第一部 『人刺し人形』編 無感傷少女 埜逆崎櫻 6
価値ってなんだろう。『価値無し』といわれるたびに思う。
『あたい』という言葉を重ねて価値だ。つまり櫻に対してそうするだけの意味があるか、櫻はそれに価するか、値するのか、そう考えたときに櫻にそれだけのものはない、故に『価値無し』。それが櫻が考え抜いた答えだった。
櫻はまた教室を抜け出して森の奥に来ていた。人といるのは疲れる。
誰かに名前を呼ばれるたびに、いや、名前に限らず『価値無し』や『忌み子』。そういう言葉を聴くたびに櫻は思う。
私はなんなんだろう。櫻を形容するありとあらゆる言葉が、今の『私』をすり抜けて全然違うものをいっているように思えてならない。そういうことを考え出すと手の平で水を掬うのに似ていくらやっても零れ落ちてしまうばかりでちっとも進まない。
櫻は木の根元に座り込むと幹に背中を預けた。それでゆっくりと目を閉じる。
ガサガサ、落ち葉が擦れる音がした。
櫻は木の陰からそっと顔だけ覗かせた。
そこにいたのは男の子と女の子だ。二人とも制服姿でちょっとうつむき加減の女の子に男の子がなにやら話しかけている。言葉は聞こえてくるけれど、言葉の意味もわかるけれど、だから何がしたいのか櫻にはわからない。ほんの10メートルほど先で行われていることが櫻には超えられない何かできっちりと仕切られているのだけは感じる。
たまに、ああいう風に男の子と女の子の二人組みが訪れる。それは同じ人たちのこともあるし、違うこともある。
でもやることはだいたい一緒だ。あんなふうにしてしゃべって、手をつないだりする。時には唇を重ねたりする。
櫻は何をするでもなく、ぼんやりといつものようにそれを眺めた。
櫻の予想にたがわず、男の子は女の子の手をぎゅっと握り締めて、女の子はほほを赤く染めたまま顔を上げる。
そうすることが当然、あるいは自然、というように二人は引っ付き慣れたように肩を寄せ合う。
面白いのかな?楽しいのかな?
櫻はそこまで思ってふと、気付いた。面白いってなに?楽しいってなに?
櫻はぎゅっと腰にぶら下げたままの刀を握り締めた。
学園内では望めば帯刀も許される。もちろんその資格は問われるのだけど。櫻に関しては不問だった。それは『価値無し』であれど櫻は魔王の子供だし、ましてやその刀は魔王の片腕なのだ。いったい誰が口出しをできるというのだろう。
櫻は刀を握っている間は笑える。本人は自覚していないけれど。
刀を振るい、何かを傷つける。そうすると悲鳴を上げるし、血を噴出すし、そして動かなくなる。
櫻の手によって目の前の存在がそんな風に変化していく。それが唯一、櫻がこの世界に対してできるコミュニケーションなのだ。櫻が話しかけようと、近づこうとすれど誰もが目を逸らすかこわばったような表情を浮かべるだけだけだ。櫻という存在になるべく触れようとしないし、触れざるを得なくてもすぐに遠ざけようとする。誰も彼もがいないことにしようと、いないものにしようと。だから櫻は自分を幽霊のように感じてしまう。見たがらないし、見えないほうがいい存在。
でも刀をもって斬れば誰も彼もが悲鳴を上げて櫻を見る。そのとき、はじめていないはずの櫻、を誰も彼もがココに存在している、と認めてくれる。そのときだけ、櫻は見るに価するもの、つまり、『価値有り』なのだ。幽霊みたいに誰も彼もから無視され続け、いてもいなくても同じように巡ろうとする日常の歯車の中で、櫻という存在を発揮するためには、自分自身を見てもらうためには価値を獲る為にはこの刀で斬るしかない。
だからそのことに初めて気付いてからは何人かは斬った。そして怒られた。薄暗い地下牢に押しとどめられたこともあったけれど落ちる水滴の音もかび臭いにおいも櫻の心を動かすことはできなかった。床が横になるには固い、それだけの感想しかなかった。だから戦場は好きだ。斬っても構わないモノがいっぱいあって。いくら斬っても怒られない。その後に向けられる視線が痛烈に櫻という存在を忌避しようとしていてもそれだって櫻を見ているのだ。
手を握られた女の子は肩を寄せてじっと男の子を見つめる。男の子も目を逸らさずじっと女の子を見つめる。櫻も誰かの手を握ればそんな風に見てもらえるのだろうか。
「不、不純っ!!まったくもっての不純ですよっ!!愛や恋だのに現を抜かす暇などあれば、多少なりとも勉学に励むのが私たちの義務ですっ!!ひいてはそれが魔王様へのご奉仕に繋がるのですっ!!軍属のわたしたちは骨の一つ、髪の毛一つまですべて魔王様の所有物なのですから!!」
突然響き渡った大声に少年少女は慌てて身を離した。そしてその声の主を認めるなり二人は驚愕を隠しえない。
「あ、あぁ、なんてこった」
少年は愕然とひざまづきうなだれる。
「…ぱ、『パープルオブインディペンデンド(独立の紫)』…『蓄殺執行業者』の琉架さん…」
少女も愕然として呟いた。それは現実から見放されたように悲壮感に打ちひしがれている。
むしろそれにびっくりするのは琉架のほうだ。二人ともまるで死刑を宣告されたかのように諦めきっているからだ。
「え…あの、そのですね…というかなんなんです…その…インディペンド?キリング…?え?」
おどおどと琉架は話しかけるが二人はもうそれどころじゃない。
「ココで俺の人生も終わりか…ごめん、ユリ、君には迷惑ばっかりかけたね」
少女はぶんぶん首を振って少年の手を握り締める。
「全然…私は幸せでした。貴方がいてくれたから」
と、これから訪れるのは死で疑いようもなく、避けようもないといった風情なのである。
「ちょ、ちょっとっ!!なんでそんないまから死にますみたいな態度を取るんですかっ!!」
「だって…『紫』、しかもよりによって『パープルオブインディペンド』に指導されての生存率、わずか0.09%だと…」
「はい、だって琉架さんの決め台詞は『骨も拾わねぇ!!貴様の死骸は豚の餌っ!!畜生に食われる貴様は畜生以下、蓄殺だぜっ』だと…そして有言実行」
次に愕然とするのは琉架のほうだ。琉架は指導の際平手打ちさえしたことないような平和主義者なのだ。
「ちょ、ちょっとまって…それなんのデータ…誰調べなんですか…そもそもそんなセリフ言ったこともないというか口調だって全く別物じゃないですか!それ、誰から聞いたんですか?」
「右目の周りに炎の刺青をいれた…『紫』の三つ編み垂らした女の子」
それに少女もコクコクと頷く。
琉架はぎゅーと拳を握り締めた。やっぱりあのアホは外でも根も葉もないことを言いふらしていやがったっ!!
「ひぃっ!!やっぱりやる気満々だっ!!」
「う…しょうがないです、死ぬときは二人で」
二人はそれを殺しの序曲と勘違いして、せめて最後だけは、と肩を寄せ合い震える。
「あ、その、いえ、こ、こここれは違うんですよ」
琉架は慌てて拳を開いてぶんぶんと手を振った。
「と、とにかくですねっ!!愛や恋だのを否定はしませんがそれに現を抜かすのは一人前になってからっ!!今の私たちは修行の身なんですっ!!より優れた軍人として、魔王様の兵隊人形としての性能を兼ね備えるまではそういうことは後回しにしてもらいたいだけですからっ!!わかったら帰って勉強してくださいっ」
ピン、と琉架は指を立ててのアピール。優等生からのめっ!だぞ!ぐらいの軽い調子をなるべく演じてみる。
「み、見逃してくれるんですか?」
「見逃すも何もたったそれだけで殺すわけがないでしょう。それと不純異性交遊もするなとは言いません。ただ、不純異性交遊は1日1時間、私たちは未来の魔王軍を担う存在なんですからね、それ以外は勉強してください」
「うわぁ、ありがとう、ありがとうっ」
「すいません」
両手を広げて喜ぶ少年とペコリ、と頭を下げる少女。
「はいはい、もういいからいってください。ここには別の用事で来たんですから」
しっしっ、と琉架は追い払う。
「あ、それと戒音…入れ墨バカの言うことはほぼウソだからまに受けなくていいんですからねー!」
と背中を向け始める二人に投げかける。
二人はまた琉架に頭を下げてそそくさと立ち去った。
「しかし、あんなとっぽい男の子と恋愛してあの子は楽しいんでしょうか…?世の中に魔王様より素敵な男がいるわけないのに魔王様と結婚したいというわけではないですがそれと比べてしまうとどうしても…まぁ蓼食う虫も好き好きといいますし…ほっておきましょう。
それより…」
琉架はぐるり、と森の中を見回す。
「櫻さんはどこにいるのかしら」
櫻はいま自分の体になにが起きたかちっともわからなかった。
いま自分の名前を口にしたあの人は誰だったのか、ぼんやりと考えてやっとで引っ張り出してくる。
そうだ、すすんでわたしの手を握って引っ張った人だ。
「ここ、なの」
櫻は木の陰から少女の前に身を乗り出した。
「ひゃぁっ」
琉架は思わず悲鳴を上げた。
「…やっぱり」
櫻はそのままくるり、と身を翻し帰ろうとする。
「ま、まちなさいっ」
琉架はすばやく手を伸ばすと櫻の手を握り締めた。
櫻は振り返り琉架を見つめる。
「なに、なの」
「…二ついいたいことがあります。いいですか?」
「言えばいい、なの」
櫻の目はあいかわらず見たものを飲み込もうとする宵闇だけが宿っていた。
その瞳にはこの前と同じように琉架の顔が映りこんでいる。だからこそ、琉架は振り絞って言わなければいけない。自分が櫻に言った言葉の責任を取るべきなのだ。
「一つ目は貴女に対する私の偏見です。私は櫻さんのことを何も知らないくせに『価値無し』なんて侮蔑の言葉を吐きました。すいません」
琉架は深々と頭を下げた。
「なんで謝る、なの?私が『価値無し』なのは事実、なの。誰も彼もが口をそろえてそういうし、誰も彼もが私をそう扱う、なの」
「だからといって好きで『価値無し』で生まれたわけじゃないじゃないですか」
櫻はちょっと物思いにふけるように目を逸らした。そして再びその目で琉架を捉える。
「…よくわからない、なの。『価値無し』は悪いこと、なの?普通であればそう生まれたくない、なの?」
「それはもちろん、決まっているじゃないですか」
「そう、なの。『価値無し』は悪いこと…じゃぁ私は悪いもの、なの?」
「それは違いますっ!!」
琉架は力説する。
「『価値無し』は悪いのに、『価値無し』のわたしは悪くない、なの?それだと意味がわからない、なの」
琉架は言葉に詰まる。苦し紛れであろうととにかく続けるしかない。
「それは櫻さんがただの『価値無し』じゃなくて…その…そう、なにもないならいまから作ればいいじゃないですかっ」
「作るってなにをなの」
「そ、そう、ここからが二つ目ですよっ!!だからまずは櫻さんは授業にきちんと出て魔王様の元で立派に働く軍人としての素養を得るのですっ!!そして周りと一緒に協力していってですね仲良くというか、そこが『価値有り』の第一歩だと私は思うわけですよっ」
なんとか上手くつながった、と琉架は内心安堵する。でも。それこそ櫻には価値のない一言なのだ。
「戦場ならもう立ってる、なの。軍人という意味であれば私はたくさん殺してきたから、なの」
「そうじゃなくてですねっ」
琉架は言葉につまった。櫻は続ける。
「じゃぁ軍人はなにをする、なの。殺す以外に軍人の仕事がある、なの」
「それは…無いですけれど…」
軍隊であればもちろん災害における支援や野盗からの警備にあたることなどもあるがこの学園における軍人の立ち位置はそれとは全く違う。ただただ無遠慮に外敵を殺し、侵略するために技術と知恵を鍛え続けるのがこの学園に通う学生の本分だ。
琉架も全ては魔王様に立ちはだかる外敵を殺し尽くすために、そして魔王様に新たな土地と財産を提供するためにこの学園に通っている。だから櫻の言葉全てを否定することはできない。
「じゃぁ、わたしは今のままでいい、なの。他の人もきっとそう思っているから、なの。違う、他の人はそれでできれば死ねばいい、と思っているから、なの。
だからわたしは皆のためにこれからも最前線で殺すだけ、そしてそれが魔王様のためにもなる、なの」
「でも、でも…」
淡々と語る櫻に琉架は何も言うことができない。九翠将軍の出した作戦、『3万人に櫻一人をぶつける』それが事実であればたしかに櫻の言うとおりだ。最前線で敵を殺し続け、そして死んだら死んだでそれでいい、それが櫻に対する皆の気持ち、この国の答えなのだ。
でも琉架だけはそう簡単には思えない。なぜか?それはきっと櫻が人の目を見ることにまったく躊躇しないからだと思う。だって琉架は櫻の瞳の中に櫻の歪みよりも自分の醜悪さを先に見つけてしまった。
「それだけだったら、もう行くから、なの」
櫻はまた琉架の前から去ろうとしている。だけどここでの別れは前回とは決定的に意味合いが違う。ここで櫻を見送ってしまっては琉架は櫻の言うことすべてを認めてしまい、そして琉架自身も櫻の言う『皆』、つまり櫻の死を望む一人にカテゴライズされてしまうのだ。
それって、それって…
琉架はそんな自分を許したくないし。
それって、それって…
もう一度だけ、琉架は櫻の手を握って振り向かせた。
櫻はやっぱり何も見透かせない真っ黒な目で琉架を捉えた。
「まだある、なの?」
琉架は身じろぎしてしまう。でもその瞳に負けない。櫻の目に映った自分に負けない。この前とは違う。今どうしても言いたいことがあって、それがきちんと櫻に届いて欲しいと思うから。だから負けない。
「それって、さみしくないですか?」
琉架の瞳に櫻の顔は映っているのだろうか。
琉架は自分の言葉がまったく見当はずれなのをわかっていた。でも素直に言葉にするならそれしかなくて。きちんと筋道だてて櫻のことをどうこうなんてとても言葉にできない。
「さ…さみしい、なの?」
それは櫻にとってまったくの未知の言葉だった。スタンドアローンな櫻はさみしいという言葉がわからない。生まれて初めて聴いた言葉が『殺した方がいい』。母親から最初で最後にかけられた言葉が『なぜ生まれてきやがった』父親が最後に言った言葉が『櫻がいるとだめなんだ。一人にしてくれ』あとはほぼ無視され続け、なじられ、そして同じような言葉を繰り返し聴かされてきた。
「さみしい…それ、なに、なの?」
櫻は繰り返した。
「さ、さみしいって言葉がわからないんですか?一人ぼっちだと、その、こう切なくなったりとか」
琉架はぎゅっと自分の胸に手を当てる。
「一人ってさみしいこと、なの?」
櫻は小首をかしげた。
「それはそうに決まってます。誰だって一人はいやですよ」
「そう、なの?」
「そうですっ」
「…わからない、なの」
「ほんとうに?」
櫻はこくん、と小さく頷く。そして琉架を見上げた。いつもと変わらないはずなのに琉架にはまるでそれがすがるようにも見える。
「誰かと一緒にいて、別れてしまったあととか…」
それにも櫻はふるふると首を振る。
「いつも一人だから、なの」
「なら、授業に出てみてください」
「なんで?勉強には意味なんてない、なの」
「いえ、授業は勉強だけじゃありませんから。いろんな人と時間を一緒に過ごさないことにはさみしいって気持ちもわからないはずです」
「…誰かといれば、わかる、なの?」
「ええ、それが櫻さんにもきっと大事なことだと思います」
「…名前」
ぼそり、と櫻が呟く。
「名前?名前がどうかしたんですか?」
「私は貴女の名前を聞いていないから、なの」
「え、こ、この腕章見たらわかりますよねっ?あの、これ、魔王様からじきじきに頂いた腕章なんですけどっ」
琉架は自らが袖に通した『紫』の腕章を指差した。
「趣味の悪い色、なの」
「な、失礼ですねっ!!『紫』っていうのはもともと高貴な色なんですよっ!!だから魔王様も七式の中から自らが指揮する組織にこの色を与えたんですっ。
わたしは、わたしは日向、日向琉架です。覚えていてくださいねっ」
「ルカ、貴女の名前はヒナタルカ、大丈夫、覚えた、なの」
「それはけっこうなことです。じゃぁ、これからはきちんと授業に出ることをわたしに約束してください」
「なんで?なの」
「それが私の仕事だからですっ!!『紫』は素行不良の生徒に指導するのが仕事ですからっ!!
櫻さんも出席日数が足りないってことからいえば素行不良の生徒なんですよっ」
「仕事、だから近づいた、なの?」
「もちろんっ!!わたしの前では例えどんな人であろうと素行が不良であれば注意しますっ!!
だから櫻さん、あなたも例外じゃないです。わたしはきちんと仕事をしますからっ!!」
「……そう、なの」
櫻はため息をついた。琉架はそれに気付かず。
「じゃ、約束しましょう、櫻さん。これからは授業に出ますって」
琉架はさっと櫻の右手を握った。
櫻は身を強張らせたようにどうしたらいいかわからない。ただ琉架になされるがままだ。
琉架は手の平を重ね合わせると親指だけ重ねて包み込むように動かす。
「ただただ自らの血肉によって、ただただ私たちに、ただただ正しいお導きを。
重ね重ねて絆途切れず違わぬように」
魔族の間では比較的ポピュラーな誓いの儀式だ。
「ルカ…」
なにやらもごもごとした櫻の言葉をさえぎって琉架は腰に手を当て胸を張った。
「それじゃ、櫻さん、これからはきちんと授業に出ていてくださいねっ。約束ですよっ、儀式だってしたんですからっ」
「う、うん」
けっきょく櫻は小さく頷くしかできなかった。