12話 約束
夜が明け、四人は川をさかのぼるように歩き始めた。
先頭のタケルが矛を携え周囲を警戒し、稲男は弓を背に後を追う。
ヒナタはミズキの手を握り、三番手を静かに歩いていた。茶色の瞳が不安げに揺れ、視線は時おり立ち止まりそうに足元を彷徨う。
そんなとき、ミズキはそっと膝を折り、視線の高さを合わせた。草の揺れる音に混じって、ふわりと笑みが浮かぶ。
「大丈夫ですよ、ヒナタちゃん。焦らなくていいんです。ちゃんと、見つけましょうね」
ヒナタは少しだけ目を見開き、こくりと頷く。そして、心を決めたようにもう一歩、足を前に出す。
稲夫はふとその様子を振り返り、微笑む。
(不安だろうに……泣かずについてきて、偉いな)
それからしばらく、流木や崩れた岩を避けながら一行はさらに上流へと進んでいった。
ヒナタがふと立ち止まり、辺りを見回すようにしてつぶやいた。
「このあたり……見覚えが……あるかも」
稲夫とミズキが足を止め、ヒナタの様子を見守る。タケルはすでに十歩ほど先を進んでいたが、振り返って立ち止まった。
「何か、思い出したのか?」
ヒナタは小さく頷くと、川辺の大きな石に駆け寄り、手を添えた。そして、ぱっと顔を明るくした。
「これです……この石、亀みたいな形で……ここから少し先に、仮の住まいがあったんです!」
その声に、稲夫たちは顔を見合わせる。
「よし、案内してくれ」
頷いたヒナタが小走りで先導する。その足取りはさきほどまでの不安げなそれとは違い、確かな目的に向かうような力強さがあった。
林を抜け、川沿いを進むこと数分。岩が折り重なったような地形の先に、仮住まいらしき岩屋が見えた。いくつかの食料や簡素な道具が見え隠れしている。
そしてその傍ら――
「あ……あれ、おかあさん……!」
ヒナタが声を上げ、走り出した。
岩屋の前で腰を下ろし、根菜の様な植物の皮を石包丁で剥いていた一人の女性が、その声に気づいて顔を上げた。
「ヒナタ……?」
顔をあげた女性の姿に、稲夫の視線が自然と止まる。
栗色がかった長い髪は簡素に後ろで束ねられ、頬にかかる前髪の隙間から覗く瞳は、ヒナタと同じ柔らかな茶色だった。
女性はヒナタが駆け寄るのを見ると目を見開いた。
そして、石包丁を放りながら、立ち上がる。
次の瞬間、少女とその女性は駆け寄り、がしりと抱き合った。
「おかあさん!」
「バカ……バカっ……! どこ行ってたのよ……!」
叫びにも似た声が、岩の切れ目に響く。その腕の中で、ヒナタは小さな体を震わせながら顔を埋めた。
瞳には堰を切ったような涙があふれ、声にならない嗚咽が喉を震わせていた。
「ご、ごめんなさい……っ」
ヒナタがしゃくりあげながら、ようやく言葉をつむぐ。
「おかあさんに言われて……水を汲みに行ったの……でも、土器を落として……拾おうとして、川に……」
絞り出すような声に、母親は肩を震わせた。母親はヒナタの髪を撫でながら、その背をきつく抱きしめた。
「土器なんてどうでもいいのよ!また作れば済むことよ!」
強く、しかし優しい声だった。
「ヒナタが生きて、ここに戻ってきてくれただけで……お母さん、ほんとに、それだけで……っ!」
稲夫たちは少し離れて見守っていたが、その場に流れる安堵の空気に、誰も言葉を挟むことはしなかった。
そして、感情がほんの少し落ち着いたと見て、静かにミズキが二人に近づき声をかける。
「アキ様、ご無事で何よりです」
その声にアキが顔を上げ、驚きに目を見開いた。
「巫女様!?ご無事だったのですね!」
ミズキはそっと頷き、「はい、なんとか」と静かに言葉を重ねる。
「ヒナタちゃんは川で溺れていて、危ないところでしたが……稲夫様が、命を賭して救ってくださったのです」
アキと呼ばれた母親は唇を震わせ、稲夫の方へ向き直る。涙を拭いきれぬまま、深く頭を下げた。
「このたびは……このたびは、本当に……娘を助けていただき、ありがとうございます……!」
額を地につけるほどの勢いで頭を垂れたアキに、稲夫は思わず手を振って立ち上がる。
「いえ、ヒナタちゃんが無事でよかったです。こうしてご両親とも再会できた。それだけで、俺は十分です」
稲夫が微笑むと、アキは一瞬驚いたように目を瞬き、それから柔らかく目元をゆるめた。疲れと安堵の混ざった表情は、母親そのものだった。
そのとき、後方で周囲を見張っていたタケルが一歩前に出る。
「ご主人も、ご無事ですか?」
低く落ち着いた声に、アキははっとして顔を上げる。少し逡巡した後、静かに頷いた。
「はい……無事です。ただ、見つからないヒナタを探しに……足場の悪い上流の方へ行くと……」
アキの声には、不安が滲んでいた。
それを聞いたタケルは、短く「わかりました」と返し、すぐに矛の柄を握り直す。
「俺が探してきます。ここで待っていてください」
「頼んだ、タケル。くれぐれも気を付けてくれ」
稲夫がそう言うと、タケルは無言で頷き、すぐさま森の中へと消えていく。
タケルがツチハルの捜索に向かった背中を見送った後、稲夫はふとアキとヒナタに目を向けた。
二人は寄り添うようにして立っている。
親子の再会の喜びも束の間、再び夫の安否に不安を募らせる母娘の姿に、稲男は心の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
(このまま、またバラバラになるのは……あまりにも辛いよな)
今の暮らしが決して楽ではないことは、稲夫自身がよくわかっている。それでも、自分たちの拠点なら、少なくとも身の安全と食べ物、水、火のある生活がある。
だからこそ、声をかける決意をした。
「アキさん……ここより下流の場所で、自分たちは田んぼを作って生活してるんですが、まだ生活は大変です。でも、水も食料も、なんとか確保できています。」
一拍置いて、続ける。
「こんな時に、唐突かもしれませんが……よければ、こちらにに合流しませんか?」
アキは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに目を伏せ、ヒナタの頭を撫でる。
「……よろしいのですか? そんな、大切な拠点に……」
「もちろんです。むしろ、今は人手が必要なんです。食料や水の確保も含めて、一人でも多い方が安心できますから」
そう言う稲夫の言葉に、アキはしばらくヒナタを見つめてから、微笑んだ。
「ありがとうございます。娘の命を救っていただいただけでなく、こんな温かい申し出まで……」
ヒナタも、おずおずと稲夫を見上げる。
「……私、がんばる。ちゃんと役に立つ!水汲みも、料理のお手伝いもする!だから……!」
その健気な言葉に、アキはそっと抱き寄せ、優しく囁いた。
「無理に頑張らなくていいのよ。まずは、元気でいてくれれば……それだけで十分」
母と娘の頬が触れ合う。その情景を見ていたミズキが、胸元で手を合わせ、静かに目を伏せた。
――そのときだった。
草むらをかき分けて、タケルが戻ってきた。その顔は、明らかに険しかった。
「……見つけました」
稲夫が顔を上げる。
「それはよかった!けど……その顔はなにかあったか?」
「倒木の下敷きになっています。意識はあるが、動けない――急がないと、危ない」
タケルの声は硬く、緊迫感が滲んでいた。岩と土砂の間に埋まりながら、意識だけは保っていた──そんな報告だった。
アキは顔を青ざめさせ、立ち上がる。その手が、ヒナタの手をぎゅっと握りしめるのが、稲夫の目に映った。
「そんな、ツチハル……!」
稲夫はすぐさま矢筒を締め直し、タケルの隣へ向かって一歩を踏み出す。
「行こう。少しでも早く、助け出さないと」
アキとミズキも立ち上がりかけたが、タケルが厳しい声で止めた。
「足場が悪い。危険すぎる。ミズキとアキはここで待っていてくれ」
タケルの言葉にアキの顔が強張り「でも……!」と食い下がった。
アキが半歩踏み出そうとしたその時、稲夫が一歩前に出て、静かに言った。
「アキさん。必ず、助けて帰ります。俺も、タケルも。どうか信じて頂けませんか」
その言葉にアキが言葉を飲み込もうとしたとき、そっと寄り添うようにミズキが声を上げた。
「大丈夫です。あの方は命を見捨てるような方ではありません。必ずツチハル様を連れて帰ってくださいます。私たちは――信じて待ちましょう」
その穏やかな声音には、不思議と心を落ち着かせる力があった。巫女として、人として、信じる力を言葉に込めた。
アキは震える指で唇を押さえたあと、力なく笑みを浮かべた。
「……はい。ツチハルのこと、お願いします。どうか……どうか、無事に……」
稲夫は深く頷いた。
その様子を見ていたヒナタも、小さな声で言う。
「……お父さん、きっと大丈夫だよね……?」
「もちろんだよ。絶対に助けてくるから、ヒナタちゃんはお母さんのそばにいてあげて」
稲夫は優しくヒナタの頭に手を置き、もう一度強くうなずく。
そして、タケルと視線を交わし、静かに駆け出した。崩れた岩場の先にいる男を――命を、救うために。