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第10話 はじまりの芽吹き

 朝靄がすうっと薄れ、川の音が近くに聞こえる頃。稲夫は石器の鍬を手に、本田となる予定の区画に足を踏み入れた。


 冬至⋯⋯この世界で言うと死者の夜と呼ばれるホラーイベントに備えるにしてもまずは田んぼだ。


 苗代とは比べ物にならない広さ。見渡すかぎりの雑草と、石が混ざった土。それらが田んぼになるまでには、相応の労力が必要だった。


「はあ……さすがに広いな。まあ、やることは変わらない。草抜いて、耕して、畦作って、水路作って……」


 石器を置いて、まずは雑草の除去に取りかかる。時折落ちている石を拾い、しぶとく根を張った草を抜いて山にしていく。

 額に汗がにじみ、腰に鈍い痛みが走る。だが、やらなければ始まらない。


(田植えまでに間に合わせないといけないからな……のんびりはできない)

 そう自分に言い聞かせながら、作業していると――後方から軽い足音が近づいてきた。


「稲夫様っ!」


 いつもは静かなミズキの声が、今日はどこか浮ついていた。振り返ると、白布の衣をひらめかせながら小走りでこちらに駆け寄ってくる。

 その顔は、まるで子供のように弾けていた。


「芽が……芽が出ました! あの、種籾から、小さな芽が……!」


「おおっ、マジか! どれどれ?」


 ミズキは稲夫に駆け寄ると、彼女が胸元に大事そうに抱えていた土器の中を見せてくる。

 確かに。薄緑色の、小さな芽が、いくつも種籾から顔を出している。生命の力が、籾を割って生まれようとしていた。


「おお、ちゃんと芽が出たか……!」


 感慨深く頷く稲男に、ミズキは顔を赤らめながらも小さく拳を握って笑った。普段は落ち着いた雰囲気の彼女が、まるで年相応の少女のようにはしゃいでいる。

 そのギャップに稲夫は少しだけ頬が緩むのを感じた。


「ミズキ、せっかくだし、その芽……撒いてみるか?」


「えっ……?」


 一瞬、ミズキの表情が固まる。


「わ、私が……ですか?」


「ああ。苗代、もう出来てるし、あとは撒くだけだろ。どうせ俺が撒いても同じだ。だったら、育ててくれた君が撒いた方がきっといい」


 ミズキは種籾の入った土器を見つめ、そっと唇を噛んだ。


「でも、私……そんな、大事なこと、もし間違えたら……」


「心配すんな。俺が全部教える。撒き方も、コツも、注意点もな」


 そう言って、稲夫はやさしく笑った。

 その表情に少しだけ背中を押されたのか、ミズキはこくりと小さく頷いた。


「……はい。やってみます」

 

 二人は苗代の元へと戻る。稲夫は簡単に地面の状態を確認しながら、落ちていた木の棒で線を引き始めた。


「じゃあ、まず基本な。種籾はこの線に沿って、できるだけ均一に撒いていく。偏りすぎると芽が絡んだり、育ちが悪くなるから注意してくれ」


「はい……均一ですね……」


「あと、強く握りすぎないで軽くつまむ感じで。あくまで上からふわっと撒く感じでな。地面からの距離も、高すぎず低すぎず……大体、こう」


 稲夫が手本を見せると、ミズキは真剣な目でじっと見つめ、小さく頷いた。


「……このくらいの高さ……ですね?」


「ああ、ばっちり」


 ミズキは呼吸を整えると、土器から慎重に種籾をすくい、震える手でひとつひとつ撒き始めた。


 ぱら、ぱら……。


 優しい音が、静かな苗代の上に落ちていく。


「……これで、大丈夫でしょうか?」


「うん、上手い上手い。その調子」


「こっちは……大丈夫でしょうか?」


「バッチリ。さっきより均一に撒けてる」


「では、こっちも……やってみます」


「そうそう、いい感じ。その調子だ」


 ミズキはその後も何度も確認しながら、一歩ずつ丁寧に進めていった。その姿はまるで祈るようで、見ている稲夫の方が背筋を伸ばしたくなるほどだった。


「よし、次は薄く土をかぶせようか。あんまり深くかけると芽が出づらくなるからな。ほんの、指先一枚分くらいでいい」


「はい……!」


 ミズキはしゃがみ込み、手のひらでそっと表土をすくうと、撒いた種の上にやさしく振りかけていく。

 動作は慎重で、息を止めてしまいそうなほど集中していた。


「……これくらい、でしょうか?」


「うん、ちょうどいい。表面がほんのり隠れるくらいで十分だ」


 少しずつ、丁寧に。ミズキの指先が動くたびに、薄茶の土が小さな命をやさしく包み込んでいく。


 その様子はまるで、まだ見ぬ苗を寝かしつける母親のようだった。

 すべての種籾に土がかけられると、苗代は先ほどよりも静かに、整った表情を見せていた。


 播種と覆土を終えた苗代は、まだ少し心もとない表情をしていた。稲夫はそれを見て、腰に手を当てる。


「よし、あとは葉をかぶせておこう」


「……葉、ですか?」


 隣で控えていたミズキが小首をかしげる。


「ああ。土の上に葉を一枚かぶせておくと、寒さと鳥から守ってくれる。とくに今は発芽したばかりで柔らかい。カラスに見つかったら、食われるぞ」


「……それは、大変です!」


 ミズキは真剣な表情になり、すぐに立ち上がった。


「近くの林に、広い葉の草があったかと思います。すぐに採ってきます!」


「あ、ああ……じゃあ頼む。多くなくていいからな、表面を覆えるくらいで」


「はい!」


 ミズキは勢いよく走り出していった。

 

 ――しばらくして。

 

 「持ってきました!」


 そう言って戻ってきたミズキは、膨大な量の葉を両手で抱え込んできた。


「……ちょっと待て、それ全部か?」


「はい。念のため多めにと思いまして……。鳥が来たら、すぐに足してもいいように、余裕を持たせた方がよいかと」


 真面目な顔で言っているが、その量は明らかに多すぎる。苗代どころか、住居の屋根すら葺けそうな勢いだった。


「……す、すみません……多すぎましたか?」


 ミズキは肩を落として項垂れたが、耳がほんのり赤くなっているあたり、本気で張り切っていたのが伝わってきて、稲夫も苦笑せざるを得なかった。


「気持ちはありがたい。でもな、こういうのは適量が一番だ。多すぎると蒸れて逆に腐るかもしれんし、風通しも悪くなる。芽が息できなくなっちまう」


「芽が、息」


 ミズキはハッとしたように顔を上げ、小さく頷いた。


「わかりました。では、適量を選んで、そっとかぶせますね」


「うん、それでいこう」

 

 ふたりは苗代の縁に並んで座り、ミズキが持ち帰った葉の中から状態の良いものを選んでいく。


「このくらいの大きさなら、1枚で広めに覆えるな」


 選び終えた葉を、一枚一枚そっと手に取り、苗代の上にかぶせていく。

 風にめくれないよう、端を軽く土で押さえると、まるで布団をかけるような静けさが辺りに広がった。


 ミズキは葉を置くたびに、そっと目を閉じ、手を合わせてから次の作業に移る。


「……祈りながらやらなくても大丈夫だよ」


「いえ、芽が驚かないように……そっと」


 その言葉に、稲夫は笑いながら肩をすくめた。

 こうして苗代は、やさしく葉の布団に包まれ、小さな命たちは風と光と土のぬくもりの中で、静かにその時を待つことになった。


「地の命、天の恵み、どうかこの稲に宿らせたまえ……育みの力を与え、病を遠ざけ、風を鎮めたまえ……」


 その声は優しく、それでいてどこか荘厳だった。祈る声は小さかったが、そこに込められた願いは深く重かった。

 稲夫はその背中に、祈りではなく“守り手”のような強さを感じていた。

 

 作業を終えた二人は、川辺の石に腰掛け、足を軽く水に浸して休憩していた。小鳥のさえずりと、川のせせらぎが心地よく耳に響く。


「こうして休んでると、時間を忘れそうだな……」


「はい……風も、水も、気持ちよくて……」


 と、そのとき。


 稲夫がふと上流の方を見やると、水面に何かが浮いて流れてくる。


「……ん? なんか流れてきてるな……」


 波に揺れながら、白っぽいものがぷかぷかとこちらへ流れてきていた。


「桃……とかだったら、ちょっと面白いかもな……」


 ぽつりとつぶやいた稲夫の言葉に、ミズキはきょとんとした顔で振り向いた。


「それは……何かの比喩でしょうか?」


「いや、すまん……忘れてくれ」


 思わず口にしたネタを真面目に受け取られ、稲夫は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。


 だが、その“何か”は、徐々に距離を詰めてくるにつれ、輪郭がはっきりしてくる。

 布のようなものに包まれており、時折、川の流れに合わせてくるくると回っていた。


「……あれは……まさか……子供?」


 ミズキが小さな声でつぶやいた。


「なんだ子供か。まあ桃のわけ……って、子供ォ!?」


 ようやく思考が現実を追い越し、稲夫は飛び上がるようにして川へと駆け込んだ。


「流されてる!? おい、待て、今行くからな――!!」


 冷たい水をかき分け、足を取られながらも、稲夫はただひたすらに川を進んだ。


※作中では葉を被せていましたが、現代ではビニールシートを使うのが一般的です。

これにより保湿・保温がしやすく、気温が安定しない春でも発芽が揃いやすくなります。


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