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41話 〈五月上旬〉呪詛を吐く巫女

 早朝、稲夫が浅く水を張った本田に鍬を入れる。ばしゃばしゃと水音が響き、硬かった土が砕け、黒い泥が水に溶けていく。


「人力の代掻きって……こんなにキツかったのか……」


 水を含んだ泥は、鍬にまとわりつき、腕にずしりと重さが残る。

 それに加え、不安定な足場で鍬を振るうのは、足腰の負担が大きく、想像以上に稲夫の体力を削り落としていた。

 

(でも、ここでゆっくりやってる余裕はないんだよな……)


 いい米を育てるには、土が細かくほぐれ、手の中でゆっくり流れるような、粘りのある泥が理想だ。

 だが、今の田んぼの泥は固く、泥の塊が残る理想とはほど遠い状態だった。


(この具合だと、あと二回は代掻きがしたい。泥を落ち着かせる時間も要る。田植えまでに間に合うか?)


 田植えの時期は、もうすぐそこまで来ている。休んでいる場合ではなかった。

 稲夫は気合を入れ直し、再び鍬を構えたその時——。


「きゃあああああああ!!!」


 甲高い悲鳴が、苗代の方から響いた。


「この声、ミズキ!?」


 稲夫は鍬を放り出し、苗代へと駆けだした。

 ほぼ同時に、矛を手にしたタケルが凄まじい速さで駆けてくる。


「ミズキ!」


 二人が駆けつけると、苗代の前でミズキが崩れ落ちていた。震える手で、苗代を指さしている。


「い、稲が……!稲が!」


 視線の先。

 そこには、部分的に荒らされた苗代があった。稲が踏み荒らされ、ところどころ噛みちぎられている。

 稲夫は苗代の前で屈み、泥に目を落とした。


「これは、獣に荒らされたか?」


 苗代の浅く張られた水の中に、いくつかの足跡らしきものは残っている。

 だが、水で泥が流され形は崩れており、種類までは判別できなかった。


「そんな……大切に育てた稲が……」


 ミズキが呆然と呟く。

 その横で周囲を警戒していたタケルが、安堵した様子で構えた矛を下ろす。


「ともあれ、ミズキが無事で良かった」


「稲が!稲が無事ではありません!」


 その言葉に、呆然としていたミズキが感情的に声を上げる。

 その声に苗代を見ていた稲夫は、驚いて振り返った。


(ミズキがこんなに取り乱すのは珍しいな)


 稲夫はそう思ったが、すぐに納得する。

 ミズキは、稲を種籾から大切に育ててきた。毎日水を調節し、雑草を取り除き、祈りを捧げてきた。それを、無残に踏みにじられたのだ。


(そりゃ、こうもなるか)


 稲夫は改めて苗代を見渡し、歯噛みする。


(現代ならビニールハウスやネットで稲を育てるから荒らされることなんてないが……迂闊だった)


 苗代は野ざらしで野生の中だ。もっと害獣対策をすべきだったと悔やみ、後悔が胸をよぎる。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、トコトコと、首に縄をつけたオウカが歩いてきた。首に巻かれた縄の端は、地面を引きずっている。

 思わず目で追っていた稲夫だったが、次の瞬間、目を見開いた。


「タケル! オウカの縄外れてるぞ!」


「しまっ――!申し訳ありません!」


 タケルは顔色を変え、慌てて縄を掴み上げる。


 稲夫は状況を察した。

 オウカの調教中に、ミズキの悲鳴を聞いて飛び出してきたのだろう。

 妹想いのタケルなら仕方ない。そう思った時、ふと閃く。


「そうだ、タケル。オウカに苗代を見張らせるのはどうだ?」


「オウカに、ですか?恥ずかしながら、まだ調教が十分とは言えませんが……」


「縄に縛られてなくても逃げ出さずに、タケルについてきてる。信じてみよう。だめだったら、次の手を考えればいい」


「ですが、万が一に何かあった場合——」


「……許せません」


 タケルは渋い顔のまま否定的だったが、ミズキの低く、震えるような声がタケルの声を遮った。

 そしてミズキはゆっくりと立ち上がり、稲夫達に向き直る。


「許せません……ここは、祈りが積み重なる、稲が育む神聖な地。それを踏みにじり、荒らした罪深い畜生どもに、必ずや罰を与えましょう」


「あ、あのー……ミズキ、さん?」


 普段のミズキからは考えられないほど、物騒な言葉。

 傍から見ても明らかにキレている。まるで親の敵に相対しているような、鬼気迫った雰囲気だ。

 その迫力に、タケルも、オウカでさえも完全に面食らっている。


 ——タケルは、ミズキのただならぬ様子に、否定の言葉を飲み込んだ。


「わ、わかった。一晩、オウカに苗代を見張らせてみよう。だから、その、一旦落ち着くんだ」


「兄様、ありがとうございます」


 こうして、オウカは夜に苗代を見張ることになった。


 翌朝。

 稲夫、タケル、ミズキは足早に苗代へ向かった。特にミズキの足取りは早い。

 苗代には、オウカが横になり寝そべっている。

 その横に――何かが積まれていた。


「あれは……鴨?」


 数羽の鴨が、噛み殺されてオウカの横に積んであった。


「なるほどな。浅く張った水、柔らかい泥、若い稲苗。鴨にとっては、最高の餌場だ。被害がこれ以上広がる前に対処できてよかった」


 ミズキは、ぱっと表情を明るくし、オウカを褒める。


「オウカ、よくやりました。その働き、確かに見届けました」


「タケル、これならもう少しオウカを信頼してもいいんじゃないか?」


「そう、ですね。少し、慎重になりすぎていたのかもしれません」


「でも、殺しちゃったのは少し惜しかったかな」


「どういうことですか?」


 ミズキが即座に聞き返す。


「鴨を調教して、田んぼの害虫を駆除してもらう合鴨農法っていうのがあってな。もしかしたら、できたかもしれないと思ってさ」


「稲夫様、あの害鳥にそこまでの知性はありません。諦めてください」


「あ、はい……」


 ミズキはきっぱりと言い切った。稲夫は即座に折れる。


(まあ、合鴨農法は鴨を雛から調教しないといけないし、どの道無理だったか)


 現実的に考えても、難しい。

 だが、それにしても――稲夫は、タケルとミズキを見比べる。


(怒り方、似てるな)


 この二人、やはり兄弟なのだと改めて実感した。

※合鴨農法とは、鴨を田んぼへ放す農法です。鴨に雑草や害虫を食べてもらうことで、除草や害虫防除を行うことができます。

ただし、この農法で使われる鴨は雛から調教する必要があり、鴨の脱走や外敵から守るための柵が必要だったりと手間が多くかかります。

また、成長した鴨が稲を踏み倒さないよう、時期を見て田から引き上げる必要があります。

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