4-4 早朝の企み
ホールの椅子で、僕は時間も気にせずただただ座り込む。
何も言えず走り出した事を死ぬほど後悔する。
こんな時に何も言えないのは僕の一番嫌なところだ。
いつも僕が辛い時は、伊織が励ましてくれていた。
じゃあ伊織が辛い時に、僕は一体何ができる?
頭を抱え悩んでいた丁度その時、ホールの方が少し騒がしくなった。
見るとスタッフの人が舞台づくりに励んでいる。
そういえば今日はハープのミニコンサートがあるんだっけ。
ハープはあまり見たことも、演奏を聞いたこともなかった。
揺れる心を鎮める意味でも、一回ちゃんと聞いてみようかと思い、僕はホールで開演を待った。
そしてコンサートが始まった。
演奏者の指の動きに合わせてハープから美しい音色が奏でられる。
僕は音楽には聡くないけど、ずっと聞いていたい、そんな旋律。
曲が進むにつれ、僕の心がだんだんと浄化されていくのを確かに感じる。
この世の苦しみや悲しみなんて、この楽器の前だと無効化されるんじゃないかと錯覚するくらい、素晴らしい演奏だった。
コンサートが終わった後も僕はそのまま座っていた。
演奏の余韻に浸りながら、頭の片隅にとある考えが生まれた。
それはあまり褒められたものでない事は確かだった。
でも僕はどうしてもそれを実行したくてうずうずした。
だから僕は病院内を駆けた。
ナースステーションで当時伊織の担当看護師をしていた松井さんを見つけた僕は、彼女に僕の思い付きを話した。
松井さんは明らかに困った顔を見せたが、僕の熱意に押されこっそり協力してくれる事になった。
翌日の早朝、僕は松井さんと一緒に備品庫の中に入った。
鍵は松井さんが密かに開けてくれた。
僕は巨大なハープを、布をかぶせたまま備品庫から持ち出す。
誰かに見つからないかとそわそわしながら病院の外に出ると、病棟に沿ってハープを運んだ。
そして伊織のいる三階の病室の窓の真下の位置にハープを持ってきて、伊織に電話を掛けた。
伊織は朝、着信音で起こされて少し不機嫌そうな声で、僕に言った。
「何、キヨくん。こんな時間に一体どうしたの?」
「おはよう、伊織。窓開けて下見てみろよ」
しばらくして伊織が窓から顔を出した。
僕はカウントダウンをして布を一気に下ろした。
その瞬間、朝の光に照らされて金色に輝いた巨大なハープが現れた。
驚く伊織に向けて僕は電話越しに言った。
「元気を出せよ! 明るい笑顔と元気がお前の取り柄なんだから。
僕はまだお前に精一杯生きて欲しいんだよ!」
伊織は今にも泣き出しそうな声で言った。
「キヨくん……。私のために……。きっと、後で怒られちゃうのに……」
そして窓から身を乗り出して、下にいる僕に向かって叫んだ。
「キヨくん、ありがとー! 私、生きる! 精一杯、生きるから!」
そして最後は涙を拭いて、自慢の満面の笑みで病床に戻っていった。
その後はもう悲惨だった。
勝手にハープを持ちだしたとして僕も松井さんもこっぴどく叱られた。
学校などに知れ渡るのは流石にマズいと思ったが、事情を説明して何とか最悪の事態は回避できた。
こうして伊織に再び持ち前の笑顔と明るさが戻ったが、それもそう永くは続かなかった。
ハープ事件から数日経った八月七日。
伊織はその短い生涯を終えた。
伊織の死後、僕は伊織の事を何度も吹っ切ろうとした。
しかし、どう頑張っても伊織の笑顔や優しさを忘れられなかった。
僕は伊織の死を認めたくなかった。
伊織はまだ生きている。
伊織はこうして僕の目の前にいる。
そもそも僕がハープを伊織の見えるところまで持ってきたのは、伊織にまだ生きていて欲しいと願ったからだ。
そして伊織はあの時僕にまだ生きたいと叫んでくれた。
でももしあの時、伊織の心はすでに死の方向に向かっていたとしたら。
僕がハープを見せたおかげで、彼女は安心しきって永い眠りについたのだとしたら。
いや、そんなはずはない。
ある訳がない。
だって、だって、伊織はまだ生きているのだから……。
僕は最早、錯覚と現実逃避でしか自我を保てなくなっていた。




