40話 〈五月上旬〉判断の重さ
儀式の翌朝。
広場には、昨日の焚き火の跡がまだ黒く残っていた。夜露に濡れた土がひんやりと冷たく、朝の空気は澄んでいる。
稲夫は水を汲み終え、ふと視線を上げた。少し離れた場所で、ミズキが朝食の支度をしている。
その腕には、葉を重ねて当てた簡素な湿布が巻かれ、蔦で固定されていた。
「ミズキ、腕は大丈夫か?」
「はい。血も止まっているので、大丈夫です」
そう言って微笑むが、ほんの一瞬、言葉を選ぶような間があった。
「……少しだけ、痛みますけど」
付け足す声は小さく、どこか照れたようでもあった。
「無理するな、しばらくは苗代の管理は俺の方でやっておくよ」
「ありがとうございます。でも、苗代は私が見ていたいです。無理はしませんから、続けさせていただけませんか?」
(任せていいのか、傷のある腕で、田の作業は……)
そこまで考えて、言葉を飲み込んだ。
ミズキは、視線を逸らさず、静かに待っていた。
「……分かった。無理だと思ったら、すぐに教えてくれ。それと、傷口が汚れないように気をつけてな」
「分かりました、ありがとうございます」
そう言うと、ミズキは小さく息を吐き、わずかに表情を緩めた。
——その安堵を切るように、低い足音が近づく。
タケルだった。視線が、まっすぐミズキの腕に落ちる。
「その傷……あの時の状況を考えれば――ロウがやったな」
空気が、ぴんと張りつめる。
抑えた声だったが、そこに含まれる感情は明らかだった
「それは……」
ミズキは答えなかった。
ほんの一瞬、視線を伏せ、言葉を探すように唇を結ぶ。
タケルにとっては、それで十分だった。
「……やはり、そうか。巫女に傷をつけたなら、罰が必要だ」
「兄様!待ってください!ロウ君はヒナタちゃんを守ろうとしただけで——」
「それで許される話じゃない!」
怒りを孕んだ声が朝の空気を切り裂いた。
タケルの目は鋭く、普段落ち着いている彼の面影は無かった。
「ちょ!ちょっと待った!」
稲夫は思わず声が出ていた。
「その、ミズキの傷は……ロウが、やったのか?」
口にしてから、胸の奥がざわついた。
昨日は儀式で手一杯で、そこまで考える余裕がなかった。
視線が、自然とミズキへ向く。
「……はい、私がヒナタちゃんを吐かせる時に……」
そこで一度、ミズキは言葉を切った。視線が揺れ、それでもはっきりと続ける。
「ですが、ロウ君はヒナタちゃんを守ろうとしただけです。悪気があったとは、思えません。どうか、許してあげてください」
「稲夫様、犯した罪に理由は関係ありません。罰の許可を」
タケルの視線が、一直線に稲夫を射抜いた。その圧に、思わず息が詰まる。
(これ、俺が決めるのか……今、この場で)
状況だけを聞けば、ロウがミズキを傷つけた。しかし、それは混乱の中で、誰かを守ろうとして起きた行き違い。
ミズキはそう受け止め、許してほしいと口にしている。
だが、今のタケルがその一言で引き下がるとは思えなかった。
(というか罰って、何をするつもりなんだ?もしかしなくても、相当過激なんじゃ……)
稲夫は生唾を飲みこむ
裁くべきか、赦すべきか。
村の規則を守ることは大事だ。だが、ミズキは許しているし、何より子供に過激な事は避けたい。だが、それではタケルが納得しない。
(あ、ヤバい。お腹痛くなってきた……)
判断に迷い、腹痛に襲われた時だった。
ミズキの表情が、ふっと変わる。何かに気づいたように、視線が稲夫の背後へと向いた。
それにつられるように、タケルの拳が強く握られる。表情が、さらに硬くなる。
何だ――と思って振り返った稲夫の視界に、ヒナタがロウの手を引いて立っていた。
(タイミング!タイミングが悪すぎる!)
稲夫は言葉を探すように視線を彷徨わせ、曖昧に笑った。だが、その笑みは長く保たず、すぐに口元が引きつる。
「あ……ヒナタちゃんにロウ……今はちょっと取り込んでて……」
「ロウ、ほら……」
ヒナタに促され、ロウが一歩前に出る。
すると、ミズキにぎこちなく頭を下げ、喉を震わせた。
「ゔぉ……ゔぉえんゔぁあい」
言葉になっていない。
それでも、必死さだけは伝わってきた。
「もしかして、謝っているのですか?」
ミズキが静かに尋ねる。その問いに、ヒナタが慌てて頷いた。
「は、はい!巫女様に、痛いことしてごめんなさいって……昨日、いっぱい練習しました……」
それから、ぎゅっと拳を握る。
「それと、ヒナタも危ないことしてごめんなさい……」
ロウに合わせてヒナタは深く頭を下げた。
ミズキは微笑み、二人の前に屈み目線を合わせる。
「謝れるのは、とても大切なことです。偉いですよ」
その言葉に、ヒナタの肩がほっと落ち、ロウは小さく身を縮めた。張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩む。
稲夫は一度、息を吐いてから前に出た。
「タケル、ロウは反省してる。それに、村の規則を教えるのをヒナタに任せきりにしてた俺にも責任がある。今回は、矛を収めてくれ」
タケルは歯を食いしばり、ロウを睨む。そして、低く、脅すように告げた。
「……次はない。次、同じことをすれば、俺が許さない」
低く、噛み殺すような声だった。ロウはびくりと身をすくめ、反射的にヒナタの背に隠れた。
タケルは視線を伏せたまま、何も言わなかった。納得していないのは明らかだったが、それ以上踏み込むことはしなかった。
(……重いな)
神らしく振る舞うということは、決める事。誰かを裁く事も、誰かを守る事もある。どちらも、簡単ではなかった。
それでも――逃げなかった。判断から目を逸らさず、この場に立っていた。
稲夫は、胸の奥に残る重さを抱えたまま、静かに息を吐いた。




