俺たちを取り巻く優しい環境
幼い頃とてもよい匂いに誘われて家の中を歩いて行くと、着物上から割烹着を着込んだ絹さんが、かまどの前に立って、せわしなく料理を作り上げていく。それをただ見つめいた。きっと美味しそうや、凄い、など考えていたのだうが、そこまで深く今は覚えていない。
見ている俺に、絹さんは気付くと「あら、坊ちゃんおはようございます」そう言ってにっこり笑ってくれた。
そして歳を追うごとに「起きたら早く顔を洗ってください」とか「本を朝から読み始めないでください」と俺の世話についても、せわしなく追い立てるようになった。
だから着物姿の上品な彼女には、祖父母と同じくらい、俺は頭が上がらない。そう言っていいだろう。
お手伝いさん業にかける時間をセーブするようになった今では、スープの冷めない距離の娘さんが、忙しい日には保育園へお孫さんを迎えに行き、預かったりして、やはり充実した暮らしをしている。
そんな暮らしの中でも、新しい暮らしに戸惑いのある俺たちのために、時間を作ってくれ見に来てくる。そして以前と変わらず、何かと世話を焼いて貰っている。そんな彼女と結月さんが、楽し気に話している様子を見かけると本当に、ふたりには頭が上がらないって気持ちになる。
そうであるが……ある日、煮え切らない俺が、犬の恰好でばかりで、嫁ちゃんにひっいていて歩いているのに思う事があったらしい。
「わんちゃんと仲が良いのはよろしい事ですが、夫である悠翔様にも、出て来ていただかねば困りますねー。まるで犬の姿が真実の者と、結月様が結婚されたかのようですわ。本当に悠翔様も困ったお人ですね」
そうちくりと言われてしまった。
「私もそう言えば結婚当初は名目上だけで、私は実は異能の人たちに時々ある、犬の神様的な存在と結婚したみたい。そう思ってました」
「神様ですか……」
「ふふ、黒ちゃんは結構甘えん坊ですし、私も違うかなーと最近は思っています。悠翔さんも、黒ちゃんも、忙しいですからね。今は仕方ないですよ」
「まぁ、お優しい、悠翔様にもお聞かせしたかったですわ」
結月さんに撫でられている、俺の前に座り込み、絹さんは俺の目を見ながらそう言っている。俺は形だけでも、頭を下げてうなだれておいた。
結月さんがそんな風に思っているのは知らなかった。結婚当初は、俺も人見知りの犬であったし、きっと結婚話があがった当初、中途半端に俺の噂を聞いていたのだろう。
犬である存在と結婚するよりは、俺の存在の方がましって思って貰えるだろうか?
甘えん坊って評価は気になるが、わかって貰えてるのは嬉しい。しかし甘えん坊はなぜ?
「お耳凝ってますか? もみもみ」
嫁ちゃんがリビングのソファ側に行ったのでついて行った。そしたら膝の上にお座りし、耳をもみもみされて嬉しい。それが終わると嫁ちゃんの胸に、顔を埋めて嫁ちゃんを見る。
「まぁ、甘えん坊ですねー」
(これかー!?)
これは良くない。犬でもあるが……人間でもある。もう頭の中で、いつかは彼女に話すべき言い訳が、始末書が用紙十枚を超えつつある。
それにプラスして、人間である時に、上手くコミュニケーションが取れない時がある。その事を気にしているのだろうか? 嫁ちゃんもふと寂しい顔をしている時がある。気がする……。うぬぼれだろうか?
そんな時やはり顔をペロペロし、慰める事で感謝され、胸に埋もれるほど抱きしめられるので、嬉しいのだが……余計言い難く、罪悪感が募るのだった。
◇◆◇◆◇
そして俺は橘先輩に、警察内の資料室でこれまでの経緯を改めて話してみた。両親の事についても彼に話した事で、どういう繋がりなのか、平穏無事に過ごせている。
正直に犬の時の素晴らしい生活の事を話すのは、必要な事だが、いささか恥ずかしいものがあった。しかし新婚だから……。
そうしてすべてを話し終えた時、椅子に座り、思った以上の、おれの甘ったれ具合の破壊力に頭を抱えた。
「切腹しろ」
先輩の橘さんは肩に手を置き囁いた。資料室の誇りっぽく、ちりが日光によってキラキラ舞う中で、赤い髪、水色の瞳の先輩の視線が容赦なく俺を突き刺す。
たぶん冗談だろうが、覇気があまりないタイプの先輩なので、その気持ちの受け取りに戸惑う。
「どうしてこうなったのか……しかし切腹したら結月さんが、未亡人になってしまいます。それは出来ません」
「だが、そこまで仲の良くない夫が、膝の上に乗って顔を舐めてたと知ったら、お前殺されるぞ。おれの嫁なら刺してくる。包丁持ってな」
そう言って窓の外を見つめる、橘先輩の背筋のまっすぐな背中が怖い。
「ですが、橘先輩は独身貴族じゃないですか? 結構モテてるのに不思議だって、この前、聞きましたよ……」
「俺が言いたいのは一般常識の話だが? 悪いことは言わん、そろそろ家に帰り付いても、体力は少しは残るようになったのなら、その僅かな時間で説明しろいいな?」
「ですが、もう少し人間である時の好感度を上げないと、振られてしまっては元も子も無くなってしまいます」
そう言ってしまうと、資料を探す手もゆっくりとなってしまう。気持ちの切り替えに、コーヒーでも飲みたい。
「そもそも初夜などを過ごしていたら、そこら辺の説明はなんとかなるだろう? こう、なんとなしに自分の事を語るとかないのか?」
そう橘先輩は、俺の触れてはいけない所まで、追及してきた。
婚礼の日には雪が降ったが、今の家に辿り着いた次の日には、俺の以前使っていた寝室の窓から見える満月はとても美しかった。その時は、俺が今使っている奥の部屋のままだ、倉庫で片付いていなかった。
だから、ソファで寝るつもりであったが、寝室に入ってうっかり眠ってしまっていた俺を見て、嫁ちゃんは言った。
「まぁ、ワンちゃん。でも、どこから? お前は悠翔さんに飼われているワンちゃんなの?」
その時、自分の自室であった部屋であった安心感と、見慣れない女の人のネグリジェ姿。
(白くさらーっとしたシルクのようで裾の長い丈であるが、胸がバン!……ではなく、グラマー嫁ちゃん)を見て、つい嬉しくって俺はお腹を見せた。たぶん人間だと見せちゃいけないところも見せたはず。そしておれに戸惑った嫁ちゃんは、俺を見守る事にしたようで……。
「で?」
「そういう行為は、まだありません……」
「やっぱり悠翔は、腹を召された方がいいよ」
「橘先輩!?」
そう言った俺はしょげ過ぎて、ふさふさの黒い犬になって、うなだれお座りする事しか出来なかった。
橘先輩さんはそんな俺の頭を撫でた。どうやら橘さんも無類の犬好きの様だ。正直助かった。
「犬飼は、一生可愛い犬をやるつもりなのか? 人間であるお前を見て貰いたいのなら、お前が行動するしかないだろう? 場所を変えてでも、自分の奥さんから信頼を得る行動をしろ」
そう、何故か哀れまれながら言われた。まぁ、一生犬は犬だが、そんな意味ではないだろう。
続く
見ていただきありがとうございます!
またどこかで。