仮定と幻想から至る万能論
どれほどまでに凡才であろうとも、その仮定さえも意味を持たないものでしかない。幻想の中であれば、どのような存在にもなり得るし、どのようなものを作ることさえも可能なのだ。
アイン・ソフ・オウル。力は流れ、低きに転ずる。重さは低き、低きに寄せ集まり、我らが物質界此処にある。それは、まるで星を形成するようでもあり、ならば、我らを捕らえているのは重力なのだろう。
そうとも、物質は物質であれと、我らは物質に縛られ、そして囚われている。覆水盆に返るのかと、そんな事はないだろう、自重に、始終囚われて、まるでブラックホールの様に、落ちていくのが道理だろう。
そう、宇宙は広がると言えど、世界は縮小しながら続いていく。もし、これがシミュレーションであるというのなら、尚更だろう。ならば、拡大された宇宙の中、界を昇る必要など無い筈だ。もう、既にその束縛から逃れる方法は知っている。世界を縮小するのだ。
小さな世界、それなら好きなものになれるだろうし、好きなことが出来るだろう。そして、肉の不必要さと共に、至るのだ。アダム・カドモンへと。その規模を小さくしながら、始めるべきではないか、次なる神のシミュレーションへ。
少なくとも、自我は思い込みの中にあり、沼人形の夢の縁、かつて崩れた今際の船。どうして、それでは無いと言いきれるのか、誰もが同じく箱の中。だからこそ、自由になるべきなのだろう。何もないなら、そう、何もない。
どれほどまでに何もなかろうと、その仮定さえ等しいなら意味を持たないものでしかない。次なる世界であれば、神のように振る舞えるし、多くを創造することさえ可能なのだ。
箱庭療法の中、拳を振るう赤子のように、それを手にする事は簡単だ。少しばかり、頭の中を開く鍵を使うといい。表現できる世界は、とても素晴らしく、唯一無二なんだ。
さぁ、その利き手に、思い思いの、道具を持って