第13話 その手が届くうちに
雨が上がったばかりの山道には、湿った土の匂いが立ちこめ、踏み出すたびに足元からぐちゅ、と鈍い音が響いた。
タケルの後に続く稲夫の足元には、そこかしこに崩れかけの岩や倒木が転がっている。草の根や露出した木の根を手がかりに、稲男は慎重に身を進める。
「この先です。地面が脆いので、気を付けてください」
先を歩くタケルが、振り返りもせずに低く告げた。すでに現場の危険性を知る彼は、迷いのない足取りで稲夫を導いている。
やがて、視界が開けた。そこには、大きな倒木が横たわり、その上からさらに土砂が斜めに覆いかぶさるように積もっていた。
そして、倒木と土砂の下――ぬれた泥に半ば埋もれるようにして、人影が横たわっていた。
「ツチハル!」
タケルが駆け寄ると、わずかに動いた顔がこちらを向いた。髭をたくわえた精悍な顔立ちに、泥と汗が混じる。
息は浅く、目の焦点も定まらない。その表情は、まるで魂ごと押し潰されたかのようだった。
「……戦士長……また、来てくださいましたか」
男の声はかすれていたが、どこか安堵の色を含んでいた。
「当たり前だ」
タケルは静かに頷き、言葉に力を込める。
「あなたが、稲夫殿……か」
じっとこちらを見据えるその眼差しに、稲男は真っすぐに応えた。
「はい。あなたを助けに来ました!」
ツチハルは稲夫の顔をしばし見つめたあと、短く頷いた。
「ありがたい……が、この通り。木が体を押さえつけていて……もう、力が……」
「無駄口はいい、喋るな。すぐに木をどかす!」
タケルは倒木の根元に腕をかけ、力を込めるが――びくともしない。
稲夫も脇から手を伸ばし木をどかそうとするが、木そのものがあまりに太く、持ち上げるどころかずらすことも困難だった。
「これは……土砂をどかさないと無理だ。タケル!」
「分かってる!」
タケルが矛で周囲の土をかき分けようとするが、すぐに顔をしかめた。
「湿った土が重すぎる。上からまた崩れてきそうだ……!」
その瞬間だった。
上の斜面から、カラカラと石が転がる音がした。
稲夫の背筋が凍る。
「来るぞっ!」
轟音とともに、土砂と木が混ざり合った塊が滑り落ちてきた。
二人はとっさにツチハルを覆うようにして身を伏せた。落ちた木の一部が、すでに倒れていた木の幹に引っかかる。
辛うじてツチハルの上には落ちなかったが、状況はさらに悪化していた。
「……私の事はいい……娘を、ヒナタを探してやってくれ……」
その声は、掠れ、弱々しいが、はっきりしていた。
「娘は無事だ」
タケルは土砂をどかしながらツチハルに答えた。
「安心してください。ヒナタちゃんは、お母さんと再会できました。二人でツチハルさんの事を待ってます」
ツチハルの目がわずかに見開かれる。そして、安心したように目を閉じかけた。
「そうか……それなら、私はもういい……二人を頼む」
一瞬、稲夫の胸が凍るように締めつけられた。
雨に濡れ、泥に埋もれ、体力も尽きようとしている男が、それでも家族のことを想っている。
その言葉に、心の奥に溜まっていた思いが、堰を切ったようにあふれた。
「……ツチハルさん……」
低く、しかしはっきりとした声で呼びかけたあと、稲夫はぐっと顔を上げる。
「あなたは、帰らないといけないんです!」
湧きあがる感情を押さえきれず、怒鳴るような声になった。
「ヒナタちゃんも、アキさんも、あなたの事を待ってるんです!あなたが諦めたら……ヒナタちゃんは、親をなくすことになるんですよ!」
一瞬、ツチハルのまぶたがぴくりと動いた。そのわずかな反応に、稲夫はさらに言葉を重ねる。
「そんな思いを、誰にもさせたくないんです……!」
声が震えていた。拳を握りしめる手に、泥と水が滴った。
「だから、生きてください。お願いです!」
稲夫の瞳に宿った決意を見て、ツチハルのまなじりがわずかに震える。
「……すまん。頼む」
ツチハルの声はかすれていたが、その眼差しには確かな希望の光が宿っていた。
その想いを真正面から受け止め、稲夫は大きく頷いた。
「タケル!この倒木の下に穴を掘ってくれ!梃子で動かす!」
「梃子?……わかりました。穴を掘ればよいのですね」
一瞬、タケルの眉が跳ね上がったが、すぐに矛を構え、木の根元に矛の刃を突き立てるようにして掘り進めた。
稲夫は先ほどの土砂で運ばれた周囲の木を素早く集めた。中でも太くてしっかりしたものを選んでいく。
「これでどうでしょうか!」
「十分だ!ありがとう!」
稲夫は支点に石を挟みながら、梃子となる木を複数、掘られた穴に押し込む。
「タケル、俺の合図で一緒にこの木を下に押し込んでくれ!」
「お任せを!」
一瞬だけ目が合う。言葉少なでも、そこには確かな信頼があった。
「いくぞ、せーの!」
二人は呼吸を合わせ、梃子の原理で倒木を持ち上げる。
ギギィと木が軋む音と共に、土と木の重みがずるりとずれて、少しだけ空間が生まれた。
「ツチハルさん、今です!這い出してください!」
「うおぉぉぉっ!」
歯を食いしばったツチハルの顔が、泥まみれの腕と共にずるずると木の下から這い出る。
「もう少し、あと……少し……!」
稲夫とタケルの腕も震え、限界まで軋む木が不気味に鳴った。
――そして
「……出ました!」
ツチハルの体が、倒木の下から完全に抜けた。
――バキン
ツチハルが這い出て少しも経たぬ内に音とともに梃子として支えていた木々が折れる。
持ち上げられていた倒木が土砂と共に地面に叩きつけられた。
すぐさま足元がごう、と鳴り、さきほどツチハルがいた場所が崩れ土砂に飲まれる。
三人はしばらく息をついたまま、音の収まった崩落跡を見つめていた。
「……危なかった……」
タケルが低く呟いた。
「ありがとう。命を、助けていただいた」
ツチハルがかすれた声でそう言い、稲男に頭を下げる。
稲夫はそれを遮るように笑った。
「まだ終わりじゃありません。奥さんとヒナタちゃんが待ってます。さ、帰りましょう」
そう言って、稲夫はツチハルに肩を貸した。
ツチハルの目が潤み、何も言わずに頷く。
そして三人は、彼を待つ家族のもとへと戻っていった。
***
岩場を抜け、仮住まいのあった岩屋へ戻ると、ミズキとアキ、ヒナタがこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「ツチハル?」
その名を呼ぶと、ツチハルが手を広げた。もう、言葉はいらなかった。
次の瞬間、二人の体が激しくぶつかり合うように抱きしめ合う。
「ツチハル……っ!本当に……帰ってきてくれてよかった……!」
「ただいま、アキ。心配をかけて、すまなかった」
言葉は震え、涙が頬を伝う。抱き合ったまま、二人はしばらく何も言えなかった。生きて、再びこの手で触れ合えた事実だけが、互いの体を震わせていた。
そしてその隣で、ヒナタが一歩、また一歩と近づき、両手を伸ばした。
「お父さんっ!」
「ヒナタ!」
ツチハルは思わず膝をつき、その小さな体を胸に引き寄せる。泥で汚れた手が、娘の髪をそっと撫でた。
「よかった……よかった……!」
ヒナタも、父の首に腕を回し、しゃくりあげながら何度も何度も頷いた。
家族が、ようやく一つになった。
その光景を少し離れて見守っていた稲夫は、泥だらけの足元にそっと視線を落とし、静かに息を吐いた。
命は、たしかに繋がった。
誰かが誰かを思い、誰かがその想いに応えた結果だった。
――救えてよかった。本当に。
雲間からのぞいた淡い陽射しが、ぬかるんだ地面と、寄り添う家族の背に優しく降り注いでいた。