第18話 苗代の守人
空気にまだ朝の冷気が残るなか、稲夫は一人、本田予定地の端にしゃがみ込んでいた。
前日までに草を抜き、土をならした場所は、踏みしめるたびに柔らかく沈み込む。
整地は一区切りついた。今日は、水を引き込むための水路づくりだ。
「川から取水して、この辺りを回して……排水はあっちか」
田んぼは水が命だ。水が滞れば苗が腐るし、流れすぎれば乾く。水の入り口と出口、その高低差を正確にとらえないといけない。
取水口から本田まで、水の通り道を掘り進めていく。水がきちんと流れるよう、溝の傾斜にも気を配る。
額の汗を拭いながら、ふと目をやった先――苗代の方に、小柄な影がしゃがみ込んでいるのが見えた。
「……また来てるのか、ミズキ」
思わず呟く声に、どこか苦笑が混じった。
昨日も一昨日も、毎朝必ず苗代に足を運んでいる。稲のことが気になって仕方ないのだろう。
芽が出て数日しか経っていないというのに、まるで母鳥のように目を離さない。
気になって、稲夫は鍬を肩に掛けたまま苗代へと向かった。
「おはよう、ミズキ。今日も来てたんだな」
声をかけると、ミズキははっとして立ち上がった。
「あっ……おはようございます、稲夫様。その、つい気になって……」
「まあ、自分で撒いたもんだしな。気になるのは当たり前だ」
そう言って稲夫は横に並び、苗代を見下ろす。
芽吹いた稲たちはまだ心もとないが、それでも、小さな命がしっかりと根を張ろうとしているのがわかる。
「……はい。ただ……ちゃんと育ってくれるか、不安で」
ミズキはうつむいた。風に揺れる若芽よりも、彼女の声のほうが細く頼りなくきこえた。
「……私は、採取ぐらいしかできていません。戦うことも、鍬を振るうこともできない。だからこの稲だけは、ちゃんと育ってくれたらって……」
稲夫は思わず、隣に並んでしゃがみこんだ。
「ミズキ、お前が役に立ってないなんて思ったこと、一度もないぞ」
「……そう言ってくださるのは、嬉しいです。でも……」
ミズキは微笑もうとしたが、その表情はどこか浮かない。声の奥に滲むのは、まだ自分に自信を持てない少女の心だ。
稲夫はしばし考えたのち、ふと何かを思いついたように手を打った。
「じゃあさ、苗代の管理をしてくれないか?」
「私に、ですか?でも……私、うまくできるかどうか……」
「大丈夫だよ。ミズキがこの苗を大事に思ってるなら、それだけで十分だ。やり方は俺が教えるから」
稲夫は苗代の端にしゃがみ込み、取水口を開け閉めしながら、水路からの水の流れ具合を確かめた。
地表がうっすら湿る程度にとどめ、わざと小さな溝を掘って余分な水を外へ逃がしていく。
「芽吹いた今は、このくらい湿ってれば十分だ。常に水を張るんじゃなくて、乾きすぎないようにしておくだけでいいんだよ」
「……たったこれだけで?」
隣で見守っていたミズキが、少し拍子抜けしたように呟いた。
「……わかりました。私、やってみます」
ミズキは小さく頷いた。その声音には、ほんのわずかだが決意がこもっていた。
稲夫はそっと立ち上がると、軽く泥を払って言う。
「任せたぞ、ミズキ。お前なら大丈夫だ」
稲夫はそう言って微笑み、本田へと向かった。鍬を手に、再び水路を掘り進める。
日が傾き、影が長く伸びる頃には、ようやく本田の片側に沿うように一本の水路が形になっていた。
風がやみ、虫の声が静かに響いていた。ひとまずの仕事を終えた合図のように。
一通りの作業を終えて拠点に戻ると、タケルが待っていた。
「稲夫様。井戸、完成しました」
「はやっ!?」
思わず声が裏返った。あれは数日前に掘り始めたばかりだ。深さも必要な作業のはずが、もう完成?
半信半疑のまま、稲夫は井戸のそばまで足を運ぶ。
そこには、丁寧に木枠で囲われた円形の穴があり、深く掘り下げられた底には、湧き出た水が青黒くたまっていた。
(……本当に、水が出てる……こいつ、本当に人間か?)
「頑張りました」
タケルはどこか誇らしげに胸を張った。
「いや、頑張ってどうにかなる作業じゃないだろ、これ……」
土の硬さや深さを思えば、これを数日で完成させるなど、人間業とは思えない。フィジカルモンスターにも程がある。
引き気味になりつつも、稲夫は「ありがとう」と声をかける。
するとタケルが、やや真剣な表情で口を開いた。
「井戸も完成し、いずれ土器も使えるようになります。生活が安定してきた今、防衛のことも考えるべきではないでしょうか」
「防衛、か……」
稲夫は表情を引き締めた。確かに、家を建て、井戸を掘り、土器を作る段階まで来ている。次に備えるべきは、外からの脅威。
「ご助言いただければ、すぐにでも準備を始めます」
「……か、考えておくよ」
短くそう答えて、稲夫は話を切った。
だが内心は、ぐちゃぐちゃだった。
(防衛って、どうすればいいんだ……塀か?罠か?武器を作る?人を集める?)
当然ながら拠点の防衛など専門外だ。何一つわからない。
とはいえ、豊穣神としての威厳を保つため、稲夫はわざとらしく腕を組み、うんうんと首をひねってみせる。
(正直何もわかっちゃいないが、無様な姿を晒したら最後、あのフィジカルモンスターに矛で串刺しだ)
だが、いくら考えても答えは出ない。
「……はあ」
稲夫は、ぽつりとため息をついて顔を上げた。お手上げだ、という気持ちを込めて。
空はすでに夕闇に染まり、山の端に日が沈みかけている。
あたりには薄明かりが漂い、夜の帳が少しずつ村を包み込みはじめていた。
高く、どこまでも澄んだ空に、一番星がひとつ、またひとつと瞬きはじめる。
「……星か」
ぼんやりと見上げた星空は、どこか懐かしく、そして不意にある形が浮かんだ。
五つの点が、等間隔に繋がっている。まるで空に浮かぶその形が、稲夫の記憶を呼び覚ますかのように。
五角形。いや、星の形——いや、あれは。
「……五稜郭」
口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
(あれなら、防衛にも向いてる……かもしれない。いや、作れるのか? でも、他に案はないし……)
それでも、一筋の光が差した気がした。
「いっそ、やってみるか……」
空には、静かにまたたく星々。
それはまるで、道なき夜を照らす灯火のようだった。