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第11話 命の火を灯せ

 川の流れが、荒々しく足元を叩いていた。昨日の雨で増水した水かさは予想以上で、稲夫の膝をあっという間に越えてくる。


「……流されてる!?おい、待て!今行くからな!!」


 叫びながら川へ飛び込んだ稲夫の腰まで、水が冷たく満ちた。流れは強く、足元がふらつきそうになる。


 だが、ためらう暇などない。

 水面に浮かぶ、小さな影――人の形。それも子どもだ。


「ヒナタちゃん……?」


 ミズキが震える声で名を呼んだ。両手を組み、祈るように岸で見つめている。


「今助けてやるからな!」


 稲夫は水をかき分け、胸まで浸かりながら進んだ。そしてようやく浮かんでいる小さな体に手を伸ばす。


「よし!掴んだ!」


 腕をがっしと掴み、抱き寄せる。ずぶ濡れの少女の体は驚くほど軽い。生気のないその顔に、背筋が凍るような不安が走った。

 川岸に戻る頃には、稲夫の体はずぶ濡れで、肩で息をしていた。だが、それ以上に――。


「……息、してねぇ!」


 すぐに子供を地面に寝かせ、耳を近づける。呼吸音はない。胸の上下も確認できない。手首にも脈がない。


 死が、そこにあった。


「ヒナタちゃん!」


 ミズキが蒼白な顔で駆け寄る。


「ミズキ、知ってる子か!?」


「はい……同じ村の子です!そんな……息が……」


 稲夫は短く息を吐き、心を切り替える。


「……よし、落ち着け……昔、消防団の講習でやった……」


 迷っている暇はない。今できることをするしかない。自分に言い聞かせるように、稲男は短く息を吐いた。

 手順は覚えている。今この瞬間を逃せば、この小さな命は戻ってこないかもしれない。


「ミズキ、下がってくれ!」


「えっ……?な、なにを――」


 ミズキは戸惑いの色を濃くし、一歩後ずさった。


 稲夫は両手を組み、少女の胸の中心、胸骨の上に置く。


「いくぞ……!」


 力強く、正確なリズムで押し始める。


「一、二、三……っ!」


 心臓を、命を、叩き起こすように心肺蘇生を試みる。

 しかし反応はない。だが止めるわけにはいかない。


「な、なにを……!?それでは、苦しめてしまうのでは……!」


「違う、これは……命を戻すための方法だ!胸の奥の心臓を動かしてる!」


 説明しながらも、稲夫は手を止めなかった。現代日本で学んだ心肺蘇生法――この異世界で通じる保証などない。だが他に方法はなかった。


 十五回の胸骨圧迫のあと、少女のあごを持ち上げ、口を開かせ、稲夫は自らの口を近づけた。


 「頼む……生きろ」


 静かに、深く息を吹き込む。

 肺がわずかに膨らみ、吐息が漏れる。

 もう一度。もう一度。

 続けざまに胸を押し、人工呼吸を繰り返す。


 ミズキはその様子をただ見守るしかなかった。儀式でも祈りでもない、異なる“術”のような行為に、彼女の表情には困惑と恐れが混じっていた。


 呼吸を与え、胸を押す。


 ――そして。


「っ……けほっ……!」


 小さな咳。水の音。

 少女の胸が、かすかに上下した。


「っしゃあ!戻った……!よかった……!」


 稲夫は思わず声を上げた。

 ミズキはその場に膝をつき、震える声で言った。


「……稲夫様……今のは……神より授かりし術……でしょうか……?息が……確かに、止まって……」


 稲夫は苦笑しながら、首を横に振った。


「ただの応急処置だ.。誰にでも……」


 誰にでもできる――そう言いかけたが、そこでようやく気づく。少女の氷のような体温に。 

 蘇生に必死で、触れていた感触をまともに考える余裕すらなかったのだ。


 低体温症――命を救っても、今度は冷えで失うかもしれない。


「まずい、火だ……温めないと!」


 川の水で濡れた体はすでに冷え切っている。急がなければ命が危ない。


「ミズキ、焚火の準備を! すぐに戻って温める!」


「はいっ!」


 急いで拠点に戻ろうと少女を抱え立ち上がった瞬間、膝ががくりと折れた。思う様に体に力が入らない。

 少女を助けるために浸かった春先の川の水が、稲夫の体温を容赦なく奪っていた。


(だめだ、俺まで倒れてどうする……!)


 歯を食いしばり、ふらつく足を踏ん張って走る。

 川から拠点まではほんのわずかな距離のはずなのに、凍えた体には何倍にも引き延ばされた道のりに思えた。

 ようやく辿り着いたとき、稲夫は胸の奥で安堵を覚えながらも、気を抜けば倒れそうだった。


「タケル!火を!火を頼む!」


「どうした!?……子ども!?わかった、薪はここだ!」


 タケルは石斧を放り出し、すぐに薪と着火用の木くずを用意する。そこに稲夫はオイルライターで火を点けた。

 焚き火の炎がぱち、ぱちと乾いた音を立て始める。


「この子のこと、任せる。俺、薪を……!」


 言いかけた瞬間、足に力が入らず、稲男の体が崩れた。


「――っ」


 地面に手をついたまま、視界がぐらりと揺れる。全身が冷えて感覚が薄れていく。


「稲夫様っ!!」


 ミズキが駆け寄り、その肩を支える。


「……すごく……冷たいっ!」


 彼女の声が、遠ざかっていく。


(あ……これ……ヤバ……)


 稲夫の意識は、深い闇に沈んだ。


 ***


「……起きたか」


 低く、静かな声。耳元で誰かが話しかけてくる。


 ……誰?


 重たいまぶたをゆっくり開けると、目の前に――屈強な男の顔があった。


「おぉわっ!!」


 稲夫は反射的に跳ね起き、背筋をのけぞらせて飛び上がった。思わず梁に頭をぶつけ、呻き声を漏らしながら辺りを見回す。


 暖かい。火がくべられた住居の中。自分は全裸で周囲には濡れていた服が干されている。


 タケルが体を起こす。全裸である。


「……気を失っていた。かなり体が冷えていた。服も濡れていたし、急いで温めました」


「い、いや……助かった……けどな!?」


 稲夫は頬を引きつらせながら、今の状況を確認する。

 家の中には稲夫とタケル、二人そろって全裸で焚火のそばで横になっていた。


 つまり――人肌で温めていたのだ。

 悪意があるとは思わない。思わないが――。


「び、びっくりはするぞ、そりゃあ……!」


 混乱を声に出していると、不意に住居の外から足音が近づき――勢いよく入り口が開いた。


「稲夫様っ!?ご無事――っ!」


 入ってきたのはミズキだった。が、目に飛び込んできたのは、全裸で跳ね起きている稲夫と、その隣に座る全裸のタケルの姿。


「……し、失礼しました!!」


 ばたん!


 ものすごい勢いで戸が閉じられた。

 中に残されたのは、呆然とする稲男と、眉ひとつ動かさないタケル。


「……誤解を招いたか?」


「いや、どう見ても招いたと思うぞ……」


 服を着直し、外へ出ると、空はすっかり夕暮れに染まり、拠点の周囲には焚き火の明かりがちらほらと揺れていた。

 住居の前で待っていたミズキが、ぴしりと背筋を伸ばして立ち上がる。


「……さきほどは、大変、無礼を……」


 深く頭を下げたミズキの頬は、夕焼けのせいではない赤みに染まっていた。言葉を選ぶように、彼女は小さく息を吸い、顔を伏せながら続けた。


「……つい、あらぬ誤解をしてしまいました。てっきり何か不埒な儀でも……」


 顔を伏せたミズキの耳は、火に照らされて真っ赤になっていた。


「待て待て待て、違うぞ?違うからな?何も不埒な事なんかしてないからな?」


 ひとまず念入りに否定した後、稲夫は肩をすくめながら口を開いた。


「いや……まあ、そう思っても仕方ないよな。俺も目が覚めたときに目の前にタケルの顔があってさ。正直、驚いて飛び起きたし」


 ひと呼吸置き、軽く手を上げてやや困ったように笑う。


「でもな?本当に何もないから。不埒どころか、ただの低体温対策だ。タケルも裸だったのは、たぶん……効率重視ってやつだ」


「ほ、本当に……ただ、それだけ……?」


 顔を真っ赤にしながらも、視線だけはちらりとこちらを伺ってくる。

 稲夫は困り果てながらも、やや苦笑を交えて言った。


「それだけだよ、だから“裸神の怪しい儀式”みたいに言うのやめてくれ。ほんとに」


 ミズキは小さく「……あぅ」と声をもらし、さらに深くうつむいた。


「そういえば……溺れていた子は無事か?」


 問われたミズキははっとして、すぐに頷いた。


「はい……大丈夫です。稲夫様のおかげで、息を吹き返しました」


 ミズキは住居の影に声をかけた。すると、あの川から救い出された少女がそっと姿を現した。


 少女の年の頃はおそらく十歳ほどだろう。肩まで伸びたふんわりとした茶髪をしていた。

 ぱっちりとした茶色の瞳は、どこか不安げに揺れながらも、稲夫の顔をしっかりと見つめている。


 少女は、おずおずと一礼した。


「……ヒナタと申します」


 少し掠れた声だったが、しっかりとした口調だった。


「ヒナタちゃん。もう大丈夫か?」


 稲夫がしゃがみ込んで目線を合わせると、ヒナタは頷いた。


「はい……助けていただいて、ありがとうございます」


「一体何があったんだい?」


「……お母さんにたのまれて、お水をくみに行ってたんです。土器を落として……拾おうとしたら、足を滑らせて……」


 言い終えると、ヒナタは唇をかんだ。自分の失敗がどれほど大事になったか、ようやく理解してきたらしい。


「そうか。でも、生きてて本当によかった。無理しないで、今日はゆっくり休め」


「……はい」


 そのとき、背後から「ふむ」と声がした。

 着替え終わったタケルが戻ってきたところだった。


「事情は聞いた。明日、上流に向かって親を探そう」


「うん。ヒナタの話が正しければ、親も近くにいたはずだ。探して合わせてあげよう」


 稲夫が答えると、タケルは頷いた。


「はい。では朝に備えて、今日はみな休みましょう」


 ミズキの穏やかな声に、稲男は目を細めて頷いた。冷えた身体に、ようやく人心地が戻ってくる。


 助けた命。繋がった絆。

 その夜、焚き火のぬくもりは、どこか特別に感じられた。


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