第三部 『歪み歪歯車編』 暴力少女 埜逆崎櫻 3
振り下ろされるハンマァの音。それだけが永遠のように夜の静寂の中響き続ける。怨嗟が滲みだし渦巻いているかのように不吉な金属と肉のぶつかり合う音が鳴り続ける。ただこの音も魔法陣の外には蚊が鳴くほども漏れることはない。
戒音が大きく振り上げたその手をぴたり、と止めた。いまや櫻の指は全てねじくれてあらぬ方向を向いてしまっている。血に塗れ、所々白いものが見えているのは骨が皮膚を突き破ったものなのだろう。
そっとその肩に手を置かれはじかれたように戒音は振り向いた。
「満足されましたか、戒音嬢?」
銀髪の青年がニコニコと微笑んでいた。
「やはり我々が見込んだように貴女は最高に素敵な女優だ。ふふふ、見てるこっちまで興奮してしまいましたよ。こんな見世物そうそうお目にかかれません…黒子としての役を請け負った私も大変鼻が高いばかりです…ありがとうございます」
そして恭しく一礼した。だがその賞賛の言葉は空々しく用意されたセリフを読みあげているようだ。
我に返ったように戒音は自分の右手と櫻の指先を交互に見つめた。血に塗れた金槌とねじくれた十本の指。感情なんて持ち合わせていないと思っていた『価値無し』だが痛みを感じることはできるみたいで口元をぎゅっと噛み締め、目の端には涙が溢れていた。そしてその様が普段の櫻を見ている側にすれば驚くほどこっけいに見えた。まるで飾り立てた面の皮を剥ぎ取ってしまってその醜い本性を晒させてやったような、そんな嗜虐的な快感が戒音の中を上り詰める。
「まだ…」
再びハンマァを振り上げる戒音。その意図に気づいた櫻は歯をカチカチと鳴らす。次に狙いを定めたのは櫻の頭だった。青年はそれを手で制す。
「さすがにそれはやめておきましょう」
「死んだほうがいいよ、こんなの…とめないで」
「いえ、さすがに殺してしまっては戒音嬢にとっても有利に働きません。私に考えがあります。任せてください。なに、戒音嬢が手を下さなくても『価値無し』の少女は遠からず死んでしまいますから」
青年は転がった櫻の襟元を掴み、無造作に引っ張った。ワイシャツのボタンが弾け飛び櫻の胸元が露になる。年相応に膨らんだ双丘。櫻はあれだけ戦場で駆け巡っていたのが冗談のように、その素肌には傷一つ無かった。高級な織物のようなきめ細やかな肌が月の光を浴びて青白く輝いている。
「う…男ってけっきょくやることそれだよね…なんだ、お兄さんもけっきょく変態さんか…」
自分の楽しみを邪魔してまでなにをするかと思えば…戒音は軽蔑を込めた目で青年を見やる。
青年はぶんぶんと顔の前で手を振った。
「いえいえ戒音嬢、それは違いますよ、あ、いや、違いません。それはもちろん私も変態であることは変わりませんが…ただ、戒音嬢が思っておられるような行為は一切いたしませんから。そんなありふれた性的欲求で支配されていては本当の意味で変態などとは自称することはできませぬ」
青年は焼き鏝を取り出した。そして詠唱を始める。
「われ、堕ち得るなり、斯界の果て、永夜にして薄弱の赤熱を齎し給え」
あっという間に手にした焼き鏝、その先端は赤く染まる。熱で周りの空気が歪んで見える。青年はふふ、と笑う。
「それでは、櫻嬢、失礼します」
櫻はじっとその赤い先端を見つめることしかできない。抗おうにもいまだに指一本動かすことは叶わぬ。魔法陣はいまだに櫻の身体を地面に縛り付けた。青年は焼き鏝を持っていない方の手を櫻ののど元に伸ばして締め上げた。
「カハッ」
「すいませんね、私は痛みを与えるのは嫌いなのではないですがうるさいのは好きじゃあないんですよ」
青年は焦らすように、そして櫻によく見えるようにゆっくり、ゆっくりと焼き鏝を近づける。
そしてそれが露になった櫻の胸元に触れる、その寸前でとめた。触れてはいなくてもその凄まじい熱が櫻の肌には伝わってくる。
青年は櫻の顔を見つめ笑う。笑うというより、悪意に満ち溢れて、顔を歪める。
「いきますよ」
ぐ、と押し付けられた。じぅじぅと音が響く。肉の焼ける音。匂い。白い肌があっという間に赤みを帯びる。
櫻は悲鳴一つ上げることもかなわずただ、わずかに息を漏らした。
青年はそんな表情に気付いてもお構い無しにぐいぐいと焼き鏝を押し付ける。煙が上がり音と匂いがいっそうひどくなる。
戒音は思わず口元を覆う。
「どうされました、戒音嬢?畜生の肉の匂いに食欲はそそられても魔族の肉の匂いではそれも叶いませぬか?まったく不思議ですね、どちらも生肉ということには代わりはないのに。ましてや貴女が壊そうとしていた櫻嬢の肉の焦げる匂いですよ。これぐらいどうってことはないでしょう」
などと青年は楽しげに笑う。
「べ…べつに」
戒音は眉をしかめる。青年はその間もまるで料理か何かやっているように鼻歌交じりで焼き鏝を押し付け続けていた。
「さて、そろそろいいですかね…」
そういって焼き鏝を離すと櫻の肌にはぐずぐずに引き攣れたケロイド状の皮膚が無残に刻まれていた。
それはある図形だった。『鳥刺し男』の図、そのものだ。
くるり、と青年は振り向く。
「さて、最後の仕上げと参りましょうか」
「それ…何の徴?」
「ふふふ…貴女は知らないほうがいいですよ。まぁ、魔族のお偉方ならすぐにこの徴を見ればなんだか気付かれるんじゃないんですか?
それより戒音嬢、火の魔法使えますか?」
「…簡単なものなら」
「だったらどこか適当にやけどを負わせてください。あ、もちろん徴と重ならないように」
「わかったよ」
青年の意図はいまいち読めなかったが戒音は言われるまま櫻のはだけた肩に手を当て、唱える。
「死火」
瞬間戒音の手から火の手が上がる。魔法の不得意な戒音が扱うそれは触れていなければ意味がないような距離しか持たない手のひらを覆う程度の炎。多少魔力抵抗があれば打ち消すことはたやすい。ただ『価値無し』である一切の魔力に見放された櫻に防ぐ術はなくその皮膚を焼くには十分で、たちまちに真新しい火傷を浮かべた。
「これでどうするの?」
「こうするんです」
青年は先ほどつけた徴に手を当てる。
そして戒音の聞いたことのない種類の言葉を唱えた。普段使う言語から外れたそれは戒音たちの話す言葉の音にただすことができない。ゆるい光が青年の手から注がれる。
「あ…嘘…」
その光は戒音がつけた火傷には一切触れず、青年がつけたケロイド状の皮膚にのみ注がれる。
「ああ、治癒魔法が珍しいんですか?」
「だって…それは失われているはずの…」
「ああ、彼らは当の昔にその血を絶やしてしまいましたからね。あ、かといって実は私が彼らの生き残り、末裔、そんなドラマチックな展開はありませんよ。平々凡々名前すら与えられぬ脇役だからこそ私たちは舞台にあこがれるのですから。
それに以前にも言いませんでしたっけ?私たちは貴方たちとまったく違う魔式を扱うものだ、と。失われたといってもそれは貴方たちの物差しの話です。私たちにとっては点と点を結ぶために線が引けないのなら別の方法を使う、それだけです」
いう間にも櫻の焼き鏝の徴は治っていく。そして残された痕はたった今つけられたとは思えない、まるで数年前に刻まれたかのような『鳥刺し男』の徴がそこにある。
「さて、私の仕事はこれで終わりですね。それでは戒音嬢、これを」
青年は白い封筒を取り出す。それは櫻の火傷と同じ徴が印刷されていた。
「これは…?」
「魔王に対する暗殺指令書、です。もちろんでっち上げですが…ただ我々の団長はこんな劇を催すほどですからね。絵を描くのはとてもとても得意なのです。それも一般的にいう、悪意のある行動のためならなおさらですね。この指令書の概要に彼女の今までの行動、学園生活、その全てがまるでその指令の結末へ向かうためのピースだったかのようにはめ込んであります。つまり、この計画書の信憑性を調べれば調べるほど、それは櫻嬢を追い詰めていくことになるのです。これを櫻嬢と一緒に上に提出すれば…後はお分かりですね?」
「…これが、ヒロイックサーガの主人公になる、って意味だったんだね」
「そう、その通りでございます。それともいまさら舞台を降りますか?まぁあなたが見たものそのまま伝えても誰も信じないと思いますよ。我々も手放しで役者を持ち上げるほど浅はかではありませんので」
「そんなつもりは全然ないよ。なんの意味もないし」
「では私はこれで…戒音嬢もお元気で」
銀髪の青年は影に消えた。
「口にもないことばかりいって…」