第三部 『歪み歪歯車編』 暴力少女 埜逆崎櫻 2
勉強会が終わり、櫻はゆっくりと寮までを歩く。山の端にはいまや夕暮れ。
櫻の呼吸は荒かった。ギラギラと目を尖らせそこらこちらをまるで刺すようににらみつける。
自然とそれは獲物を探す足取りへと変わっていく。
「…足りない…足りない」
櫻の足は寮とはまったく別方向へと向かっていく。食堂の方だ。
食堂は裏側へとまわればそこは残飯捨て場になっていた。
はぁはぁと荒い息をつきながら櫻は人目を忍ぶようにそこに向かう。
案の定、どこから紛れ込んできたのかわからない猫が残飯の袋をつつき、中をあさっていた。
その姿を認めるなり、櫻は歪に口をゆがめた。その笑顔は悪意に満ち溢れている、どころではなかった。
黒いその表情。腰に差した刀へと手を伸ばす。カタカタと震えてうまくつかめないでいる。
猫は何も気付かず、ごみをあさっている。
刀を握る。ぴたり、とその震えは収まった。
そして一閃。
一瞬。
閃いたと思えばすでにそこには真っ二つの猫の死骸が転がっている。泣き声一つあげるヒマも無かった。
ただ、わずかに櫻のほほに飛び散った血だけが惨劇を訴えている。
「…全然、駄目なの」
少しは欲求が満たされるかと思えばそれは違う。ただ、いつものあれとの違いに余計渇きを覚えてしまう。こんなものを殺しても喉の渇きを塩水で潤そうとするのと同じでいくらやろうがどんどんどんどん乾いていくだけだ。ギラギラ光る刃もそう思う。
だけど学園内では殺しはご法度だ。早く戦場へと帰りたい。
すぐに猫の死骸をついばみにカラスが降りてくる。
櫻は今度は一思いには切らなかった。
ギャアギャアとカラス、喚く喚く喚く。
羽根を切られ、地面をのたうつもがくあがく。
冷めた目で櫻はそれを見下ろした。笑う気も起きない。
ただうるさいだけでそれはいつもの心地よい声とは全然違う。一思いにその首を切り落とした。ごろりと地面を転がる。
作り物めいた、無感情なカラスの目がこちらを向いた。見る気も起きない。
そしてつまらない、とでもいう風に息を吐く。
刀を握る手がまたガタガタと震える。
ああ、ああ、ああ、ああ、泣いている…血が…血が泣いている…身の内駆け巡る流れがずっと欲しがっている…悲鳴、汚泥、流血。
櫻は刀を握る右手を左手で押さえ込むがそれでも全然震えは収まりそうになかった。静まるのをまつしかない。
血の匂いにでも誘われたのか、また一匹の猫が迷い込む。櫻はそれを視界の端に捉えたときにはもう斬っていた。切ろうとか、切ったとかそういう考えが浮かぶ前にはもう血を浴びている。ダメだ、このままでは動くもの全て斬らないと収まらない。
櫻は重たい身体を引きずるようにしながら地面にしゃがみこむ。
呼吸を整えようと息を深く吸い込もうとするが、意思と反して喉から漏れるのはひゅうひゅうという荒い吐息だけだ。
どれだけの時間をそうして過ごしただろうか…気がつくと夜の帳が辺りを包んでいた。
血に塗れた小動物の死骸を青白い月明かりが照らしている。
「…『価値無し』」
突然の声に櫻は顔を上げる。
「お前は…」
その顔には見覚えがあった。けれど名前は思い出せない。たしか琉架の後輩の…櫻は激しい違和感に包まれる。見間違えるはずのない、右目の周りの流炎の模様。だけど、あの少女はもっと目の色をくるくると変える、感情の起伏の激しい少女だったはずだ。しかしいま櫻を見下ろすその目はそういうものを投げ捨てたように蒼い。月明かりのように、青く、冷たく、櫻の姿をその目で捉えていた。
「着いてきて」
言葉とは裏腹に戒音の言葉は櫻を突き放すような色に満ちている。櫻は少し、眉をひそめた。
「なぜ、なの?」
戒音は不愉快そうに眉間に皺を寄せると吐き捨てるように呟いた。
「…琉架先輩が呼んでいるから」
「わかった、なの。ルカはどこ、なの?」
琉架の名前を口にすると櫻は素直に立ち上がる。それがなおさら戒音の神経を逆なでした。何様のつもりだろう?黒い衝動が戒音の中で湧き上がる。だけどそれに身を任せるのはまだ早い。あそこに連れて行くまでは。
戒音は黙って歩き出す。櫻もそれに黙ってついてくる。
学生寮からは遠く離れた、第3戦技訓練場。そこはただだだっ広いだけの空き地のような場所だ。雑草がまばらに生えているだけで月明かりを遮るものも何もない。
「ルカはどこ、なの?」
櫻は辺りを見回す。人影などもちろんあるはずも無く、名前もわからない虫の鳴き声が静かに響いているだけだ。
「…もう少しで来るよ」
戒音は振り向きもせずに訓練場の中に入っていった。
櫻はその背中を怪しんだ。そもそもこんな時間にわざわざこんな人気のない場所へと呼ぶ理由がわからない。当たり前のことだ。
そうすると戒音の態度も同様だ。櫻の記憶とはまったく違う戒音の様子にざわざわと悪い予感が掻きたてられる。予感が確信に変わるのに時間は要らなかった。ただ琉架もただ浅はかだというわけではない。目の前の戒音は櫻と同じく物理戦技を得意としているのはその体つきや歩き方で見当がついている。それだけにどれだけ後れを取ろうとも先に切り伏せる自信があった。つまり見くびっていたのだ。
「…なにか、企んでいる、なの」
櫻は入り口の前で足を止めた。
戒音は振り向く。
「来ないの…?」
「お前…なにか隠している、なの。こんなところにルカが呼び出す理由も何もない、なの」
そうやって戒音を睨みつける。そう、たしかに櫻は戒音を睨みつけた。
だけどそっちの方が戒音にはよっぽど楽だった。あの真っ黒で、歪で、なにもかもを見透かすようでなにもかも見下すような底の見えない瞳に比べれば。嫌悪だか憎しみだかどっちでもいいが底の見えているいまの目の色は戒音にとっては全然恐れることはない。『価値無し』にすらそんな目で見られる自分の『ヒトデナシ』っぷりにむしろ失笑してしまいそうだ。
「ふぅん…ま、別にどっちでもいいけど」
「…?」
櫻は刀に手を伸ばしたまま訝しげに戒音の表情を窺った。
「これでも、そういうなら」
戒音はポケットから何かを取り出した。そして月明かりの元、それを掲げる。
「…ッ!!!ルカに何をしたなのっ!?」
すばやく白刃を煌かせ櫻は飛び出した。戒音の手に握られていたものは『紫』の腕章。それも琉架にだけ許される学園の紋章が入ったものだ。そしてそれはどす黒い染みがついていた。それが血だと気付くためには一瞬でよかった。
「!?」
すぐに櫻は地面に伏せた。そんな生易しいものではなかった。とてつもない圧力が、背中から櫻の身体を地面に叩き付ける。指一本動かすこともできない。がりがりと地面を引っかくことすらできない。ぎしぎしと軋みをあげる骨。内臓が圧迫され、激しい嘔吐感に襲われる。しかしそれに身体を許すこともできない。
櫻は唯一動く目玉で戒音のその姿を見上げた。その目の色は櫻が今まで目にしたどれもに似ていて、どれとも違った。強いていうなら櫻が最初で最後に見た母親の目の色そのものだ。
『なんで生まれてきやがった』『一生呪われて死ねばいい』
…その言葉が耳元で蘇る。そしていまその言葉に込められた憎しみを本当の意味で櫻は思い知らされた。だけどなぜそこまで自分が呪われなければいけないのかわからなかった。たくさんの悪意には何度も晒され来た。が今自分を見下ろすものはそのどれよりも鋭利な破片で身体に降り注いでくる。いや、今までもそういうものに晒されてきていたことに今初めて気づいただけなのだ。本当の意味で悪意を知った櫻は自分が孤独で引き裂かれてしまいそうだということも知った。耳の奥で繰り返される母親の声『なぜ生まれてきやがった』。琉架のことが陽炎の様に浮かぶ。言葉にすらできずに口の中で飲み込むしかなかった言葉が櫻には嘘のようだった。そんなことを自分が思ってしまうなんて。
『わたしが生まれてこなければよかったなんてルカは言わないよね、なの』
答はもちろん返ってこない。
戒音は自分が掲げたものを見ながら、そして同時にこれほど憤ったことも無かった。
櫻が予想通りに罠にかかったことに喜びよりも苛立ちの方が圧倒的に勝った。
「残念…これ、戒音の血だよ。
それに一体なにを焦っているの?他人なんてごみでしかない、そして自らもごみの『価値無し』のクセにッ!!!」
吐いた唾が櫻の顔にかかる。
こんな罠に引っかかる、ということは感情なんてものを持ち合わせていないはずの、同族を同族とも思わぬ殺すことしか欲求を持たないこの殺戮人形が『琉架』だけは特別大切に思っている、右目の入れ墨が焼けきれるように熱い。身体の中で暴れまわる感情がそこに集まってきたかのようだ。食い込むほど戒音は強く拳を握る。
二人を中心に『液』と『杭』で構成された複雑な魔法陣が浮かび上がっている。円や幾何学模様を中心とした通常の魔法陣とは違う、子供の落書きの様な一見無意味でぐちゃぐちゃの線で構成された魔法陣。
「死ねっ!!死ねっ!!お前がっ!!お前が全部悪いんだっ!!」
戒音は櫻の顔を踏みつける。靴底からでもその感触が伝わるほど強く、強く。声一つ櫻は上げない。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!!!!!」
何度も何度も。革靴の硬いかかとが櫻の顔を地面に押し付ける。櫻の口の中に鉄錆のような味が広がる。多分、口の中が切れて血が出てる。泥交じりの中櫻は戒音を見上げる。その目は今までがそうだったようにぽっかりと空いた黒い穴だ、感情が消えてしまっている。それが馬鹿にされているようで戒音の神経を逆なでにした。
「はぁ…はぁ…」
戒音は荒い息をつきながらポケットをまさぐった。そこに握られていたのは金槌だった。ただの金槌ではなく何らかの魔力的補助を受けているのはその細かい装飾や嵌められた魔石ですぐに察することができる。
「お前の唯一の『価値』をなくしてあげる…
は、ははははははっ喜んだらいいよっ!!これで、これでお前は本当の『ノーウェスト』!!一銭の価値もない、ただのでくの坊だから…あはは、ちがうか、でくの坊なんて立派なものじゃなかったね、忌み子だったね」
戒音が櫻の指を手に取るまで櫻は戒音がなにを言っているかわからなかった。だけど戒音がなにをしようとしているか気付いた時にはもう否定の叫びすら上げることは叶わぬ。それだけは、と櫻は強く思う。刀を握ることができなくなる、それは櫻にとっては全てを奪われることに等しい。だけどもう遅い。
すでに、ハンマァは振り下ろされている。
グチャリ。肉と骨の砕ける音が響いた。
容赦なく、ハンマァは振り下ろされ続ける。そこには慈悲も何もない。ただ狂気じみた戒音の笑い声と、肉の潰れる音が響き続ける。
「あはっあははははははっあははははははははっ」
そうだ、初めっからこうしていればよかった。皆に混ざって仲良しこよしで生きていこうなんてちっとも思う必要は無かったのだ。欲しいものは欲しがって、力づくでそれがどんなに姑息で汚れた手でも奪ってしまえばいいのだ。どうせあいつらが死んでも悲しむことのできない戒音なのだから。