第二部 『背中合わせ鏡』編 半透明少女 埜逆崎櫻 2
「さて…今期の活動報告の書類も提出終わり、と」
琉架は職員室の前で一息ついた。ここ一週間ばかり『紫』の部室にこもりっぱなしで書類をまとめていた。なんだか外の空気を吸うのも久しぶりな気がする。もちろんそんなわけはないけれど。
今日からしばらくはいつもの通りの活動に戻れる。琉架は大きく伸びをしてそのことをかみ締める。『紫』は生徒の中では最高権力であるがゆえ、仕事も多く、期毎の報告をまとめるのも一苦労だ。赫紗が入ってきてくれたおかげで今回はだいぶ楽ができた。
「でさ~、この前の殺伐トワイヤルがね…」
「あ、見た見たっ、すごくよかったよねぇ」
琉架の目の前を二人の女の子が横切っていく。琉架はなんとなくその様子を横目で追ってしまう。
ネクタイのストライプがグリーンと黄色。琉架からしてみれば下級生、それも一番下の1年生だ。
『紫』の顧問は(正式にいえば『紫』のほうが立場は上なので書類上では『紫』の文書整理係、になる)この下級生を受け持つ教師だ。だからいまは琉架も下級生のいる校舎にやってきているわけで。
この前の出来事をなんとなく思い出してしまう。あの少女、埜逆崎櫻もネクタイは確かこのパターンだった。
クスリと笑うどころか眉一つまともに動かすことのなかった彼女。それでも琉架の視界にはその彼女が残像のように焼きついている。それはやっぱり琉架は彼女の瞳に映った自分から完全に逃げ切ることができなかったからだ。今でも自分があの時言った言葉は正しかったのか何度も問いかけてしまう。都合のいい、あるいは根拠のない綺麗事ばかり押し付けてしまったのではないかと。
あれから何度『価値無し』についての文書なんかを読み漁っても無駄だった。琉架にはやはり櫻のことをわかった振りさえできなかった。
それでもきっと、大丈夫だと琉架はどこかで無責任に信じてしまう。だって約束したのだ。授業にきちんと出るって。それにそれは櫻にとっても必要なことのはずだ。
さみしいって言葉もわからなかった櫻はやっぱりまず人といることが大事。
それで打ち解けてきたらさっきの女の子たちのように他愛もない話なんかもしてみるといい。それでちょっとずつ、わからなかったことがわかるように。
教室で少し、笑えるようになった櫻。想像してみると少し琉架も楽しくなってくる。
せっかくだから櫻の様子を覗いていこう。
琉架はそう決めると櫻の教室に向かって階段を登り始めた。
『紫』の腕章を外し忘れていたせいで下級生とすれ違うたびに怯えが少し入った目で見られる。
廊下で下級生とすれ違うたびに誰もがふと、一度会話を止め、肩を震わせる。怖い上級生が目の前を通るから少しでも目立たないように、因縁をつけられないように、とでもいうように。
そして琉架が歩き去っていくとこんな声が耳に入ってくる。
「『パープルオブインディペンデンド』だ…うわっ、誰を捕まえにきたんだろっ」
「なになに、なんで『紫』の人がこんなところに…誰かなにかした?」
ん~、と琉架はぽりぽりと頭をかいた。腕章はいちいち名乗ったりしなくていいから便利だけどそんな風に思われるのはちょっといやだ。琉架はもともと恐怖政治じみたことは一度もやったつもりもないし、権力任せになんとかしようと思ったこともないつもりだ。琉架にとって『紫』というのはただのプライドの根拠なだけだ。魔王様に認められたっていうその事実だけが必要なのだ。『紫』を権力や暴力として捉えたことも使おうとしたこともない。
だって琉架は魔王様の力を利用したいんじゃなくて魔王様のために何かがしたいのだ。
だから『紫』は凄いんだぞ、魔王様直轄組織だぞ、なんて偉ぶったら本末転倒、何の意味もないし、そこだけはしっかりと気をつけているつもり。
いまさらここで腕章を外すのも今度は逆に腕章という印を扱いきれず負けてしまったような気がしてしまう。けっきょく琉架は腕章を外さずになおさら堂々とした足取りで廊下を歩いた。
「別に、悪いことしなければ全然指導しませんから。それにみんなもいずれは魔王軍の中枢を背負って立つ人材、いまのうちにいろんなことを学び、励んでください」
琉架はにこっと、振り返る。さっきこそこそ話をしていた二人はびくっと肩を震わせると慌てて頭を下げた。
ぱた、と琉架はある教室の前で足を止める。そして教室のドアにかかった札を確認する。
『滅』
確かファイルで見た櫻のクラスのはずだ。
いまはちょうど午前中の大休憩だから、時間はたっぷり、というわけでもないけれどそれなりにある。
琉架はがらがら、と教室の前のドアを開いた。
思いも寄らない来客に教室中の視線がいっせいに注がれる。
そしてすぐにその右腕『紫』の腕章に気付き教室は戦々恐々としたざわめきに包まれた。
「あ~、いい、いいですよ、騒がなくても。ちょっとある人の様子を見に来ただけですから」
琉架は両手で教室の喧騒を押しのけ、ぐるり、と教室中を見渡した。
それでも教室の中では琉架が言う『ある人』が誰なのか、琉架の目を盗むようにそちらこちらで会話を交わされる。
琉架は教室のどこにも櫻の姿を見つけることができない。琉架が櫻の姿を忘れる、そんなことはあるはずがなかった。だけど何度教室の中を見回してみても櫻の姿はどこにもない。
ただ、教室に一つだけぽっかりと空いている席があった。
「ねぇ」
「ひゃ、ひゃいっ」
琉架が一番近くにいた女の子を捕まえる。女の子はびっくりしたように裏返った声を上げた。
「そんなにびっくりしなくてもいいから、落ち着いてくださいね。
ちょっと聴いてもいいですか?」
「は、はいっ!!
『パープルオブインディペンデンド』様っ!!なんでも聞いてくださいっ」
女の子はちょっと顔を赤らめて無駄に力の入った返事を返した。
学園内において琉架に対する評価は真っ二つだったりする。
それは紫執行部長としての『恐怖』。
もう一つは旧家『日向』の血筋であり、この学園始まって以来の才女としての『尊敬』。
事実、琉架は学業においては学園の記録を全て塗り替えているし、本人が不得意といっている戦技は魔法も武術も優評価だ。ちなみに評価判定は劣(落第の対象)下、普、上、良、秀、優、特、恐だが学生の大半の評価は秀までにおさまる。
「それじゃ、聞くけど、櫻さん、今日は来ています?」
「櫻…『価値無し』、ですか?」
思わず琉架は眉をひそめた。
「え、あっ、わたし、何か失礼なこと言いましたかっ」
「…いや、いいんですけど。それより櫻さんは?」
その女の子の反応だけで琉架は自分の考えていたことがほとんど妄想に近かったのだな、と見事に思い知らされた。打ち砕かれた。続く言葉はわかりきっている。火を見るより明らかだ。それでも、それがどんなに細い糸でも、目の前にぶら下がっているならすがりつきたいと琉架は思うのだ。
「来ていませんよ。でも、いつものことです。『価値無し』は戦闘訓練のとき以外はほとんどでてきませんから」
『価値無し』『価値無し』『価値無し』、その言葉を重ねられるたびに琉架はなんだかもやもやしたものを抱えてしまう。女の子は何一つためらうことなく、櫻を『価値無し』と表現する。きっとこの教室中がそうなのだろう。それに込められた侮蔑の意味を彼女らは一体どれだけ理解しているのか?いや、きっと理解しようともしないだろう。そしてそれはひどく正しいことだ。琉架はそう思う。
琉架もここで一人だけ喚きたてて教室中を責めたてるようなまねはしない。『紫』の権力を利用すればすぐに彼女たちに『指導』を与えること簡単だ。そしてそれのバカらしさも誰よりもわかる。
こんな教室で一人授業を受けたからといって櫻の中で一体なにが生まれるというのか。
だからといって教室にはまったく非がない、とも琉架は思う。
ここでのこの反応は至極まともなものだ。琉架だって最初は『価値無し』ってだけでひどく見下していた。
琉架がただ、他の魔族と違うのは櫻の瞳に一目で落ちたからだ。たとえそのとき感じたものが『恐怖』であっても虜にされたことには間違いない。
「そうですか…失礼しました」
琉架はくるり、と踵をかえしドアを閉じた。軽かった足に引きずるような重さを感じながらも今考えることはたった一つ。そうただ一つ。
ただシンプルに。すぐに櫻に会いに行かなければ。