第25話 〈四月中旬〉血煙の森
ヒナタ達を取り囲んでいた茶色の毛並みをした狼達が一斉に飛びかかってきた。
その狙いは、ヒナタの前に立ちふさがる大きな灰色の狼だった。
「ガゥウッ!」
灰色の狼は頭を前脚で薙ぎ払う。
爪が肉を裂き、狼達の一匹が地面に叩きつけられた。次の瞬間、鋭い牙が喉笛に食い込み、血が噴き出す。
「きゃっ……!」
赤黒い飛沫が吹き出し、ヒナタは悲鳴を上げる。
別の狼が灰色の狼の背に飛びつき、牙をむく。
「ギャオン!」と耳をつんざく悲鳴が森に響き渡る。
しかし体格で勝る灰色の狼は引き倒されることなく、噛みつかれたまま、噛みついてきた狼の頭を丸ごと咥えた。
ゴキゴキッ……。
骨が砕ける鈍い音。
噛み砕かれた狼が力なく崩れ落ち、地面を赤く染める。
「あ、うぁ……」
目の前で繰り広げられる凄惨な光景に、ヒナタの体は硬直し立ち尽くしていた。
今まで命のやり取りを体験したことのないヒナタにとって、恐怖で思考を奪うには十分だった。
そこに、群れの狼の一匹がヒナタめがけて飛びかかってきた。
「ひっ!」
恐怖の悲鳴が漏れる。
「ゔぁあ!」
だが次の瞬間、少年が躍り出た。
先端を尖らせた骨片を突き出し、狼の脇腹に突き立てる。
「ガゥンッ!」
狼は悲鳴を上げ、身を翻して距離を取る。
しかし、狼は低く身を伏せ、再び隙を伺う。
「ぐうぅ……」
少年もまた背を丸め、骨片を構えて同じように威嚇する。その姿はまるで一頭の狼そのものだった。
しかし、茂みがざわめき新たな狼が血に誘われ現れる。
少年はヒナタを背にかばい、じりじりと後退し追い込まれていった。
——その時。
「ヒナタァァ!」
怒号が森を震わせた。
「お父さん!」
ヒナタの顔がぱっと輝く。
茂みをかき分け、ツチハルが飛び込んできた。
「うぉおおおおおお!」
ツチハルは声を張り上げ、手に持った槍をヒナタ達を取り巻く狼の脇腹へ渾身の力で突きを放った。
「グギャ!」
穂先が肉を割き、手応えが腕に伝わる。だが狼は倒れない。喉の奥から唸り声を漏らし、暴れるようにのたうった。
ツチハルは必死に槍を押し込み、体重をかけて地面に押さえつけようとする。
「ハァ、ハァ……!」
ツチハルが荒く息をつく。だがすぐに、別の狼が牙を剥き、横合いからもう一頭の狼が飛びかかってきた。
ツチハルは慌てて槍を引き抜き追い払おうとする。
だが穂先は肉に深々と食い込み、まるで岩に刺さったかのように抜けない。
「しまっ……!」
とっさに身構えた瞬間、灰色の影が横から飛び込んだ。
灰色の毛並みの狼が鋭い爪で襲いかかる狼を薙ぎ払い、血を噴かせながら吹き飛ばす。
吹き飛ばされた狼はごろごろと地面を転がり、茂みに消えていった。
「こ、これは一体……」
ツチハルは息を呑んだ。まるで狼が自分をかばったような状況に困惑する。
その隙に、茂みから別の影が姿を現す。
鉄の矛を携えたタケルだった。
「ツチハル!無茶をするな!」
鋭く叱りつけながら、タケルは疾駆する。
目にも止まらぬ速さで狼達の横に回り込み、矛を突き立てた。
ズブリッ。
穂先は胸板を深々と貫き、心臓を穿つ。
狼は「ギギィ゙」と鳴き崩れ落る。返り血がタケルに降りかかった。
底に、別の狼が飛びかかる。タケルは矛に突き刺さった死骸を振り払い、その勢いのまま矛を突き出す。矛は狼の肩口を裂き、胸を貫き串刺しにした。
「ギギャンッ!」
さらに、もう一匹が足を狙って牙を剥いた。
タケルは素早く足を跳ね上げ、逆にその首を踏みつけて地面に押さえ込む。
矛を振りかぶり、すでに血で濡れた穂先を、踏みつけた狼の脳天へ深々と突き立てた。
ドスン!
地を揺らす一撃とともに、狼は声を上げることもできず絶命した。
返り血と屍の山に怯えた狼の群れは、低い唸り声を漏らしつつ、ついに踵を返して逃げ去っていった。
——戦いは終わった。
血の匂いが充満し、森に不気味な静けさが戻る。
タケルは矛に突き刺さった狼を足蹴にして矛から抜き払う。
そして、すぐに灰色の狼へ向き直った。ヒナタと少年を庇うように立つその狼に、血で染まった矛先を向ける。
「やめて!」
ヒナタが飛び出し、狼の前に立った。
「この子と、この狼はヒナタを助けてくれたの!だから、殺さないで!」
恐怖で声が震えていた。
目に涙を浮かべながらも、必死でタケルに訴える。
しかし、タケルは一歩も引かず、目を細めた。
「……ヒナタ。その狼はおそらく縄張りを守っただけだ。信用するな」
「でも……でも……!」
食い下がるヒナタに、タケルはため息をつき、冷たく告げる。
「少年は保護しよう。だが狼は、ここで仕留める」
タケルは再び矛を構え直す。
その時、ツチハルが声を上げた。
「戦士長。この狼、猟犬にしてみてはいかがでしょうか?」
「ツチハル。本気で言っているのか?猟犬など、そう簡単に育つものではない」
タケルの目は鋭く光り、ツチハルを睨む。
「承知しています。ですが、この狼はヒナタや我らを守るように振る舞っていました。今も私たちに威嚇すらもしてこない。適性は十分かと」
「仮に猟犬の適性があっとしても、野生の狼を村に受け入れる危険を冒せない」
タケルはツチハルの意見に真っ向から反対した。その声色からは、一切の譲歩はないと言わんばかりだった。
「戦士長……私は、拠点が完成しても、今のままでは村を守れないと思っています」
「何だと?」
「戦士長は強い。ですが……私は弱い。狼一匹に後れを取りそうになる始末です」
ツチハルは手に持つ槍を握りしめ、絞り出すように答えた。
「このまま拠点が完成しても守るための人手が足りないと考えています。猟犬が加われば、その負担を補えるでしょう。どうか、ご検討を」
ツチハルの言葉に、タケルは黙り込む。
森の静けさの中で、矛先だけがなおも揺れていた。
やがてタケルは深く息を吐き、矛を下ろす。
「……分かった。狼は俺が監視する。猟犬として育つかどうか、俺が見極める。だが、その間俺は堀を掘れん。ツチハル、お前が俺の分まで堀を掘れ。それが条件だ。もっとも、稲夫様の許しが出たらだがな」
「わかりました。無理な申し出に応じていただき、感謝します」
ツチハルはタケルに頭を垂れた。
「あ、ありがとうございます……タケルさん!」
ヒナタは涙をこぼしながら笑い、タケルに頭を下げる。
血に染まった森の中で、その笑顔だけがひときわ眩しかった。




