第仁話 破壊・神凪 緋雨
神凪 緋雨というその人について、或いはその人の存在そのものについて、やはり僕はここで語るべきだろう。
神凪 緋雨──22歳の男性。
誕生日は2月22日。
性格は大雑把な戦闘狂。面倒事にはあっという間に首を突っ込んで、いっという間に全身で突っ込むタイプ。人を揶揄うのが好きで、もちろん彼による悪戯も絶えない。
裏の世界の住人で、殺し屋ギルド序列2位・«花火»の元幹部という驚異の実績を誇る相当の実力者。
異能力は«破壊»。
文字通りというのか意味通りというのか、とにかく彼の武器は自身の身体そのものであった。
詳らかに説明することも無いのだけれど、つまりは格闘技の極限───その身で全てを砕き、貫き、壊し、穿つ。
その凶悪さ故に、彼を人間と認識しない者も、«同業者»の中では決して少なくない。制御不可能な殺戮兵器と言った方が、やはりそのイメージは掴みやすいのだろうか。
何はともあれそんな彼と──«命題»のメンバーにおける最強の戦闘要員である彼と、人が死ぬことに耐性などまるでない気弱な僕が共に取り組む依頼は、早速これ以上ないくらいに逸脱したものだった。僕の初めての依頼にしては荷が重く肩が重く頭が重く、今にもぐしゃっと圧死してしまいそうなくらいの大荒事ではあったのだけれど、しかしどうだろう、僕はそこで初めて自覚したのではないか。
«命題»の皆が人間ではないように。
僕もまた、人間と呼べるほどに高尚な存在ではないことを────。
『人が死ぬことの何が悪いんだ?』
能力とか戦闘とか組織とか、そういう最近の少年漫画めいた要素の示す意味がまるで見当のつかない平々凡々な一般人の男子高校生──つまり僕は、自宅でぼんやりと休日の大半を過ごしていた。
具体的に何をしているかと言われれば、ごろごろしているだけだったのだが。
自宅に帰るのはたった数時間ぶりだから、少し学校の帰宅が遅くなっただけ──書店で漫画でも立ち読みしてたとか言い訳してしまえば、それでなんとか済む程度の誤差だったというのに、あんな頭がおかしくなっちまいそうな«世界»の片鱗に触れてしまった僕は、脳内にとんでもない量の思考題材が蓄積されていた。いっそもっと諦観の意味を込めて、放置されていたと言ってもいい。
だから自宅という、少なくとも今のこの世界では平穏な日々が約束されるような安穏な場所への帰還は物凄く久しいものに感じていた。
大袈裟なんかではなく。
表の世界での灰色な日常生活と裏の世界での仕事を両立させる以上、やはりメインとサブの逆転はあってはならないだろう───そんな意見を述べた桜木くんの気遣いによって、僕が«命題»の事務所へと赴き、その面々と顔を合わせるのは基本的には学校の授業がない土曜の夜、日曜、その他祝日の空き時間で構わないという設定が為された。
普通にそれは有難かったのだが。
しかし。
僕は今──今というのはつまり、4月30日の日曜日、紛うことなき休日であるところの今現在、僕は事務所に向かわず自室のベッドで延々と惰眠を貪っている。というか眠気もとっくに彼方へと吹っ飛び、僕は完璧に覚醒していたけれど、それでも無理矢理に目を閉じてまでして眠ろうとしていた。
狸寝入りって言うのかな、こういうの。
「あー・・・行きたくねえ・・・・・・。」
僕は布団の中でむずがるように身を捩り、真反対の方向へ寝返りを打った。
「生きたくないだって?私に言ってくれれば、いつでもどこでもどこまでも、私はお前を殺しに颯爽と駆けつけてやるぜ!」
そんな物騒なことを遠慮なく言ってのけたのは妹の悠香。例の如くいつもの如く、この体躯も器量も矮小な僕の妹の中には、兄に対する尊敬というものが微塵も存在しないのだった。
「そんなことは言ってねえよ。言ってねえし、言わねえよ・・・やめろ、事ある毎に僕を殺そうとするな。」
まるでお前の方が殺し屋じゃねえか、と言おうとしたけれど、さすがにそれはやめておいた。
これでも僕の妹、家族──無用な心配はかけたくないから、変なことは言わない。悠香は少しでも不穏な気配を察知したら、問答無用の押っ取り刀で全ての解決まで強引に持っていこうとするやつだ。今どきには似つかわしくない、時代遅れのヒーロー像・・・。
誰に似たんだろう?
僕ではないことは確かだが。
「それと兄に向かってお前とか言うなよ。もう少し敬意を払えよ。」
「歳下のお淑やかで可愛らしい妹を相手に、自分で敬意を払えとか言っちゃう無能な駄目男に対して尊敬しようと思えるかい?」
・・・・・・・・・・。
思えねえな。
悠香が果たして本当にお淑やかで可愛らしい妹なのかはともかく(そこそこモテるらしいが)、そして僕が無能な駄目男なのかもともかくとして。
たしかにそんなやつを尊敬しようとは思えない。
「だろ?そんなことを臆面もなく言えてしまうのは、ただの押し付けってことさ。恩着せがましいというか。それにお前呼ばわりされただけで何よ、いちいちそんなことをとやかく言及する狭量な男に育てた覚えはないわよ。おほほほほ。」
悠香はドヤ顔で威張り散らすようにそんなことを言う。
・・・いや、口調変わってるし。
何キャラだ、お前。
「僕だってお前に育てられた覚えはねえっての・・・クソ、目が覚めた。頭も冴えてしまった。諦めて着替えるか──果たして今から向かったところで、僕の命の無事が保証されるとは限らないけれど。お前の言葉通り『生きたくねえ』が叶っちゃうかもしれないけれど。」
そんなことを言いながら、僕は机の上のスマホを手に取って電源を入れる。
不在着信:351件。全て情報屋の銀髪ゴスロリ少女──朝比奈 夜月ちゃんから。最初の一度以外は全てワン切り。
いや、こわい。
こわいこわいこわいこわい!
余計行きたくなくなったぞ!
全力で生きたいけど全力で行きたくねえ!!
「約束事?なんか知らないけど、すっぽかしたところでそれは先延ばしの後回しになるからやめた方がいいよ。馬鹿がバレるよ。」
「そうだな。潔く腹くくって向かうことにしよう。」
最後の一言に対しては決して『そうだな』と言いたくないが。
僕はそんなくだらないやりとりの間に、着替えを始めとした一通りの準備を終えていた。
「そんじゃ、行ってくる」
「うん。ところで兄ちゃん、最近出かけること多いけど、何かあった?ついに彼女でも出来たか?」
僕は驚愕した。
外出頻度の急激な増加を、早くも悠香が訝しんでいるぞ・・・さすがの洞察力、誇るべき僕の妹。コナン・ドイルはかの名探偵ホームズの助手としてこいつを書くべきだったな。
────最後の変な推理がなければ、そんな感じで僕も素直に褒めてやれたのにさ。(素直か?)
僕は恋愛至上主義とかじゃないんだ・・・中学生でもあるまいし。
「別に何もねえよ、心配するな。」
その驚愕すらも悟られまいと表情に出すことはせず、僕は瞬きを2回ほどしてから素っ気なくそう答えた。
「そっか。いってらっしゃい」
「いってくる」
「気をつけてね」
その一言が、やけに重く、やけに強く、僕の心に響いたような気がする。
心臓が刹那、強く脈打った。
きをつけてね。
何に?
一体何に、気をつけるというのだろう?
「まあ、深く考えることでもないかな・・・・・・。」
僕はそのまま、自転車に跨る。
左手首に巻いた腕時計の表示は、既に午後1時30分を過ぎていた。それがやはり迫り来る僕の焦燥を加速させるのだ。
その秒針は刻まれる──決して止まることはなく。
事務所の扉を開けると、そこには妙に閑散とした空気が漂っていた。普段は雑談に溢れかえったような賑わいを見せる場所であるだけに、そんな静けさを感じ取ってしまえば、なんとなく不安になる。
しかし、だからといって全く人がいないわけでもない。
たった一人だけ、今もその事務所でパソコンをいじっている少女の姿が目に映る──情報屋・朝比奈 夜月ちゃん。
朝比奈 夜月。
11歳の銀髪ゴスロリ少女。
その実態は世界の全てを凌駕する情報屋であり、それゆえに多種多様な情報を自在に操る彼女は«模範解答»という通り名すらも有している。
世界の解答。
世界の回答。
「・・・・・・おはようございます。」
僕がそう挨拶すると、朝比奈ちゃんは顔を上げて僕をじっと見つめた。目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるけれど、それはなるほど言い得て妙だと笑いたくなるほどに僕を責め立てる視線が全身に向けられている。
「ねえねえねえねえねえ。君、今おはようございますって言ったの?」
「言いましたね」
「つまり、君の中ではまだ朝なのかな?お天道様が空高く昇っているのに、まだ朝のつもりなのかな?」
ゴシック服をふりふりと揺らしながら、彼女は一切笑顔を崩さずに言う──目の奥は決して笑ってなどいないが。
「ごめんなさい、許してください・・・眠かったんです。」
「嘘つけ。私たちの仕事に自分が少しでも関与することにまだ躊躇していたんでしょ。だから重い腰を上げられなかったんでしょ。」
「・・・・・・まさか。そんなこと、有り得ませんよ。」
僕は嘲るように言ってみる──けれど、その嘲笑が一体何に向けられたものか、今ひとつ分からなかった。
「だったら妹といちゃらぶしてたとか?」
「それはもっと有り得ません。あいつは僕を呼吸するように殺したがるんです。」
今度は間髪入れずに否定する。
即答だ。僕は妹と仲良くなんてないぞ。
「ふーん」
朝比奈ちゃんは興味が既に無さそうだった。
なんていうか。
なんで今までのストーリー展開を知っているのだ、と問われれば、彼女の性質上「知らないことなんてない」と言う実に簡単明瞭な文言で片付いてしまうけれど──しかしプライバシーなんてものが微塵も感じられない能力だな。
「呼吸をするように殺したがる、ね──全く、最悪よ」
朝比奈ちゃんはパソコンを閉じ、代わりに1枚の紙を手渡した。
以下、その内容。
『依頼内容
殺し屋序列22位・«蟷螂»の調査
依頼人:神凪 舞姫
概要:21のグループに分断されていた殺し屋稼業に突如加わった謎のギルド。その実態は一切不明だが、今まで調査に向かった人間は総じて行方不明になっている。
請負人の集団として名を馳せる«命題»にも、調査を依頼したい。
可能ならば、その場で壊滅させること。その際は料金を別途に支払おう。
危険度が非常に高いため、ご注意されたし。
担当者:神凪 緋雨』
「これは?」
「緋雨が今、謎の殺し屋ギルド・«蟷螂»の調査に向かおうと準備をしている──建前じゃ22位なんて言われてるけど、これは多分、かなりの極悪チームよ。まず、行方不明って表記がマズい・・・・・・。」
大層切羽詰まった表情で、朝比奈ちゃんは舌打ちする。
彼女曰く、『行方不明』という表記で本当に行方不明になったというケースはほとんどないそうだ。
ではその表記が何を示すかと言えば──それは。
それは、言うのも憚られるほどに容赦の無い殺され方をしたと言うこと──────らしい。
なんだかイメージ出来ないけれど、とにかくそういうことだそうだ。
「悪逆非道。悪辣非道。そういう文言じゃその百分の一も形容できないような惨たらしい奴ら。」
そりゃあ随分、ヘビーな話だ。
調査に行けば死が確定するみたいな物言いで、そして実際そうなのだろうけれど、それを依頼にして寄越すってのは────何というか。
ひどい、ような。
そう感じるのは、僕が甘いからなのだろうか。生半可な気持ちを捨てきれないだけなのか?
「そしてこれが、あんたの初めての仕事にもなるのよ。」
朝比奈ちゃんは僕に数歩近づき、そしてそのまま僕の顔にゆっくりと触れた。
なんとも艶めかしいその一連の動作に対して、反射的に僕は身構える。
「どういうことですか?初めての仕事って・・・・・・。」
「依頼人よ」
「え?」
「依頼人の名前──神凪 舞姫。現役の殺し屋で、今や«花火»の中でもトップクラスの実力を持つ暗殺者。そして何より、彼女は緋雨の妹なの。」
その言葉に、僕はハッとした。
妹──だって?
「緋雨もなかなかの直情型なのよね・・・というか、激情型?彼が理性を完全に失ったら、この世の全てを«破壊»しちゃうのよ。«破壊»して«破戒»して«破怪»して«破潰»しちゃうから、だから見張り役というかお目付け役というか、彼の任務にはもう1人同行することが常なの。」
「それが・・・・・・僕だと?」
「その通り」
朝比奈ちゃんは仕方なさそうに、諦めたように微笑む。
どこか儚げな、美しい笑顔だった。
触れればすぐに、崩れてしまいそうな、壊れてしまいそうな。
そんな笑顔。
「お願い。同行してあげて──緋雨が、自分を見失わないように。妹を見失わないようように。多分、彼は一人では駄目なの。」
彼女は懇願する。
その声には力が宿っていて──でも僕なんかが力になれるはずもなく。
呼吸するように人を殺したがり、そして実際に呼吸するように人を殺す殺し屋グループに。
僕がどんな形で手出し出来ると言うのだろう。
緋雨さんは、何かの事情を抱えて生きている。
彼の妹──神凪 舞姫さんが、彼の属していたギルドでトップの実力を誇るのも。
彼が幹部の座から退いて、殺し屋を辞めてしまったのも。
何らかの理由があって、神凪 緋雨は苦しんでいるのだ。
でも。
僕には何も出来ない。
僕はまだ、こんなところで死んでしまいたくない。
帰るべき家があって、両親が待っていて、妹が待っていて。
ここで意地を通すように強引に断れば、そこそこ楽しいいつもの日常に戻れる。
だから、退けよ。
退け。
たった一言。
断ってしまえば、それでいい。
──────なんて、そんなの。
もういいよ。
もういらねえよ。
充分だろう?
自分の無能に逃げ込むのはさ。
僕はそれで、今まで何人傷つけて、何人騙して、何人欺いて、何人謀ってきたんだっけ。
憶えていない。
憶えていないけれど。
憶えていないからこそ。
「分かりました。」
僕は頷く。
「兄ってのは、死んでも妹を守ってやりたいものなんですよ──どんな事情があれ、どんな状況であれ。多分緋雨さんは、それを分かっている。」
「僕も行きます・・・«蟷螂»の調査へ。」
弱々しい、力のこもらない声で告げる。
決意とか決断とか、そんなものではなかったような。
どこか悲しい気持ちでいた。
脳裏には、悠香の顔が浮かんでいた気がする。
困っている人を放っておけない、僕とは異なるヒーロー像。
そんなものに、少しだけ憧れた──なんて言えば、それなりにそれらしい理由付けにはなるだろうか。
朝比奈ちゃんは僕の返事を反芻し──反芻するほどのものではないと思うけれど、とにかく考え込んでから、「ありがとう」と笑った。こうして見るとただの可愛らしい少女で、悠香も、神凪 舞姫さんも、恐らくはこういうふうに綺麗に笑うことが出来るのだろう。
だから。
それを考えると、虚しくなる。
そんなことをなんとなく思っていると、朝比奈ちゃんは突然僕に«何か»を放り投げた。僕は慌てつつもそれをなんとかキャッチして、その投げられたモノに愕然とする。
「持っていって」
朝比奈ちゃんはさっきの笑顔から一転、朴訥とした表情で短く言う。そこには質問の余地すらも全く存在せず、僕は無言でそれを付属のケースに収納した。
「さあて、いっちょ«破壊»してやるか──────。」
こうして、僕の任務は始まる。
僕という人間は、終わる。