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第6話 信仰の矛先

 木立の陰から現れたそれは、黒褐色の毛並みをまとった巨獣――熊だった。

 人の背丈など軽く超える、山のような体躯が、ずっしりと大地を踏みしめている。


 空気が凍りついたように、世界から音が消えた。


「……ミズキ、ゆっくり後ろに下がれ。走るな、音を立てないように」


 稲夫は低く、凪のような声で言った。無理に落ち着こうとするのではなく、恐怖を押し殺した結果として、自然と喉から滲み出る緊迫の声だった。


 彼は立ったまま、焚き火の脇に座っているミズキへ手を伸ばす。だが。


「ご、ごめんなさい……動け、ません……」


 震える声が、細く返ってきた。

 ミズキの肩がかすかに揺れている。瞳は見開かれ、涙が今にもこぼれそうに滲んでいる。


(恐怖で、身体が……)


「大丈夫、俺が――」


 そう言いかけた、その瞬間だった。


 ――ガチン!


 ミズキの手から滑り落ちた石が、調理台にしていた平石にぶつかり、乾いた音を立てた。


 熊の耳がぴくりと動いた。

 そして、その巨体が音の方向――こちらへと、ずるりと動く。


(……やばい)

 稲夫の心臓が、ドクンと荒く脈を打った。


 隣では、ミズキが口元を両手で覆い、しゃくり上げるように浅い呼吸を繰り返していた。

 肩が震え、喉が詰まり、酸素をうまく取り込めていない。――過呼吸だ。


「逃げて……ください……稲男、さま……」


 涙をこらえる目、震える声。心細さと罪悪感が混ざった、消え入りそうな訴えだった。


(この子を、置いて逃げる……?)


 できない。そんな選択肢はない。大人として、それを選んでしまった時点で、きっと何かが終わる。

 目の前で怯える子どもを見捨てて、後悔せずに生きていける人間なんて、自分にはなれない。

 守れる立場にいる者が、それを放棄してどうする――。


 稲夫は、意を決して腹の底から声をしぼり上げた。


「おおおおおおおおおっっ!!!」


 両腕を大きく広げ、肩を張り、膝を折り、あらん限りの威圧を込めて姿勢をとる。まるで獣がもう一匹、そこに現れたかのような迫力で、熊に対峙する。


「おおおっ!! おおおおおおおおぉっ!!」


 熊が動きを止めた。


 鼻を鳴らし、前脚を地に付き、少し首を傾ける。その目には一瞬の戸惑いが浮かんでいた。


(怯んでる……頼む。引いてくれ……)


 だが、願いもむなしく。


 熊の体が低くなり、肩を揺らしながら前脚を踏み込んだ。

 唸るような声。殺気をはっきりと宿した双眸。


(まずい、完全に戦う気だ――)


 その瞬間。


「ミズキ!!」


 茂みの奥から鋭い声が飛んできた。

 草をかき分けて飛び出してきたのは、タケルだった。手には長く光る矛――鉄製の武器だ。


「おおおおおッ!!」


 叫びながら、熊の側面へ一直線に飛び込む。その勢いをそのまま穂先に乗せ、熊の脇腹へと突き立てた。


 ぶしゅっ、と重く湿った音。

 熊の体が震え、血しぶきが矛の根元から噴き出した。


 だが熊もすぐに反撃する。怒声のような咆哮と共に、牙を剥き、タケルへと襲いかかる。

 タケルは矛を深く突き立てたまま距離を保ち、熊の目を捉え続ける。熊の前脚が斧のように振るわれるが、それを矛の柄で受け流し身を翻す。


 攻防の応酬が続く。


 矛を振るい、爪と牙を受け流す彼の姿に、心の奥が揺さぶられる。

(タケル、本当に……命を張ってる……)


 稲夫は奥歯を噛みしめた。ただ見ているだけではいられない。何か――何か自分にもできることはないか。


 周囲を見渡す。少しでもタケルに攻撃の機会を作れはしないか、タケルの隙を埋められないかと考えた。

(時間を稼ぐだけでもいい。矛を深く突き刺す、その一瞬の支えになれれば……)


 その時だった。


 座ったまま硬直していたはずのミズキが、両手で地面を押しながら、ふらつくように立ち上がった。

 震える足に力が入っていない。だが、兄の危機を見過ごせず、本能的に体を動かそうとしたのだ。


(あんな状態でも、兄を助けようとしてるのか……)


 だが次の瞬間、ミズキの足がもつれ、ぐらりと前のめりに倒れる。


 「っ……!」


 その小さな動きが視界の端に入り、タケルの意識が一瞬だけ妹へ向いた。その隙を逃さず、熊の爪が振るわれる。


 タケルの手から矛がこぼれ、地面に転がった。


「 稲夫!ミズキを連れて逃げろッ!!」


 怒声と共に、タケルは両手を広げて熊の気を引こうと前に出た。


「兄様!!」


 ミズキの悲鳴。


 稲夫はタケルに目を向けた。 他者を守るために丸腰で熊の注意を引こうと前に出るその姿――恐怖に怯えることなく、必死に誰かを守ろうとする背中だった。

(タケル……! こいつだって、俺たちを守るために戦ってるんだ。命を張って……!)


 その姿に、稲夫の胸が熱くなる。

(ミズキだけじゃない。こいつまで――)


 稲夫は決意を固め、歯を食いしばって地を蹴った。


(タケルを置いて逃げるなんて、できない……!)


 稲夫は地面に落ちた矛に飛びついた。


「おおおおおッ!!」


 矛を拾い上げ、全身の力を込めて、熊のわき腹めがけて矛を突き立てた。

 ぐっ、と確かに肉を貫いた感触。しかし浅い。


 熊が、稲夫の方へ顔を向けた。


(目が合った……)


 次の瞬間、熊が立ち上がる。二本足で仁王立ちとなり、振り下ろされる巨大な前脚が空を裂いた。


「……あ、死んだなこれ」


 稲夫は膝を抜かし、尻餅をつき、ただ矛の柄を握りしめていた。

 熊の巨体が、圧し潰すようにのしかかってくる――!


「稲夫ッ!!」


「――あ……!」


 タケルの怒声、ミズキの叫びが響く。


 血飛沫が宙を裂き、すべての音が途絶えた。


 土煙が立ちこめる中、熊の巨体が覆いかぶさったその場に――稲男の姿が、あった。


 矛を握りしめたまま、息を荒げて座り込んでいる。顔は血と土にまみれ、それでも確かに、生きていた。


 熊の胸元には、まっすぐ突き立った矛の刃。

 刃は深く刺さっていた。のしかかってきた熊自身の巨体が、地面に突き刺さるように矛を押し込み、心臓を貫いたのだ。


 熊は、ひときわ大きく痙攣し、最後の呼気を絞り出すように鼻を鳴らすと――やがて動かなくなった。


「……し、死んだ⋯⋯のか……?」


 静寂の中で、稲夫がつぶやく。


 ミズキはその場に崩れ落ち、涙をこぼして泣き出した。


「よ、良かった……稲夫様が……兄様も……!」


 タケルが駆け寄る。


「ミズキ! 稲夫! 無事か!?」


 稲夫は、肩で息をしながら、かすれた声を返した。


「だ、だい⋯⋯じょうぶ……」


 土と血にまみれながらも、生きていた。

 その姿を見て、タケルは膝をつき、深々と頭を垂れた。


「……稲夫様、俺は、あなた様を疑っていた」


 タケルは一度、視線を落とし、拳を握りしめた。悔しさを噛みしめるように歯を食いしばり、言葉を探す。


「え?」


「あなた様が現れた時から、ずっと警戒していた。何者かも分からず、怪しいとさえ思ってた……でも、今のあなた様を見て、俺は……情けなくなった」


 顔を上げたタケルの目には、素直な尊敬と、深い謝意が滲んでいた。


「命を懸けて妹を守って、俺まで助けてくれた……その勇気がなければ、俺も、ミズキももうこの世にいなかった。本当に……ありがとうございます」


 ミズキも、その場で平伏する。

 涙をぬぐった袖が逆に顔を汚していても、気づかずにそのまま祈るように頭を下げた。


「どうか……これからも私たちを導いてください、稲夫様……」


 運が良かっただけだ。怖かったし、足も震えていた。あんなの、ただのまぐれだ。


 なのに――


 ふたりは、まるで救世主でも見るような目で、こちらを見ている。


(ちょっと待て……なんでそんなキラキラした目で見てるんだ……?)


 土まみれで、鼻水も出てた気がするし、顔もひどい有様だぞ?

 それでも――これは、チャンスだ。


(この流れ、この状況……言える、今なら言える! 今なら「神じゃないよ」と言っても、許される気がする!)


 稲夫は震える足で立ち上がり、懸命に言葉を紡ごうとした。


「俺は神じゃないよ。だから畏まらないで――」


 そう言おうとした。しかし熊との戦闘の恐怖で喉が震え、声が掠れる。


「……おれ……は……かみだ……かし……こまれ……」


(違う! 今の違う!!)


 しかしもう遅かった。


 タケルとミズキは、揃って地面に額をつけていた。


 稲夫は、どこまでも高く広がる夕焼けの空を見上げて、呟いた。


(……もうだめだ……どうにでもなれ……)


 そして、心の中で静かに泣いた。

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