第16話 始まりの芽、未来の器
朝の空気は冷たさを残しつつも、どこか柔らかさが感じられるものだった。昨日までの曇天が嘘のように、青空が広がっている。
稲夫は本田の作業のため、早朝から本田へ向かっていた。既にに草抜きと整地はひととおり終えており、今日からは水路作りに取りかかる予定だった。
ふと前方に人の気配を感じる。目を凝らすと、苗代のあたりにしゃがみ込むミズキの姿があった。
「……ミズキ?」
呼びかけると、ミズキがぱっとこちらを振り返った。
「稲夫様!見てください、芽が……芽が出ました!」
その顔は嬉しさで輝いていた。近づいて見ると、苗代の土の表面から、小さな緑の芽がいくつも顔をのぞかせている。
昨日まで何もなかった場所に、生命の兆しが確かに芽吹いていた。
「……本当だ」
稲夫はしゃがみ込み、苗の一本をそっと指でつつく。まだ細くて柔らかいが、芯にはしっかりとした力があった。
(寒さで時間がかかったが……出てきてくれて、よかった)
「丁寧に撒いてくれたおかげだな。ミズキ、本当にありがとう」
「……っ、ありがとうございます!」
ミズキは胸元でそっと手を握りしめ、顔をほころばせる。その笑顔には、胸をなでおろすような安堵と、自分の手でやり遂げたという達成感がにじんでいた。
そんな二人のやりとりを見ていたのか、少し離れた場所から声がかかった。
「なになに?何かいいことでもあったの?」
振り返ると、アキが土器を抱えてこちらへ歩いてきていた。そのすぐ隣にはヒナタの姿もある。
「アキさん、おはようございます。ミズキが撒いた種籾、芽が出たんですよ」
「へぇ、そりゃよかった!見せて見せて!」
「ヒナタも見るー!」
二人はしゃがみ込み、泥の中から顔を出した小さな芽をじっと見つめた。
そのとき、稲夫はアキが抱える土器に目を留める。中にはねっとりとした物が詰まっていた。
「あれ、それって……粘土ですか?」
「そうよ。土器を作るために、さきほど川のほうで採ってたの」
尋ねると、アキが顔を上げてにっこりと頷き、土器の中身を見せるように傾けた。
中には灰色がかった柔らかい粘土がぎっしりと詰まっている。
「ヒナタが手伝ってくれてね。ほら、ヒナタ、自慢してあげな」
「ヒナタ、いっぱいあつめたの!すごいでしょ!」
自慢げに胸を張るヒナタに、ミズキと稲夫が笑顔を向ける。
「それは助かるよ、ヒナタ。ありがとうな」
「えへへー」
ヒナタは鼻を高くして笑う。その様子を見守りながら、アキが土器を軽く掲げて続けた。
「水を汲むのも煮炊きも、今は使える土器がほとんどないから、急いで作っておきたいのよね」
そう言って、ふっと表情を引き締める。
「本当なら、不純物をじっくり取り除いて、粘土を寝かせてから使うのが理想なんだけど……まずは使えるものを増やさなきゃ」
「確かに……今、使える土器って、種籾が入ってたこの一つだけですもんね」
稲夫が呟くと、アキは静かに頷いた。そのとき、ミズキがおずおずと口を開いた。
「あの……少し試してみたいことがあるんです。この粘土、使わせてもらってもいいですか?」
「もちろん。試したいって、なにか思いついたの?」
ミズキは感謝の言葉を述べ、川辺まで土器を運んでいく。水をたっぷりと注ぎ、粘土をかき混ぜる。
水の中で粘土がゆっくりとほぐれ、やがて濁った泥水へと変わった。
しばらくすると表面に、細かい砂粒や小さなゴミがぷかぷかと浮かび、粘土だけが底へと沈んでいた。
「……これは、水選……?」
稲夫が息を呑む。完全に分離とまではいかないが、それでもかなり選別できているようだった。
「前に種籾を選ぶ時、水の神が重いものと軽いものを分けるって教わって……それを思い出して、粘土にも使えるかもって……」
ミズキはそう説明しながらも、どこか不安げな様子だった。
「いや、すごいよミズキ。ほんとに。よく覚えてたな」
「……教えてもらったことが、ちゃんと役に立って、嬉しいです」
ミズキは控えめに笑った。その笑みには、誇らしさとほんの少しの照れが混じっていた。
「ウチは今まで、練ってるときに指の感覚でゴミを取り除いてたんだけど、これなら最初から分けられる。楽だし早い、こりゃいいね!」
アキは粘土の入った土器を覗き込むと、目を輝かせながら稲夫の方を振り返った。
「この方法なら、粘土もすぐに集まる。うん、土器はウチが作るから、任せて!」
力強く断言するアキの声には、頼もしさとやる気が満ちていた。
稲夫は少し驚きながらも、その熱意に思わず笑みをこぼす。
「じゃあ……お願いします、アキさん。作っていただけるなら、本当に助かります」
「ふふ、まかせといて。ヒナタもまた手伝ってくれるわよね?」
「うんっ! ヒナタ、もっと集めてくる!」
元気に返事をするヒナタに、ミズキが柔らかく目を細め、稲夫も心の中でひとつ息をついた。
青空と朝日、芽吹いた苗と湿った粘土。
その場にはたしかに、新しい暮らしの始まりが息づいていた。