1-1 帰省
1. 赤いるか
八月一日。
僕は鎌田町の田舎道を歩いていた。
鎌田町は大隅半島のやや北寄りに位置する小さな田舎町だ。
南北を山に囲まれた盆地であり、北は鎌田山、南はさそり山がそびえ立っている。
鎌田山はドーナツを半分こした上の部分の形のようになっており、
山の東側には日本有数の天文台である鎌北天文台、西側には白鳥や鴨が多く飛来するカマタ池がある。
さそり山は小ぢんまりとした標高の低い山で、頂には小さな神社や公園があり、そこに至るまでの山道は、健康志向の人にとってはうってつけの散歩ルートだ。
僕が帰省のため鹿児島市を出たのは七月三十一日の正午だった。
ここから大隅へはフェリーで行くのが最も早いが、何となく僕はJRを使った。
少し古めのホームから乗り込む電車が到着する。
行き先表示が変わり、乗客が入れ替わっていくのを、ベンチから僕は朧げに眺めていた。
やがて発車のアナウンスが流れ、慌てて僕は飛び乗った。
一番近いまで着く駅から、鎌田町へはバスで一時間ほどだ。
待っている間に僕は伊織にRINEでメールした。
すると彼女は最初のヒントである「赤イルカ」というキーワードを送ってきた。
バスに揺られながら暇つぶしにその意味を考えてみたが、さっぱり訳が分からない。
手紙に同封されていたという町の白地図から、どうせ町にゆかりのあるものだとは思うのだけれど、だからといってぱっと思い付くものはなかった。
正直ヒントはもっと簡単なものかと思っていたので、しばし僕はどうしようと考え込む。
鎌田町の滞在予定期間は一週間弱。
果たして出る時までに無事目的物を見つけられるかどうか……。
バスを降りてそのまま実家に帰ると、家族はいつも通りの迎え方をしてくれた。
母は張り切って手料理をふるまい、父は何も言わずテレビを見ている。
そんな迎え方はいつもの事でもう慣れていたので、僕は大して気に留めはしない。
その日の夜リビングのソファでだらんとしていると、母がいい加減部屋の大片付けをするように言ってきて、渋々部屋に向かった。
大片付けという事で、部屋の至る所にうずたかく積まれたままの荷物を片っ端から片付けていくが、これが中々に骨が折れた。
ふととある山の下らへんに目をやった時、前から探していたDVDを発見して、ラッキーとばかりに抜き取ってしまう。
これが運の尽きだった。
その途端みるみるうちに山は崩れていき、さらに雪崩は相乗効果を起こして、片付きかけた部屋はまた足の踏み場を失くしてしまった。
しばらくの間茫然自失としていたが気を取り直して作業を再開させると、雪崩で露わになった棚の奥の方から何やら真っ赤な肩掛け鞄が出てくる。
はて、こんな鞄を持っていただろうかと思案していると、鞄の表面にかすれた文字で「SAGAMI」と書いてあった。
そうだ、思い出した。
この鞄は小四から三年間通っていた相模スイミングスクールの通学バッグだ。
アルファベットの上にはこれまたかすれた白い輪郭で、イルカのマークが描かれていた。
輪郭の中は白く塗られていないので、まるで鞄の中を赤いイルカが泳いでいるように見える。
赤いイルカ…。
赤イルカ!
最初のキーワードの答えはきっとこれに違いない。
ケガの功名とはまさにこの事だろうかと思った。
未曽有の災害事故を引き起こした我が部屋は、その後一時間かけて本来あるべき姿を取り戻しつつある。
明日は早く起きたい。
今日は切りのいいところで止めて、もう寝る事にしようか。
二人仲良く真上の十二を差した長針と短針を眺めながら、次第に僕の意識は遠のいていった。
そして今日に至る。
案の定寝坊して遅めの朝ご飯を食べた僕は、数種類の薬を喉に流し込み、身支度をすると家を出た。
スイミングスクールは街のやや西部、小学校の近くにあった。
だから僕は当時スクールバスを使わずに、学校から直接そこに通っていた。
辞めてからそこを訪れるのは実に十年ぶりだ。
写真を撮るだけなので気構える必要はないはずなのだが、それでも道中は少しばかり緊張していた。
途中曲がり角に差し掛かると、先の方に昔懐かしいおもちゃ屋があった。
そこでは小学校低学年くらいの男の子たちが、戦隊ものの人形を手に取って戦わせていた。
現在は何という名前の戦隊が活躍しているのか僕は知らなかったが、彼らが叫んでいるセリフから、きっと恐竜がテーマのヒーローなのだろうと思った。
そういえば僕も昔はテレビに出てくるヒーローに夢中になって、セリフをまねては彼のようになりたいと空想していた。
でもいつしかそれらが実在しない架空の存在だとわかると、やがてヒーローに対する興味は失せていった。
かつて抱いていたヒーローになりたいという夢は、僕がだんだん大きくなるにつれて次第に別のものへと移り変わっていった。
そんなおもちゃ屋を通り過ぎてなおしばらく進むと、これまた懐かしい中学校が見えて来た。
校門から入って奥の方に進むと校舎があり、門の近くにはプールがある。
学校に沿ってしばらく道を歩いていると、そのプールから水泳部の大きな掛け声が聞こえてきた。
みんな大会前で必死になって泳いでいるのだろう。
プールには幕が張られていて中の様子は分からなかったが、彼らの発する熱気はおのずと伝わってきた。
実は僕もかつてはここの水泳部で、仲間たちと共に青春の一ページを過ごした。
自慢ではないが、当時は水泳部のエース的存在で大会でも最初のうちはいい成績を残している。
このまま高校、そして大人になってもスイマーとしてやっていきたい、願わくはオリンピックでメダルなんかを、と夢見て日々頑張ってきたが、結局その夢は叶うことなく、僕は結局高二で水泳を辞める事になる。
そして今僕にはこれと言った夢はない。
大学の友人達の中には、昔から抱き続けてきた夢を今も叶えようと努力している人がいる。
そんな人たちを見ていると、僕は何故だか恐ろしいまでの劣等感を抱いてしまう。
やはり僕も彼らのように夢を持った方がいいのだろうか。
夢を持てば、今見える世界というのも少しは変わってくるのだろうか。
でも、どうせ僕なんて…。
水泳部の掛け声を聞いているとどうしても胸が張り裂けそうになるので、急いで中学校から離れた。
そして僕は目的地に着いた。
歩きながら感じていた緊張は、建物を見た途端あっさりと解ける事になった。