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第26話 〈四月中旬〉村を背負う者の決断

 日が傾き初め、森の影が濃くのびていた。

 稲夫は額の汗をぬぐいながら、必死に周囲へ視線を走らせた。


「どうだ!見つかったか⁉」


 声に焦りがにじむ。


「いえ……見つかりません……」


 ミズキが小さく首を振った。その顔には不安が色濃く浮かんでいる。


「まったくあの子は!一体どこに行ったんだか!」


 アキは腰に手を当て、苛立ちと心配が入り交じった声を上げた。

 その時、稲夫の視界の端に森から人影が映る。


「あれは……ツチハルとヒナタだ!」


「ヒナタ!」


「ヒナタちゃん!」


 三人は駆け寄った。

 アキが真っ先にヒナタを抱き寄せる。


「心配したんだから!それに、どうしたのそのケガ!」


「お母さん、巫女様……心配かけてごめんなさい」


 ヒナタは小さくうつむき、消え入りそうな声で謝った。


 その横には、腰まで伸びた黒髪の少年が立っていた。服は着ておらず、獣のような目で周囲をきょろきょろと見渡している。


「ヒナタが無事でよかったよ。一体何があった?それと、その子は一体?」


 ツチハルが一歩前へ出て答える。


「ヒナタは森で狼に襲われていました。その時、この少年が助けてくれたのです。ですが、この子は森で一人でいた為、放ってはおけず共に連れてきました」


 説明を聞いてアキは屈み、目線を合わせて優しく微笑む。


「ヒナタを助けてくれてありがとね」


「うぅ?」


 しかし少年は首をかしげるだけだった。

 何かを理解できないように、鼻を鳴らし、首を左右に振る。その仕草はどこか野生動物に近かった。


「なんだか不思議な子だな。しかもなんで裸なんだ?ひとまずこれを着るといい」


 そう言って、稲夫は自分の着ていた作業着の上着を脱ぎ、少年に着せる。

 袖はダブダブで手先が隠れ、裾も膝上まで垂れてしまう。だが、何も着ていないよりはずっとましだろう。


「がうぁ?」


 少年はきょとんとした顔をしながら、服を引っ張ったり叩いたりしている。


 その様子を見届けた後、ツチハルが声を落として稲夫に告げる。


「それと……もう一人。いえ、もう一匹、協力者がおります」


「もう一匹?」


「狼です。ヒナタとこの少年、それに私自身が助けられました」


 ツチハルの言葉に、アキとミズキが同時に驚いた顔を見せる。

 稲夫も面食らう。狼が……助けた?


「実は、その狼を猟犬として育てられぬかと考えております。今は戦士長と共に村の外れに待機しております」


 思いもよらぬ言葉に、場の空気が凍りついた。


「……狼を、猟犬に?」


 ようやく絞り出した稲夫の問いに、ツチハルは真剣な面持ちで頷いた。


「はい。現状、拠点が完成しても村を守るのに人手が足りません。もし猟犬が加われば村の守りは格段に強まるはずです」


「……でも、本当に狼を猟犬にできるのか?誰かが襲われたりしないか?」


 稲夫の声には迷いがにじむ。


「保証はできません。ですが、見極める価値はあると考えております」


 ツチハルは言葉を区切り、稲夫の目をまっすぐに見つめた。


「……わかった。まずは見てみよう」


「ありがとうございます。では案内します」


 ツチハルの説明を受け、稲夫達はツチハルに案内され村の外れに向かう。

 村はずれの林に差しかかると、木立の陰にタケルの姿が見える。その隣には、灰色の大きな姿があった。


 ——狼だ。


 太い縄を首に通され、木の幹に結わえられている。

 夕陽を浴びて銀色に光る毛並みが風に揺れ、黄金の双眸がじっと稲夫たちを射抜いた。

 牙を剥くことも唸り声を上げることもない。ただ沈黙のまま、値踏みするかのように目を細めていた。


「来たか」


 タケルは矛を手にしたまま、稲夫達を見やった。


「驚いたな……一体どうやって、ここまで連れてきたんだ?まさか縄で引いてきたのか?」


 稲夫の問いに、タケルは小さく首を振った。


「いえ、その少年の後を自然と追ってきたのです。まるで当然のように。抵抗も、唸り声すらありませんでした」


 ふと、少年が一歩近づく。すると狼はかすかに耳を伏せ、低く鼻を鳴らした。

 威嚇ではない。まるで『仲間に向ける合図』のように見えて、ただの獣の反応とは思えなかった。


 稲夫は息をのむ。


 ただの獣なら考えられない。まるで言葉ではない何かで、通じ合っているかのようだった。


「訓練は俺が行います。稲夫様、この狼を猟犬として迎え入れるかどうか、最後の決断をお願いします」


 稲夫は改めて狼を見る。

 こちらを威嚇するわけでもなく、ただ静かにじっと佇んでいる。

 少年の後を自然と付いてきた件も含め、この狼は相当賢く、ただの狼でないことはわかった。


 しかし、稲夫には理解できない事があった。


(何で、俺に許可を求めているんだ?)


 猟犬や村の防衛ならタケルやツチハルの方がよっぽど詳しいはずだ。

 なのになぜ自分に許可を求めるのか、分からなかった。


 ——だが、気づく。


 周囲の視線が、自分を見ている。

 アキも、ミズキも、ツチハルも。

 そしてタケルさえも、決定を委ねようとしている。


(そうか。俺は、こいつらにとって……)


 稲夫は神として祀られ、村を導く存在に仕立て上げられていたのだ。

 これまでは『正体がばれれば殺される』という理由で、仕方なく神を演じてきた。

 だが今、目の前にいる皆は、演技ではなく本気で『稲夫の判断』を求めている。

 神として祀られるということは、そのまま村を背負うという事だと今更気が付いた。


(もし受け入れれば、村の守りは強まる。だが、もし牙を向けたら……誰かが死ぬかもしれない)


 背筋に冷たい汗が伝う。

 神のふりをしてきただけの米農家に、命の重さを秤にかける決断が迫られている。

 もし誤れば、仲間の命が失われるかもしれない。


 そんな重みを、背負いきれるだろうか。 

 稲夫は深く息を吸い、迷いを隠せぬ声で仲間へ問いかけた。


「……皆は、どう思う?」


 アキが腕を組み、真剣に答える。


「正直、怖いよ。けど、ウチは提案したツチハルを信じる。受け入れてもいい」


 ミズキもまた、静かにうなずいた。


「私も……兄様を信じて、狼を受け入れます」


 二人の言葉は稲夫の胸に重く響いた。

 普段から支えてくれるツチハルとタケル。その判断を信じるかどうか――。


(……本当に、俺なんかに決めさせていいのか?)


 それでも皆は自分を見ている。

 逃げることも、黙ってやり過ごすことも許されなかった。


 稲夫はしばし沈黙し、やがて唇を湿らせて言葉を押し出す。


「……わかった。狼を受け入れよう」


 決断を口にした瞬間、胸の奥で何かが固まった気がした。

 それはまだ覚悟と呼ぶには頼りない。だが、神のふりをした『演技』ではなく、村を背負おうとする者の『決断』だった。

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