前編【僕は愚かな空を泳ぐ鳥】
――初めて彼女に出会ったときに抱いた印象は、すぐに消えてしまいそうな儚さだった――。
昼休み、今どき珍しい自由に出入りが出来る屋上に行くとそこに彼女はいた。
コンクリートの壁に背を預けてジッと空を眺めている彼女はそのまま空に溶けてしまいそうに見えて、僕はつい彼女に声をかけた。
「そんなに空ばかり見て、何かあるの?」
「……なにも」
見ず知らずの僕に見向きもしないまま、彼女はただ一言そう答えた。
その日は僕が何を言っても、もう彼女は返事を返すことはなかった。
翌日、また昼休みになって屋上へ行くと彼女は変わらず同じ場所で空を眺めていた。
僕はどうしてか彼女が気になって、また声をかけた。
「空って、海みたいに見えない?」
「どうして?」
僕の言葉に、少しだけこちらを向いて彼女は疑問の言葉を返した。
昨日の会話から予想出来なかった返事に、僕は一瞬戸惑った後に慌てて口を開いた。
「ほら、空も海も青いからさ……だから、海みたいだなーって」
「そう……」
彼女はもう僕への興味を失ったようで、もうその日は何を言っても返事を返すことはなかった。
また、僕は昼休みになると屋上へとやってきた。
彼女は同じようにコンクリートの壁に背を預けながら空をジッと眺めている。
この日僕は彼女に声をかけることなく、彼女と同じように空を眺めながら、ついでにパンを食べた。
……いくら眺めてみてもやっぱり空は空で、なにも変わったことはない。
僕はパンを食べ終わったらそのまま屋上を後にしようとしていたけれど、今度は彼女が僕に声をかけてきた。
「ねぇ、空が海なら鳥は魚? 私もこのまま泳いでいけたらいいのにね」
「どうだろうね、君の言っていることが僕には良くわからないよ」
「そう……」
彼女は僕の言葉に少し寂しそうな反応をした。
長い髪に、真夏だというのに長袖の彼女の少しだけ見える肌には、いくつもの傷跡と、痣のようなものが見えた。
けれど僕はそれには触れず、今日も屋上を去った。
……屋上でのやり取りもこれで何回目だろう。
昼休みの間だけの、彼女との会話。
たったひとこと、ふたことだけの短い会話を何度も繰り返した。
きっと、中身なんてないけれど、僕はそれをやめようとは思わなかった。
日に日に彼女の傷は増えているように見えたけれど、それでも僕はそれに触れようとはしなかった。
「視界いっぱいに空の青色が広がっていると、少しだけ気分がいいの」
彼女は独り言のように僕に話しかける。彼女が話すとき、僕の方を向くことはないから。
「自由に空を飛ぶ鳥が羨ましい、私は魚のように自由に泳ぐことも出来ないし、鳥のように自由に空を飛ぶことも出来ないのに」
彼女は自由を渇望しているようだった。きっと、それが彼女が今にも消えてしまいそうな理由の一つかもしれない。
……その日、僕は昼休みになるといつものように屋上へと向かった。
屋上への扉を開いた瞬間に見えたのは、足場ギリギリに立っている彼女の姿だった。
僕は大慌てですぐに彼女のもとへと近付こうとした。
「ねぇ、自由に空を飛べたら、どんなに幸せなんだろうね?」
「空を飛んだからって、幸せかどうかなんてわからないだろう!」
いつもと同じようにひどく落ち着いた様子の彼女の言葉とは裏腹に、僕は叫んでいた。
「そうかな……そうかもね」
彼女はこちらを向くと両手を広げて空を見上げた。
「でも、私はきっと、幸せなんだろうって、信じたいな」
――その瞬間、強い風が吹いた。
ふわっ……と、彼女の体が傾いて、そのまま堕ちていく。
がむしゃらだった、気づけば地面を蹴って僕は彼女を追いかけて屋上から飛び降りていた。
彼女の手を掴んだとき、彼女は驚いた表情を浮かべているようだった。そんな表情を見たのは、初めてだった。
僕が彼女を抱き寄せるよりも先に、彼女は僕の手を引き寄せてそのまま僕の頭を抱きしめた。
助けようとしたのは僕なのに、どうして僕が抱きしめられているのだろう。
どうしようもなく情けなくて、涙が出そうだった。
「あなたは、生きて」
彼女の笑った顔を見たのは、それが最初で最後だった。
……全治二ヶ月。あの高さから飛び降りたというのに、これだけの傷で済んだのは本当に奇跡に思えた。
病室で目覚めた後、彼女のことは誰に聞いても教えてもらえなかった。
自分で調べようとしても、彼女の名前さえ僕は知らなかった。
僕たちの飛び降りから、屋上には高いフェンスが設置された後、立ち入り禁止になった。
けれど僕は体が治った後、立ち入り禁止になった屋上に、これまでと同じ時間にこっそり忍び込んで彼女と同じように空を眺めていた。
もしかしたら彼女がいるかもしれない、そんなことを少しだけ期待しつつ、彼女が何を考えていたのかを、考え続けた。もし、もう一度会えたならもっと話を聞きたかったから。
……あれから、あっという間に時間が過ぎて、卒業式の日がやってきた。
彼女は結局、僕の前に現れることはなかった。
式が終わった後、僕は最後に屋上へ行き、彼女が飛び降りた場所にフェンスを越えて立っていた。
彼女が何を考えて、何を想ってここに立っていたのか、知りたかった。
特別な関係だったわけじゃない。深い関係を持っていたわけでもない。
けれどどうしても、僕は彼女のことが知りたかった。
――あのとき、彼女を庇うことが出来なかった罰だろうか。
両手を広げて、空を見上げた瞬間にあのときと同じように強い風が吹いた。
僕はその風に押されて空に堕ちていく感覚を全身に感じた。
体がゆっくりと傾いていくのに、僕はどうしてか抗うことが出来なかった。
広く、青い空に、全身を呑まれているようだった。
屋上から完全に体が離れる瞬間に、僕は彼女の姿を見た。
黒く長い髪、相変わらず長袖のまま……いや、今は春だったね。
まるであのときの僕のように彼女は慌てた表情を浮かべていて、僕の方へと走り寄ろうとしているのが見えた。
けれど、あのときと違うのは、僕と彼女の間には高くそびえ立つフェンスがあるということ。
彼女の手は、きっと僕には届かない。
――あぁ、なんで僕はこんなにも――