはタケルだった。肩に何かを担ぎ、足取りは軽い。
「おう。なんか用か?」
「これをお渡したく」
タケルが差し出したのは、一本の弓だった。しっかりとした木の反り、白く磨かれた弦、狩猟用らしい質実剛健なつくりだ。
「……その弓を、俺に?」
「はい。昨日の熊の一件で、武装は必要だと感じました。稲夫様が弓を用いた火起こしをしていたのを見て、弓に心得があるかと」
「……う、うん。まあ、弓は扱えるけどもさ」
思わず手に取ると、その弓の重みと、弦の硬さに目を見張った。ぐいっと引こうとしたが、ビクともしない。
(な、なんだこの弦……鉄か?いや、これ……狩猟用どころか戦争用だろ……)
高校の時、弓道部に所属していたので和弓は扱える。しかし、今しがた渡されたのは的を射る弓ではなく、明らかに武器としてのショートボウの様な弓だ。
「少し強めに張ってあるので、一度試してもらえますか?」
(マジかよ)
期待に満ちたタケルの顔を見て、断れなかった。
(やるしかねぇ……やるしかねぇ……神の名が泣くかもしれないけど、やるしかねぇ!)
震える手で矢をつがえ、息を吸う。引こうとするが――動かない。
(硬ってええええ!なにこれ!?弦がワイヤーか何かで出来てる!?)
「――ふんっ!」
もはや狙いをつける余裕はない。弦を引くことだけに全神経を注ぐ。
やがて弦がぎちりと音を立て、なんとか引ききった瞬間――
ぶん!
矢が空を裂き、川向こうの木に突き刺さった。
「おおっ、お見事です!」
「…………」
(当たった!? え、マジで!? 今、神が奇跡起こした!?)
稲夫は引きつった笑顔で肩を押さえる。
「扱いやすいように、弦の張りを調整しようとも思ったのですが……これなら大丈夫ですね」
(大丈夫じゃない。大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない)
喉まで出かかったが、ある事に気が付き声を押し殺す。
(まて、仮に調整してもらって「この程度の弓しか引けず何が神だ」とか言って斬られるって事はないよな?ないよね?)
しばらく黙り込んで口を開く。
「ありがとう、タケル……。大事に、するよ」
言いながら、稲夫は決意した。
(練習だ……練習あるのみ……命がかかってるなら、やるしかねぇ……!)
稲夫はそっと弓を抱え、空を見上げた。陽光が水面を照らし、苗代にきらきらと反射している。新しい日々が、静かに始まろうとしていた。
※泥をよく練ることで、田んぼの表面が均一になり、水持ちが良くなります。
さらに、種籾が沈みすぎずに表面にとどまり、発芽がそろいやすくなります。