9.どうして私が?
『どうして私が? どうしてあなたにまで与えなければならないの?』
ロゼッタの頭のなかで冷たい声が鳴り響く。女性の甲高い声だ。
『勘違いしないで。あなたにはそんな権利はないのよ』
クスクスと嘲るような笑い声。
ズキン、ズキンとロゼッタの胸が痛む。
どうして……? と問いかけたくて。けれどそんなことは無意味だとわかりきっていて。ロゼッタの頬が冷たく濡れる。
『すまない、ロゼッタ。本当にすまない』
誰かのすすり泣きが聞こえる。先ほどとは違う男性の声だ。
『私が本当に大事なのはおまえなんだ。けれど……すまない』
(やめてよ)
そんな謝罪にはなんの意味もない。謝って、自分が楽になりたいだけだとわかっている。ロゼッタからすれば、かえって腹が立つだけだ。
『わたくしもあのドレスが着たい。皆と同じ食事がしたい。もっといいベッドで眠って、もっといい家庭教師に学んで、それから、それから……』
やめて。そんなふうに思わないで。お願いだから比べないで。
苦しい。息ができなくなるほど、辛い。苦しい。
羨ましいとか、恨めしいとか、そういう感情はとうに捨てたはずだった。だって、そんなものに執着しても苦しいだけだから。自分が惨めに思えるだけだから。
だからこそ、ロゼッタは自分の手で掴み取る道を選んだ。もう二度と、あんな想いに翻弄されたくない。
(わたくしに必要なのはお金だけ。お金さえあればわたくしの願いは叶う。幸せになれるんだから)
ゆっくりと、静かに目を開ける。頬を幾筋も涙が伝う。ロゼッタはそれを乱暴に拭うと、身体を起こした。
窓からさんさんと射し込む朝日。なぜだろう? 今日はなんだか身体が重い。
昨夜は実にいい気分でベッドに入ったはずだった。理想の富豪、トゥバルト・ドーハンと知り合うことができ、食事の約束まで取り付けたのだ。これからいくらでも駆け引きができる。玉の輿への大きな一歩を踏み出したのだ。
けれど、ハイヒールで疲弊したふくらはぎが、ズタボロになった踵が、ロゼッタを嘲笑っているかのように感じられる。いつもならどれだけダンスを踊っても、朝には元通りになっているはずなのに。
(だけど、行かなくては)
部屋で黙ってうずくまっていても、出会いも進展もない。お金はロゼッタのもとに来てはくれない。ロゼッタがお金を愛するようには、お金はロゼッタを愛してくれないのだから。
さあ、今日はどこに行って誰と出会おう? どんな手を使って男性との関係を深めよう? ……そう考えることがロゼッタの生きがいだった。楽しみだった。
けれど、どうにも気持ちが上向かない。
(こんなことではダメよ。わたくしは、頑張らなければいけないのに)
頑張らなければほしいものは手に入らない。
わかっている。……わかってはいる。
けれど、心も身体も思うようにならないのだ。
もう頑張らなくてもいいのではないか? 諦めて、楽になってもいいのではないか? ……今のままでもいいのではないだろうか? そう言い訳したくなる。
『着るに困らず、雨風のしのげる家で眠ることができ、お腹を空かせることもない――それだけでも十分幸せなことだと思います。もちろん、数着に一着贅沢なドレスを持つとか、機能性のいい部屋に住むとか、たまの贅沢で高価な料理を食べること自体は否定しませんけど』
(違う)
と、ロゼッタは立ち上がる。
先日、ライノアに言われたひとことを思い出したところで、ロゼッタの心に火が灯った。
(着る服があればそれでいい? 家があるだけマシ? とりあえず食べれているのだから我慢しろ? ふざけないでいただきたいわ)
それを幸せと呼ぶならば、ロゼッタは今も昔もずっとずっと幸せだ。けれど、ロゼッタはそうは思えない。それじゃ絶対にいけないのだ。
(そうよ)
ロゼッタはドレッサーへ向かい、鏡のなかの自分を覗き込む。――こんなボロボロの肌では、表情ではダメだ。金持ちの男性を射止めることなんてとてもできない。
笑え。
自分は世界で一番幸せな女性だと誰もが思うような、そんな笑顔で笑うのだ。
ロゼッタはゆっくりと目を閉じ、それから開ける。
(うん……可愛い)
鏡にうつっているのはいつもどおりの自分――ロゼッタが理想とする自分だ。ロゼッタはよかった、と胸をなでおろす。
さあ、今日はなにをしよう。そろそろ実業家のウィルバートに手紙でも書いてみようか? せっかく知り合えたのだし、トゥバルトやその娘のことについてさらに調べてみるのもいいだろう。それに、ウィルバートとお茶をしてみるのも悪くないかもしれない。
(大丈夫、大丈夫よ)
ロゼッタはなにも間違っていない。ちゃんと正しい方向に進んでいる。こうして頑張っていけばきっと、彼女の望み通りの幸せを手に入れることができるはずだ。
『けれどロゼッタ嬢、世の中にはお金よりも大切なものがあるでしょう?』
(そんなもの、ございませんわ)
心のなかでライノアの言葉を改めて否定をすると、ロゼッタは大きく息をつき、満面の笑みを浮かべるのだった。