44話 〈五月上旬〉田に引かれた線
稲夫は本田の前で屈み、泥の中に指を差し入れた。
泥は柔らかく、指の先がぬるりと沈む。そのまますくい上げると、泥は抵抗なく指の間をゆっくりと流れた。
「これなら、いつ田植えしても問題ないな」
代掻きを繰り返し行ったおかげで、本田の硬かった泥は、柔らかく粘りのある良い泥に生まれ変わった。
稲夫が泥の状態に満足していると、背後から足音が近づいてくる。
「稲夫様、お待たせしました」
「ウチらに頼みたい事って、なんですかね?」
声をかけてきたのはツチハルとアキだった。
稲夫は二人に向き直り、田んぼを指し示した。
「ツチハルさん達には、田植えの時に“縄引き”を頼みたいんです」
「縄引き?それは一体何でしょうか?」
「縄引きっていうのは、田んぼに縄で稲を植える目印をつける作業です。その目印にそって稲を植えるんですよ」
そう言って、稲夫は地面に置いてあった縄を手に取った。縄には、一定の間隔で小さな結び目が打たれている。
「これが、縄引きに使う縄です。この結び目の位置に稲を植えていきます」
アキは縄をまじまじと覗き込みながら、眉をひそめた。
「手伝うのはいいんですけど、隙間いっぱいに植えては駄目なんですか?」
「詰めすぎると、日の光が当たりにくくなりますし、風通しも悪くなります。そうすると、病気にもなりやすいんですよ」
説明を聞いたアキは考え込み、ふと近くの草むらに目を向けた。
草は鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに中は薄暗い。葉の先には、まだ朝露が残っている。
「……なるほどね。それに、綺麗に植えれば手入れもしやすそうね」
「そうなんです。特に夏は雑草がすぐ生えるんで、間隔が乱れると管理が一気に大変になります」
(それに、万が一でも稲を踏み潰そうものなら、ミズキが黙ってなさそうだし)
内心でそう付け加え、稲夫は軽く咳払いをした。
「じゃあ、早速やっていきましょう。まずは縄を張れるように、畔の両端に杭を打っていきます」
こうして稲夫達は畔に杭を打ち込んでいく。
杭同士の距離は、稲夫の足の大きさを基準に測り、一定の幅を空けて次の杭を立てていった。
「では、この杭に合わせて縄を泥に押し当てて、印を付けてください」
「分かりました。アキ、私の合図に合わせて縄を動かすよ」
「まかしときな」
二人が縄の両端を持ち、基準とした杭に沿って縄を泥に這わす。
そして、ツチハルの「行くぞ」と言う合図で、縄が泥に押し付けられた。
縄を持ち上げると、泥に等間隔に印が付いた跡が一本の列となって浮かび上がった。点が点を結ぶように並び、泥の上に真っ直ぐな道筋が描かれる。
「稲夫様。跡は付きましたが、これでよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。これなら迷わず植えられそうです」
「思ってた以上に整えて植えるんだね」
「前も横も間隔を揃えて植えるやり方で、“正条植え”って言います」
印に沿って植えれば、稲はまっすぐな列を作り、田んぼの中に整った並びが生まれる。
稲夫は一歩下がり、泥に残った印を改めて見渡した。
(印は見えるけど、ぎりぎりだな……縄引きした直後に植えないと、すぐ分からなくなりそうだ)
できれば、あらかじめ縄引きを終えてから田植えに入りたかった。だが、そう簡単にはいきそうにない。
(じいさんから話で聞いていただけでは、思うように行かないな……)
『昔は縄で印を付けて植えていた』そう何度も語っていたじいさんの顔が浮かぶ。あの時、もっと真面目に聞いていればよかった。
思わずため息をついて、泥に残った縄の印をもう一度見渡す。
「……まぁ、やるしかないか」
稲夫は気を取り直し、二人の方へ向き直る。
「ツチハルさんとアキさんには、田植え当日、この縄引きをお願いします」
「かしこまりました。ん?それでは、稲夫様と巫女様、戦士長が稲を植えるのですか?」
「そうなりますね。ただ、一人には別の役を頼むつもりですが」
ツチハルは一度田んぼの方へ目を向け、それから稲夫へ視線を戻した。
「その、戦士長は頼もしいお方ですが、少々豪快というか、雑なところがありまして……」
ツチハルは渋い顔をしながら、少し言いづらそうに続ける。
「細やかな作業となると、少しばかり不安が……」
アキが横で小さく苦笑する。
「ウチらの家を作ってくれた時も、床が石だらけだったしねぇ」
「流石に大丈夫ですよ。植えるのは難しくはないですし、ちゃんとやり方も教えるので」
「そ、そうでしたか。差し出がましいことを申しました」
ツチハルは申し訳なさそうに謝罪する。
確かに豪快なのは間違いないだろうけど、それで細かい作業ができないわけではない。はずだ。
(流石に大丈夫だよな?ちょっと不安になってきたかも……)
ほんの少し不安を覚えながら、印の付いた田んぼへ目を向けた。
着実に田植えの準備は進んではいる。問題は、人のほうかもしれない。
※本作では縄引きの際、縄で印を付けましたが、型枠を転がしたり、「型付け」と呼ばれる農具で印を付ける方法もあります。
現代では田植え機が自動で正条植えを行ってくれるため、こうした作業を見る機会は少なくなりました。




