第二部 『背中合わせ鏡』編 半透明少女 埜逆崎櫻 4
「セ、センパァイッ!!琉架センパァイッ!!
きききき、聞いたッスよっ!!チョーウワサッスよっ!!ななな、何を考えてるッスか、先輩わっ」
バターンとけたたましい音を響かせながらドアをぶち開けると戒音はグルグルと転がり込んできた。
本当に文字通りグルグルと琉架の目の前まで転がってくると、ゴツン、としたたかに琉架専用机の角に頭をぶつけてしまう。
「ハ、ハギャー!!!なななな、なんッスかこれっ!!ワナッスか!!戒音専用の巧妙に仕組まれたワナッスか!!ひぃ、琉架先輩、戒音を捨てるッスか!!戒音がもうジャマモノなんスね!?なんスねッ!?こ、この浮気ものーっ!!
か、戒音、ヤキモキしちゃうっ」
立ち上がると戒音はたんこぶのできた額をさすりながら涙目で琉架を指差した。
「いちいちうるさいし、いちいち突っ込むところが多すぎてもはやなんて言っていのかわからないんですが…」
やれやれ、と琉架はため息をつく。
「そもそも頭ぶつけたのだって意味もなく前転しながら教室に入ってくるからじゃないですか…
ここは体育館じゃないんだからそりゃ頭ぐらいぶつけますよ…」
ギャー!!と戒音は身をのけぞらせた。
「ひぃっ、冷たい御言葉ッ!!とても嫁に対するものとは思えないッスよっ!!や、やっぱり戒音を捨てる気ッスね!!戒音のことを好きなだけ蹂躙するだけ蹂躙してあきたらぽいなんスねッ」
「あ~赫紗がいないとこんなとき面倒なんですよねぇ…懲らしめる人がいなくて…
だいたい私は女だから嫁に行くことは会っても嫁を貰う気はちっともないし…蹂躙だってしてないでしょう?勝手に頭をぶつけただけで。まったく妄想世界住人っぷりもほどほどにしてください」
「で、でもでもっ!!ルカ先輩、ほんとなに考えてるッスかっ!!」
「そりゃいつだって学園の平和と秩序のことを考えてますよ。
わたしは『紫』の長なんですから」
さらり、と琉架は答えてのけた。
「じゃぁなんなんッスか、あれはっ!!もはや学園中がこのウワサで持ちきりッスよ!!
ルカ先輩が『パープルオブインディペンデンド』の権力を行使して学園長に掛け合ったらしいですねっ!!
『価値無し』、あえて『価値無し』って言わせて貰うッスけど勉強は毎日ルカ先輩が教えるから定期テストで合格すれば『価値無し』を進級させるように、って。
なに考えてるっすか!!ルカ先輩、あれだけ『わたしは『紫』だから凄いんじゃなくて凄いから『紫』なんです』って言ってたじゃないッスか!!それをなに『紫』の力で自分の都合のいいようにっ」
「…ああ、そのことですか。
戒音も仲良くしてあげてくださいね。それと…櫻さんの目の前で『価値無し』なんていったら…いくら戒音でも許しませんよ」
「な、仲良く?そりゃいくらルカ先輩でも無茶な話しッスよっ!!誰が『価値無し』なんかとっ!!」
そのとき、がらら、と扉が開いた。
二人とも凍りついたように身体を動かせなくなってしまう。
顔を覗かせていたのは話題の中心、櫻だったからだ。
「…帰ったほうがいい、なの?」
櫻は右手に教科書なんかを詰めたカバンを握り締めて首をかしげた。
「いえ、構いませんよ、そこの席に座ってください」
琉架はにっこり笑うとあいている机を指差す。
ギリギリッと戒音は櫻を睨みつけた。
「なに、なの?殺す、なの?ならわたしも斬る、なの」
櫻もカバンから手を離すとすぐに腰にぶら下げた二振りの刀、そのうちの『黒剣八十』に手を伸ばす。
そして亡羊として底の見えない黒い瞳で戒音を捉えた。その瞬間、戒音は喉元に刃物を突きつけられたように冷たいものを感じ身震いしてしまう。ああ、やっぱりこれはバケモノ、『価値無し』だ。
「櫻さん、抑えて。それに戒音もそんな顔で櫻さんを見ないこと、失礼ですよ」
「バ、バカッ!!ルカ先輩のバカッ!!と、年増ー!!年増はルカ先輩っすよーッ!!」
ハギャーと戒音は両手を広げて喚く。
「なッ、戒音ッ!!取り消しなさいっ!!取り消さないと本当に怒りますよっ」
バシーンと琉架は両手で机をぶったたいた。どこぞの憤った演説家のようでもありけたたましい音が教室中に響き渡る。
「取り消さないっ!!取り消さないッスっ!!それにルカ先輩もう怒ってるじゃないッスかっ!!年増はルカ先輩ッスよっ!!バ、バカー!!」
戒音はくるり、と踵を返す。でも一度振り向いた。そしてもう一度櫻を睨みつける。櫻は何事もなかったかのように二人を無視して琉架の言った席に座っていた。
「認めないっ!!認めないッスからねっ!!どうやってルカ先輩を騙したか戒音は知らないッスけどそれでも『価値無し』なんか絶対に認めないッスからっ!!死ねばいいッスよっ!!『価値無し』っ!!忌み子!!死にぞこない!!同族殺しっ!!」
戒音は徹底して侮蔑の言葉を櫻にぶちまける。
だけど櫻は少し、眉を持ち上げただけで不思議そうに戒音を見つめるだけだ。
ちっとも憤りも悲しみもない櫻の表情に戒音はまた怒りがこみ上げてくる。でももういやだ。こんなところには一秒だって居たくない。もう居たくない。戒音はそのまま教室を飛び出す。
「か、戒音ッ!!あやまってっ!!櫻さんにあやまってっ!!」
だけど戒音はその言葉を背中で振り切りもはや廊下の向うに消えてしまっていくのだった。
戒音がいなくなれば教室の中はあっという間に沈黙に推し包まれてしまう。
窓の外、木が風に揺れるカサカサという葉のささやかな音まで聞こえてしまう。
琉架はドアの向うをじっと眺めて、ぐっと下唇をかんだ。そして何かをギリッとかみ殺すと一度深いため息をついて櫻に向き直った。
「櫻さん、すいません…後輩の教育がなっていませんでした」
「なんでルカが謝る、なの?」
「だって、わたしの後輩が櫻さんにいやな思いをさせたじゃないですか」
「『価値無し』っていわれたこと?忌み子っていわれたこと?死にぞこないって言われたこと?それとも同族殺しっていわれたこと?
だったらわたしは平気、なの。どれもこれもが本当のことだし、受け入れるしかない言葉のうちの幾つかに過ぎないのだから、なの」
「……あまり自分でそういうことはいうものじゃないです。『価値無し』だって、忌み子だって好きでなったわけじゃないじゃないですか」
「ルカのいうことはほとんどよくわからない、なの。それに同族殺し、とかは事実だから、なの」
あらためて櫻の口で言われる。琉架はそのことはなにかの間違いだと思いたかった。でも過去の記録にきっちりと残っているのだ。櫻の手による同族殺し。
「でもそれだって好きで殺したわけじゃないですよね…?その、戦場でやむなく、とか」
できれば次の言葉が永遠に来なければいい。本当に殺すしかない状況だったらいいのに。
でも櫻は残酷だ。琉架のそういう気持ちにまったく考え付かない。ただ淡々という。
「わたしは嫌なら殺さない、なの。殺したかったから殺した、なの」
琉架の姿を映すはずの櫻の瞳はいまや誰も彼もの考えなんて及ばない、ただの真黒の穴だ。
琉架はパタン、とファイルを閉じた。近づくはずの距離。だけどいま琉架がいるのは崖の前だ。目の前は真っ暗で一寸先すら見えやしない。向こう側に櫻がいるはずなのだけど、飛び越そうにも目の前は自分の指先さえ見えないような真っ暗でどれだけ跳べばたどり着けるのか、そして落ちてしまえばどうなるのかまったく見当がつかない。ただ琉架は崖の前で跳べるのか跳べないのか、そうやって足踏みする振りをして諦めることしかできない。
「勉強、始めましょうか」
琉架はどこか浮ついた気持ちで他人事のように自分の言葉を聴いていた。
その様子は全て見透かされていた。天井の片隅。吊り下がった眼球だけのような生き物に二人は気付くことがなかった。