1-2 夢の切れ端
かつて僕が通っていたスイミングスクールは、知らないうちに廃業し、今は建物自体はそのままで、町が運営する屋内プールに生まれ変わっていた。
突然の馴染みの地の変貌ぶりに正直驚きを隠しえなかったが、この世はどうも無常であるゆえ、きっとこれも致し方のない事なのだろう。
胸が痛むが、僕はそう思う事にした。
町営のプールならお金を払えば誰でも自由に入場する事が出来る。
折角来たから、ちょっとだけ入っていこうかな。
何しろ盆地の夏は暑い。
念の為にと携えていた水着の入った鞄を肩にかけ直し、僕は建物に入っていった。
プールは小学校高学年以上向けの大プールと、子供向けの小プールに分かれていて、夏休み期間中のためどちらも多くの客で賑わっていた。
僕は大プールにそっと入った。
かつてはつま先立ちでやっと顔を出す事が出来る程度だったが、成長した今は胸くらいの位置で浸かっている。
久々に少し泳いでみる気になったので、人の少ない所で勢いよくクロールをしてみた。
もちろん進みはするものの、水泳をバリバリやっていた頃の感覚には程遠い。
他の泳ぎ方も試してみたが、やはり同じである。
想像以上のブランクを感じ、程よくやる気も失せて、帰ろうかと更衣室の方に足を向けると、後ろから野太い声がかけられた。
「おぉ、清彦じゃないか! 元気でやっとるか」
声のした方を見ると、肌の焼けた大柄の男が、満面の笑みでこちらを見ている。
一瞬誰だったかと思案したが、スイミングスクールの事を思い出すと答えを出すのは容易だった。
「ひょっとして、コーチですか? お久しぶりです」
大柄の彼はスクール時代、まだ泳ぎが下手だった僕に水泳のイロハを教えてくれた山元コーチだった。
野太い声とワイルドな見た目に似合わず、温厚で面白い好きだったコーチだ。
「元気そうで何よりだ。今俺はここでプールの監視員をしているんだ。立ち話もなんだから、そこ座らないか」
そう言うと、コーチは休憩用の白い椅子のある方へと向かう。
そしてそばの自販機でジュースを買い、「ほれ」と僕に渡してくれた。
その後椅子にどすんと腰を落とすとコーチは言った。
「清彦は、まだ水泳やっとるのか」
必ず来る質問だとわかっていたので、僕は低い声で答える。
「えぇと、中学校までは続けていたんですけど、三年の夏に膝を故障してしまって。それだけならリハビリで何とかなるはずだったんですけど、その後も色々な事があって。そして結局辞めてしまって、それからというもの今まで特に何もしてないです。なんか、何かをやろうという気分にどうしてもなれなくて」
コーチは僕の話を黙って聞いていたが、やがておもむろに口を開くと、
「そうか、それは残念だな。お前は結構いい筋をしていたんだがなぁ」
と惜しそうに呟いた。
「なんか、すいません。でも最近僕よく思うんです。夢なんて所詮は夢のままなのだろうなと。結局抱いたところで、それが叶わなかった時に凄く虚しくなるだけじゃないですか。だったら正直夢なんて、持っていても無意味なのかなって」
そう言って口を閉じた後、僕たちの間にしばしの沈黙が流れていく。
居たたまれなくなった僕が再び口を開こうとすると、コーチは静かに語り出した。
「俺はかつて周りから将来を期待されたプロスイマーだった。でも残念ながら思うような結果には恵まれず、故障もあって夢を断念せざるを得なかった。とはいえいざ就職しようと思った時、それまで水泳以外の事は何もしてこなかったんだから仕様がない。取りあえず水泳とは全然関係ない、ただ食い扶持を繋ぐ事だけを考えた生活を、日々闇雲に送っていた。
だけどな清彦。忙しい毎日の中でふと足を止めてみると、思い出すのはやっぱり水泳の事だったんだよ。俺はどうしても再び水泳に携わりたかった。何故ならそれが俺の生きがいだったからだ。だから水泳関係の職を探して鎌田にやって来た。嬉しい事に家族も俺の事を今も支えてくれている。今やっている仕事だって、薄給だが案外楽しいもんだ」
僕たちの方に飛んできたボールを華麗にキャッチして、笑顔で持ち主の子供に返した後、コーチは続けた。
「なぁ清彦。お前が膝を故障してから今までに何があったのか、俺は聞かない。でもな、これだけは覚えといてくれ。無理に夢を抱けとは言わない。
でもお前がこれから生きていく中で、気付けば付いてきていた夢には絶対に嘘をつくな。本当に叶えたい夢なんだったら、頑張っていれば結果なんて後からどうにでもなるもんさ」
そう僕に語ったコーチは、そろそろ休憩明けだと言って、笑いながら自分の持ち場へと帰っていった。
僕の頭の中でコーチの言葉がこだました。
コーチは僕に、無理に夢を持つ必要はないと言う。
でも、後から自然と生まれてきた夢には正直になれと熱く説いて聞かせてくれた。
残念ながら現在の僕に、これと言ってはっきりとした夢や目標はない。
でもいつかはこんな僕にも、後から付いてきてくれるような夢が見つかるのだろうか。
僕は、水泳を辞めた時以来失っていた夢の切れ端を、少しだけ取り戻せたような気がした。
「あっ、そうだ。伊織に写真を送るんだった」
急に思い出した僕は、何となくどこかに向けて一礼しながら騒がしいプールを後にする。
外に出た僕は何の写真を伊織に送ろうか迷ったが、建物の外壁に僅かに残っていたかつてのイルカ模様を送る事にした。
今日プールで起きた出来事もついでに話したら、彼女は喜んで聞いてくれるのだろうか。
何しろ、昔から彼女は人の話を聞くのが好きだったから。
僕は少しだけ微笑むと、急いで家まで向かった。
暑さで感覚がぼやける脳裏に、蝉の音が強くこだまする夏の日の事だった。
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やはり田舎は蝉がうるさい。
……でもどこか懐かしい、いい響きだ。
「久しぶりだな、この町も」
遠くの地から、俺は久々に生まれ故郷に帰ってきた。
おもむろにスマホを手に取ると、メールフォルダを開き、
「反ったサソリ、か」
と小さく呟き、歩き出した。
1. 赤いるか おわり