空っぽの叙述
眼前で繰り広げられる光景は、表側の世界で生きる僕にとって到底信じ難いものだった。
いや、既にここまでの話の経緯も相当に荒唐無稽で、「そんなわけあるか」と一笑に付されてしまえばそれでお終いなのだけれど。
しかし。
これは、一体何なのだ?
«殺し屋»と«何でも屋»の戦闘は、僕の想像を遥かに凌駕する壮絶さだし、この世の全てを断絶する勢いだった。
先に動いたのは、切裂という少女。
軽やかに跳躍し、逆手持ちしたナイフを上から拳を叩きつけるように振り下ろす──洞木の顔面目掛けて。
しかし洞木はその攻撃をつまらなそうに回避し、後に連なって繰り出される細やかな連撃も、何食わぬ顔して華麗に避け続けていた。
時には鎌でナイフの攻撃を受け流したり。
時には流れるようにスピーディーな格闘術で翻弄したり。
命を巡る決死の攻防戦だと言うことも鑑みて、それでも尚、芸術的とまで言えよう滑らかで美しい戦闘が展開されている。だからこそ僕は呆然し、唖然としているのだ。
そんな死闘がもう暫くの間、目にも留まらぬ速度で続く。
僕は恐怖に縛られた身体で、動かない身体で、ただそれを眺めるだけだった。
「オラァッ!!」
後ろに素早く飛び退いて、切裂と距離をとる洞木。
間を置かずにその大釜を横から振り下ろす。洞木は身長が高いわけでも体格が良いわけでも何でもないのだけれど、それでも体躯に不相応なサイズの鎌を容易く振り回す様は、まるで死神を見ているかのようで恐ろしい。
勢い良くブン回された«殺人器»の刃先は、切裂の長いポニーテールの尾の部分をバッサリ切り落とした。
「・・・・・・・っ!!」
場違いなのは承知しているが、その瞬間が衝撃的すぎて思わず息を呑んでしまう僕。本当、気持ち良いくらいに一気にいった。
切裂本人もそれに大きく動揺したらしく、少しばかり目を見開いて姿勢を崩す。というか、かなり慌てていた。
その瞬間を見逃すことなくしっかりと視認した洞木は、「くはは」と快活な笑い声を上げてから、彼女の腹部を全力で蹴り上げる。洞木は格闘技のフォームも完璧な殺意に満ち溢れていて、彼女を蹴り飛ばしたことにさえも、僕は気づくのに数秒ばかりの時間を要した。
切裂は体内の空気の循環を大きく乱されたようで、そのまま苦痛そうな表情を浮かべて遠くまで吹っ飛ぶ。もう既に体勢を立て直そうという気概すら窺えなかった。
けど。
いくら向こうが殺人職とは言えど、女性を蹴り上げることに躊躇が一切ないと言うのは如何なものだろう──なんて思ってしまう僕は、毎度の事ながら、そんな自分の中途半端さに腹を立てる。
一秒の空白も、一拍の間隔も持たせずに無抵抗の切裂を跳んで追跡──飛んで、追撃する洞木。
「うおおおおぉぉぉッ!!」
龍のように咆哮して、彼は«殺人器»を天高く掲げる。その刃が今まさに、滑らかな弧を描いて地へ堕ちようとしているその時だった。
「やめろ!!」
叫んだのは僕だった。
場に一瞬の静寂が揺蕩う──洞木は、その手をギリギリのところで止めてこちらを振り向いた。
「ああ?」
大層不機嫌そうに言う。
とどめを刺せずに機嫌を損ねるのは、なんだかどうしようもないまでに戦闘狂を連想させるもんで、本当は彼の方が殺し屋なんじゃあないのかと疑わしく思えるくらいだった。
「頼む・・・やめろ、やめてくれ。僕は助けてくれと頼んだけれど、彼女を殺してくれとは頼んでいない。もういいよ・・・っ。」
既に大敗を喫している女性を痛めつけるような真似は見ていたくなかった──というのはやはり後付けのくだらない理由かもしれないけれど。それでもやはり見ていて気持ちの良いものではないだろう。
次第に僕の懇願する声は弱々しいものとなって言って、最後は尻切れトンボみたいになってしまったけれど、目の前で人が死ぬのは、もう見たくないんだ。
──やめてくれ。
──端的に言えば、トラウマなんだよ。
「また襲われるかもしんねえぜ?」
「それでもいい。」
僕は頷く。
いや、決して良くはないが。
口をついて出てしまっただけで、言葉の綾だ。
「ふうん・・・ま、依頼人がそこまで言うならいいや。」
洞木は大鎌をクルクルと振り回し(危ねぇな何すんだ)、いつの間にやらその鎌は薄らな残像となって消滅した。
・・・そういう仕組みなのか?
まんま異能力ファンタジーものじゃん。
僕は少し間の抜けた気持ちになった。
視線の先を変え、草むらの中で意識を失っている切裂を見つめてみる。
セーラー服の端々が破れていたし、肌にもいくつか生々しい傷がある。
ギザギザに切られたその髪も手伝って、それはなかなか悲惨な圧敗具合に見えた。
「・・・・・・もう一つ、依頼していいか?」僕は洞木に言う。
「ん」
洞木は何も言わず、手を軽く上げてひらひらと振った。それは«了解»の意味を示すサインのようで、たしかに何でも屋を名乗る者が依頼を断るわけはないよな──なんて、そんな当然のことを今更ながら再確認したのだった。
・
場所は変わって、洞木の家。
僕は妹に帰宅が遅れる旨を連絡してから、彼と共にここまでやってきた。
本音を言わせてもらうと、内観的には家と言っていいのか分からない、非常に独特な建物だ。
建てられてからどのくらい経つのだろうか──少なくとも、新しいようには見えないが、それほど老朽化が進んでいるようにも見えない。
部屋にはあらゆる書物が溢れかえっており、まるで図書館か何かにやってきたように錯覚させられてしまう。
読書が好きなのだろうか?
「にしても、お前ってなんか変なヤツだよな」
本棚から芥川の«地獄変»を取り出して読んでいる僕に向けて、唐突に洞木は声をかける。
「何が?」
「なぜ自分を殺そうとした相手を助けるんだってこと。切裂に恩を売ってどうすんだ。」
そう。
僕は洞木に、切裂という少女を助けたいから、回復するまでお前の家で休ませてやってほしい──みたいな、大体そんな感じのことを頼んだ。最終的に、渋々ながら彼は納得したけれど、もちろん最初に返ってきた返事は「はぁ?」の一言。それも、心底不思議がるようなもの。
「別に恩を売ったわけでもないさ・・・本人がプロとして最低限のプライドを持っていたりしたなら、僕や洞木に助けられたことはこの上なく屈辱なんだろうし。ただの自己満足だよ──自己陶酔と言えなくもない。」
否。
その実、ただの逃避に過ぎなかったのではないか。
もうあの惨劇を見たくないから。
もし再び、僕の目の前で命が枯れ果てる様子を見ようものなら──そういう悲劇的な喜劇を見ようものなら、僕は間違いなく崩れてしまう。
崩壊して。
崩落して。
──────しまう、から。
つまるところ、自分のためでしかない。そして自分のためにこんなことをしているような、偽悪者なのか偽善者なのかよく分からない自分に、僕は常々苛立っていた。
昔から。
いつもこうなんだ。
僕は。
ぼくは。
「それよりも」
僕は本を閉じ──しかし、勢い余って栞を挟むことなく閉じてしまったことに一瞬の後悔を憶えてから、それでも洞木の方へ向き直る。
聞きたいことがいくつもある──僕は、そう切り出した。
いいぜ。何でも答えてやる──洞木は、そう返した。
まず何を聞くべきだろうか、逡巡したけれど、結局そこら辺の事情をよく知らない僕にとって、溢れかえる質問事項を明確に区切れるわけもないのは明らかだった。
仕方ない、手当たり次第に聞いていこう。
「まず、お前は何なんだ?」
「名乗ったろ、洞木 唯一・・・報酬さえあれば何でもやる、文字通りの何でも屋。」
「そういうことじゃあなくて、さっきから変な感じがしていたんだ。何て言うのかな?・・・僕とお前は、«似ている»──というか、磁石のS極とN極みたいな、出逢うべくして出逢った、奇妙な縁で惹かれ合った、みたいな・・・・・・。」
僕がぴったり嵌るニュアンスの言葉を探せずしどろもどろとしていると、向こうは何とか僕の伝えたいことを汲み取ってくれたようだった。
「«縁»ね──そりゃまた、なんと面白い。お前の解釈で大体合ってるぜ・・・俺は鏡の向こう側。俺はお前で、お前は俺さ。一心同体、一蓮托生──とまでは言わねえが、表裏一体であることは間違いない。言われてもしっくり来ないだろ?なんとか納得したフリしてくれ・・・多分、そのうち解る。」
「僕にとって、お前は«特別»で、お前にとって、僕は«特別»ってことでいいのか?」
「構わねえよ。ははっ、相思相愛──いや、男同士だけどな。相支相合ってのが正しいか。」
洞木は口で言っても伝わりにくいことを言って、そんなふうに話を落ち着けた。
「あの鎌は、何なんだ?」
あの大鎌。
殺意を滾らせた、洞木の爪であり、牙であり、翼。
「俺の武器だよ、そのまんま。これも説明したってわかんねーだろうから省くけど、自由自在に出現させたり出来る。名前は無いから、好きに呼んでくれて構わねえよ・・・・・・にしても、«殺人器»はなかなかセンスがあるな、クールだぜ。」
胡座をかいている洞木は、自分の膝をばしばしと叩いて愉しそうに笑う。
よく笑うヤツだ──それも僕とは、対極である所以なのか。僕が最後に笑ったのは、一体いつなんだろう。
いや。
いつだって、別にいい。
「それじゃあ、切裂のこと。ついでに序列のことも教えてくれ。」
一瞬だけ、彼女のことは本人が目覚めてから訊ねるべきか──そんなことを思ったけれど、しかし彼女の体調が快復したからと言って、僕の質問に素直に答えてくれるとは限らない。
洞木の言う通り、世界の裏側──命がいとも容易く消える世界に踏み入った僕を、もう一度始末しようとするかもしれない。
いとも容易く。
いとも絶やすく。
命が。
・・・・・・・?
今、何か閃きそうだったんだけれど。
あれ?
忘れてしまった。
「詳しくは俺も知らねえ。一度«仕事»で敵対したことがあるだけさ・・・尤もその時は、依頼人の意向で戦闘は避けたけれど。その前に、お前には«殺し屋稼業»の説明をする必要がある。」
洞木はそんなことを言い、懐から小さなメモ帳とペンを取り出した。
紙を1枚ちぎって、そこに図表を素早く描いている。フリーハンドなのにも関わらず、非常に綺麗な線をすらすらと引いていることに、なんとなく感心した。
「いいか?よく聞け・・・この世界は、まず3つに分かれていると言ってもいい。1つ目は、お前達一般人の生きる表の世界。これについては説明しないぜ。2つ目は、俺や切裂みたいな逸れ者や狂人が生きるような、裏の世界。殺し屋稼業はここに属する。3つ目は────・・・・・・。」
洞木はそこで、不自然に説明を止めた。
ペンをカチャカチャと弄りながら、神妙な顔つきで何かを考えている。
「・・・もしかして、僕が知ったらまずいヤツか?」
なんとなく焦燥を感じる僕に対して、「いや」と手を挙げてそれを制する洞木。
「お前に説明出来るなら是非したいんだけれど、しかし上手く説明できるか分からん。自信が無い。お前が理解してくれるかどうか──。」
ここまでの説明で既に理解の範疇を派手に超えているってのに、今更何を言うんだか・・・。
「・・・これは3つ目の世界とも呼べなくはないが、本来決してカウントするべきでは無いんだ。いいか?その世界は、«禍中»と呼ばれる。」
「禍中?」
僕は意味も分からずに復唱する。
「うん。渦中でなく、禍中な。そいつらは、考え方によっては裏の世界よりえげつないことをしている。端的に狂っている、と言ってもいいし、壊れていると言っても構わない。数えるべきではないと言ったのは、そいつらは概念的な、観念的なところから既にヤバいからだ。」
根本から。
根底から。
死滅。絶滅。壊滅。破滅。
している。らしい。
「・・・・・・? ちょっと待ってくれ、流石に理解が追いつかない。いや、今までも追いついてないけれど、いよいよ話が見えなくなった。もう少し噛み砕いてほしい。」
「いんや。もう液状離乳食レベルになってるぜ・・・そいつらの正体は、たとえば«個人»でなければ«組織»でもない。漫画によくある«怪物»とか«魔王»とか«悪魔»とか«神»とか、そういうものでもない。«存在»そのものが既に虚無──3つ目の世界と数えられないのは、つまりそこだ。分類することが出来ない。区別することが出来ない。カテゴリの枠に捕らわれず、数で数えることすら許されない。」
洞木は唇を噛み締めるようにして言う。それを見て僕は、意味すら分からなくても、「何かヤバい」ってことを、その片鱗とも呼べない断片のみを漸く感じとり、そしてそれだけで首筋に変な冷や汗が伝うのを感じた。
「何かがヤバい」──それで充分。
充分すぎるほどに、充分だった。
「まあ、話が脱線したけれどさ。切裂が属するのは裏の世界の、その中でも特にヤバいやつら。«稼業»って呼ばれる殺し屋集団で、21個存在する。まあ当然なことに、そんくらいありゃあ変な諍いとか、くだらない派閥抗争とかあるのはお前にも分かるよな?そうやって実力に応じて序列で分けられるんだ──奴が属するのは、序列7位・«鴉»っつーギルドなわけ。それでもアイツは多分下っ端の中でも少しばかり腕が立つ、期待の新人みたいな女だから、俺でもザコキャラ感覚で遇えたのさ。」
「なるほどね・・・・・・。」
僕は頷く。
この辺の話はまあ、比較的分かりやすくはあった。
しかしながら、分かるからこそ。
分かってしまうからこそ、その恐怖は、凄惨な世界観は、惨憺たる実情は、克明に僕の記憶にただの情報として刻み込まれたのだ。
分かりやすかったから何になる。
それでも荒唐無稽なのには変わりなく。
それでも鬼哭啾々なのには変わりなく。
それでも屍山血河なのには変わりなく。
考えるだけでゾッとしてしまうような、思うだけでも震え上がってしまうような──そんな世界。
「お前に言わせれば表の世界──僕の暮らす現代社会は馬鹿みたいに平和で、とてもどこかでそんなことが起こっているなんて信じられないぞ。」
僕は言ってみるが、それが意味を成さないことは既に深く理解していた。
掠れた声で、震えた声で。
それでもそんな野暮なことでも言わなきゃ、今にでも気が狂ってしまいそうだったのだ。
「そりゃあ裏の世界のヤツらも、ヤッてることを文字通り«表沙汰»にはしたくねえさ──金なりなんなり、好きなように好きな手段で手を回して表を操ってる。隠匿、秘匿。バレることは絶対にない。まあ«禍中»は、勿論例外にしても・・・。」
僕は返す言葉がなかった。
聞きたいことはもっとあった気もしたけれど、それだけで全て知ってしまったというか。
これ以上聞きたくないという、それこそ逃避のような心理が先行し、口を開くことすらもままならなかった。
その時。
「・・・その説明には、一つだけ間違いがある。補足しても構わないかしら?」
ガチャ、とドアノブを回す音が響いて、古びた扉の向こう側に立っていた。
少女が。
切裂 遊海──先程僕を殺そうとした、明確で正確な殺意の持ち主が。
殺し屋序列の第7位・«鴉»に所属する彼女が。
毅然たる表情で、そこに立っていた。
「・・・・・・・・・・あ」
僕は思わず声を上げる。
思い出したのだ。
聞き忘れていた、その質問を。
聞きたいと思っていた、その質問を。
洞木ですら答えられないであろう、その詰問を。