37話 〈四月下旬〉祈りの拠り所
ミズキはヒナタの手を引きながら、必死に脚を前へと運んでいた。足は重く、息も荒かったが、立ち止まることだけはできない。
「もう少し、もう少しだけ頑張ろうね?」
しかし、ヒナタの返事は弱々しい。それが恐ろしくて、ミズキは唇を噛みしめた。
「ヒナターッ!ロウーッ!」
ふいに、森に聞き慣れた声、稲夫の叫び声が響いた。
「ヒナター!返事してー!」
もう一つ、アキの声も重なる。その声は震えていて、押し込めた不安が滲んでいた。
「稲夫様!アキ様!」
声を振り絞って呼ぶと、木々の間からアキが飛び出す。
「ヒナタ!」
アキが飛びつくような勢いで駆け寄ってくる。その視線は、ミズキの影に隠れるように寄り添う小さな体へと向けられた。
「ヒナタ!まったく心配かけさせて!」
「お母さん……ごめんなさい……」
その少し後ろから稲夫も駆け寄ってくる。
「ミズキ!それにヒナタとロウ!二人ともアキさんからいなくなったって聞いて心配したよ」
安堵の色を見せたのも束の間、稲夫の視線がミズキの腕に吸い寄せられ、表情が強ばった。
「ミズキ、その腕どうした!?血が出ているじゃないか!」
「稲夫様、私は大丈夫です。ですが……」
喉がひりつく。けれど、伝えなければならない。ミズキは、絞り出すような声で言った。
「ヒナタちゃんが毒草を、トリカブトを口にしてしまいました……」
「え、トリカブト!?」
稲夫は安堵していた表情が一転、驚きで目を見開いた。
アキはミズキと稲夫の緊迫した表情を交互に見つめ、喉を震わせた。
「ど、毒草って……ヒナタは大丈夫なんですか……?」
「すぐに吐かせました。でも、既に毒が回っているかも分かりません」
言いながらミズキは、縋るような視線を稲夫に向けた。
「稲夫様。どうすれば良いのでしょうか。私にはもう、どうすることも……」
消え入りそうな声だった。神の理を知るこのお方なら、何か手立てを示してくれるのではないか——そんな、かすかな希望に縋るしかなかった。
「……すぐに吐かせられたのは本当に、よかった」
稲夫はひとつ、深く息を吐く。苦しそうに目を伏せた。
「だけど……すまない。俺には、どうすることもできない」
静かな、その言葉が、ずしりと重く胸に落ちてくる。
「どうすることも……」
そう呟いたのはアキだった。ヒナタの肩を、思わずきゅっと強く掴む。
「なんで……どうしてそんな危ない草を口にしたの!」
「ごめんなさい……」
ヒナタは胸元を押さえながら、小さく身を縮める。
「巫女様、最近ずっと元気なかったから……食べ物たくさん取ってきたら、巫女様も元気になるかもって……」
「……っ!」
その言葉に、ミズキの心臓が強く脈打った。
(私が、落ち込んでいたから?)
徒長させてしまった稲のこと。自分の未熟さ。巫女としての役目を果たせていないという思い。それらが常に思考を支配して気分が沈んでいた。
ヒナタは、それを子どもなりに感じ取っていたのだろう。
(私を元気づけようとして、こんなことに……)
胸の奥から、黒い後悔がせり上がる。
巫女として祈りを捧げ、皆の不安を和らげるはずだったのに。
いまの自分は、ただ取り乱して立ち尽くしているだけ——。
(母様だったら……)
ふと、先代の巫女——母の姿が脳裏に浮かんだ。
嵐を前に村人たちが怯えていた日。病で村人が倒れた日。母は常に人々の前で毅然として立ち、その姿に人々は救われていた。
(私は、なんて、無力なんでしょう)
悔しさが胸に滲む。
その隣で、稲夫もまた苦悩を抱え込むように顔を伏せた。
「もう、ヒナタが毒を全て吐き出せたことを祈るしかない」
誰もが死の不安と恐怖に飲み込まれそうになっていた。
皆の沈んだ顔を見た瞬間、胸の奥で、何かがはっきりと形を成した。
(そうだ……母は、巫女としていつも気高く立ち、皆の不安を静かに受け止めていた。なら、今それをすべきなのは——私だ)
ミズキはそっと顔を上げた。
「――皆さん」
震えそうになる声を、喉の奥で押さえ込む。ミズキは一度深く息を吸い、静かに告げた。
「私、巫女として神々に、ヒナタちゃんの無事を祈願します」
稲夫が、驚いたように目を瞬かせる。
「ミズキ?」
「ヒナタちゃんの命が、どうかこの手の届くところに留まってくれるように。まだこの子に明日の朝を与えてくださるように。私は、神々に祈ります」
その言葉には、不思議と迷いがなかった。
アキが涙に濡れた目を見開き、掠れた声で問う。
「巫女様……本当に、そんなことが?」
「ヒナタちゃんの命は、まだ神々の手から離れていません。ですので、どうか落ち着いてください」
短い沈黙のあとで、最初に口を開いたのは稲夫だった。
「ミズキ、俺も手伝う。必要なものがあれば、できる限り揃える」
「巫女様!ウチも手伝います!」
「稲夫様、アキ様、ありがとうございます。それでは、急いで村に戻り、儀の準備ををしましょう」
「はい。何でも、何でもします……」
アキは涙を拭い、ヒナタの髪をそっと撫でた。
「ロウ君も、ヒナタちゃんの側にいてあげてね」
「ぐうぅ……」
ロウはまだミズキの事を警戒しつつ、ヒナタを守るように寄り添っている。
その姿に、ミズキは胸の奥の緊張をひとつ深く飲み込む。
震える指先を胸元でそっと重ね、ミズキはまぶたを閉じた。
(どうか——神々に私の声が、届きますように)




