35話 〈四月下旬〉胸奥に残る冷たさ
翌朝――霧が薄く漂う中、ミズキは採集へ向かう前に、苗代の水面を確かめていた。
朝露を含んだ稲の苗は、かつての徒長の影もなく、太くまっすぐに立ち上がっている。
けれど、その光景を見ても昨夜、冷水を浴びたように感じたあの感覚がまだ胸に残っていた。
「気のせい、ですよね」
小さくつぶやき、水面を覗き込む。水面には不安な表情を隠せないでいる自分がいた。
「おつかれ、ミズキ。朝から熱心だな」
背後から聞き慣れた声がして、ミズキは顔を上げた。不安な表情を何とか取り繕い振り返ると、そこには鍬を担いだ稲夫が立っていた。
「水の加減も完璧だ。稲の状態もいい」
「……本当ですか?」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。張りつめていた気持ちがわずかに緩んだ気がした。
(ちゃんと……できていたんだ)
そう思う一方で、昨夜の“あの冷たさ”が、胸の奥ではまだしこりのように残っている。
完全に振り切れたわけではない。それでも、少しだけ前を向けた気がした。
稲夫は苗代を見回しながら、ふっと息をついた。
「これだけしっかり育ってるなら……そろそろ代掻きをしないとな」
「代掻き……ですか?」
「ああ。田植えの前に田を平らにならす作業だ。水を入れて土を平らに均すと、苗がしっかり根を張るようにしてやるんだ」
稲夫は稲の様子をまじまじと見ながら答える。その口調は穏やかで、自信に満ちていた。
「じゃあ、俺は代掻きに行くから」
稲夫が代掻きのために本田へ向かおうと背を向け歩き出す。
昨夜の冷水を浴びせられたような感覚を、相談するべきではないか。
そんな思いが胸をよぎり、気づけば声が出ていた。
「あの!稲夫様——!」
ゆっくりと振り返った稲夫の瞳が、まっすぐミズキを見た。
しかし、喉の奥が詰まり言葉にならなかった。
(これ以上、稲夫様に迷惑をかける訳にはいかない)
「……いえ、どうか頑張ってください」
無理に笑みを作り、深く頭を下げる。
稲夫は「ありがとう」と言うと、背を向けて歩き出し、ミズキの前から去っていった。
ミズキはしばらく、その背中が視界から消えていくのを見つめていた。
(言えなかった……)
胸の奥に、飲み込んだ言葉がまだ温かく残っている。
けれど、これ以上迷惑はかけられない——そう思った途端、唇は固く閉じてしまった。
気持ちを振り切るようにそっと息を整え、採集のために森へ向かおうと歩き出す。
(あれ?土器がない)
採集した物を入れるための土器を忘れていた。
ほんの些細なことだが、今のミズキには、それさえ自分の不甲斐なさを感じられた。
「……どうして、こんな基本的なこと……」
焦りとも苛立ちともつかない感情が混ざる。ミズキはため息とともに村へ戻っていった。
村に戻ると丁度、アキが外で粘土をこねていた。アキはミズキの姿を見るなり、首をかしげる。
「あれ、巫女様?採集に出られたのは?」
「その、これから採集にでます」
「え?でも、ヒナタとロウが『採集に行く』と言ってたので、てっきり巫女様について行ったものだと思ってたのですが……」
ヒナタとロウが見当たらない——
そう意識した瞬間、昨夜感じた“あの冷たいもの”が、胸の奥でかすかにざわめく。
(まさか。いや、考えすぎ……でも)
小さな違和感が、不安の影となって広がり始める。
「アキさん!私、探してきます!」
ミズキはほとんど反射的に駆け出していた。
その勢いに驚いたアキも慌てて立ち上がる。
「ウ、ウチも手伝います!」
二人はヒナタとロウを探しに村を飛び出す。
日差しが木々の間を揺れ、緑の葉がざわめいた。
ミズキの心には、どこか不穏な影が張りついていた。
(どうか、無事でいて……!)
心の中で強く祈る。
ミズキは不安を抱えたまま、木々の奥へと駆けていった。
※代掻き(しろかき)とは田んぼに水を入れて耕し、高さを均す作業です。
そうすると水深が均一になり、水の管理がしやすく、泥が細かくなり根がはりやすくなります。
現代では主にトラクターに器具を付けて行います。




