出会いが待ってた日曜日
日曜日。
ナヨのところへ行く用事もなく、のんびりと布団の中にいた俺を起こしたのは携帯からのコール音だった。
布団から手を伸ばして携帯を手にとって耳に当てた。
「……はい、八草です」
「八草? はよー。お前寝てた?」
笑い声が聞こえる。
「いいじゃんか、日曜だし……なに、トモ男」
電話の相手は友人のトモ男だ。
電話でも快活な声でトモ男は話しかけてくる。
「なあ八草、今日暇だったら昼から遊ばねー?」
「昼から?」
片手で目元を擦って起き上がる。時計を探してみると今は10時を過ぎていた。
「んー、分かった。いいよ」
「それじゃ、12時に古井戸前な」
「りょーかい」
携帯を切ってのっそりと起き上がる。伸びをするとぽきぽきと骨の鳴る音がした。
古井戸はここらじゃ待ち合わせに使われる地元民に有名な場所で、昔の史跡を保護ついでに観光地にするべく作られた公園だ。近くにはバス停と小さな駅もあり、交通の便もいい。
俺の家からだと歩いて大体15分くらいの場所なので、今からのんびり準備しても間に合う。
あくびをかんで、浴室へ向かう。部屋に置いていた、ナヨから貰った小袋のせいか体から虫除けの匂いがぷんぷんとしたからだ。
小袋は一旦部屋へ置いておいて、出かけるときにもって行けばいいだろう。
目覚ましついでにシャワーを済ましてキッチンへ顔を出してみるが、母さんと父さんは夕べの帰りが遅かったせいもあってか、まだ寝ているようだ。
こういうことは良くあることなので、タオルを肩にかけて冷蔵庫の残り物を取り出す。昨日の残りの魚の干物があった。あとは同じく残り物の野菜スープを温めて、片手までお茶碗にご飯を盛り付ける。
リビングのテーブルに運んで四脚ある椅子の1つに腰をかけて手を合わせる。
「いただきます」
昨日の夢見は一昨日に比べるとましだったのもあって、今日は幾分かすっきりだ。
富士野の顔は綺麗で眼福ではあるが、されたことを思うと一緒の場所にいるのはなかなかに居心地が悪い。ナヨのお守り万々歳だ。多分出てこなかったのはあの厄除けのおかげだ。
一息ついて目を開けて、息を呑んだ。
「おや、八草君今からご飯なんですか?遅起きさんですねー」
にこにことした富士野がいた。向かいの椅子に座っている。
何故だ。
思わず瞬きして、目をつぶって頭を振ってもう一回見る。
やっぱりいる。
「なんで……?」
小さくこぼれた声に、富士野はにこやかに答えた。
「呼ばれたような気がして、来ちゃいました」
「え、でも、さっきまで」
動揺して上手く言葉が出てこない。それでも富士野は俺の言いたいことが分かったらしい。
「だって俺は八草君の使い魔ですからね、一応。本当は昨日会いに行こうかと思ったんですけど、邪魔が入りまして……今日君が匂いを消してくれたおかげで来れましたよ」
富士野の説明に、俺は頭を抱えた。
やっぱりナヨの厄除けは、富士野対策だった。それを大丈夫だろうと身から離したばかりに、富士野はここへ来れたのだ。
まずい。ここには父さんと母さんがいる。二人は無関係だ。
うろたえる俺を見て富士野はまた先回りするかのような言葉をくれた。
「ああ、心配しなくて結構ですよ。ご両親が起きたらすぐ分かりますから」
俺は優秀なんです。と自慢げに言う富士野だが、正直うさんくさい。
「本当に?」
訝しげに言ってみれば、富士野は大仰に頷いた。
「俺の目玉を置きましたからね。ばれる前に退散するくらいわけないです。勝手に帰れますし」
厳密な主従契約みたいなものではないし、富士野は結構好き勝手できるのだろう。納得しかけて、聞き逃せない言葉があることに気づいて驚いて聞き返す。
「め、目玉!?」
富士野をまじまじと見るが、相変わらずの綺麗な顔には、きちんと深緑色のビー玉のような瞳が二つある。
「んー、そうですね、曲がりなりにも契約しましたし教えましょうか」
富士野はそう言うと、おもむろに自分の目に向かって指を伸ばした。
おい、嘘だろ、ちょっと。
目を離そうとしたけど、あまりの光景に目が逸らせない。
富士野は自分で自分の目をえぐりだした。それもポンッと音がするくらい簡単に。しかも笑顔で。
ドン引きだ。
取り出した目玉はつるりとしていて、血だらけでないことにホッとする。そういえばこいつは人外だった。そう思うと目玉は、やっぱりビー玉みたいに作り物めいて見えた。
取り出された眼孔は、すぐに新たな眼球ができていた。水が染み出るようにあっという間に。
「これを近くに置きましたので」
「いつの間に……というか、見つかったら大騒ぎになる!」
「大丈夫ですよー。消そうと思ったら、すぐ消せます」
ほら、と富士野の手にあったビー玉眼球は塵みたいにさらさらと崩れて消えた。そこにさっきまで目玉ありましたよ、って言われても全く分からない。
目まぐるしい出来事に頭が追いつかない。
富士野の手をじーっと見てると、富士野は手を戻してずいっと上半身を寄せてきた。
「ところで八草君! ハライドの眷属を使い魔にしたんですね? あの呪い師と同じ」
「あ……はい」
「おめでとうございます。でも、さびしいです。八草君は気の多い人ですよ全く」
むーとして言う富士野だが、何故俺がそう言われなければならないのだ。
「物を処分するくらいなら、俺だって出来るんですよ? ハイスペックですよ? 呪い師が何を言ったか分からないですけど、八草君のお手伝いとか弟子修行の手伝いもばっちりまかせてくださいね」
そんなに手伝いがしたいのか。
人差し指を上げて自分のセールスをし始めた富士野に押されて、小さく頷く。
それに満足したのか、富士野はまたにこりと笑って姿勢を戻した。
「ご飯の邪魔をしちゃいましたね。しっかり食べてください、体は資本ですよ」
「はあ」
そうは言うが、先ほどのショッキングな出来事を見た後だ。食が進むわけがない。思い出しかけて、体を屈める。うえっと声が漏れる。それを富士野は気にした風でもなく見てくる。
富士野はいつまでいるのだろう。
ふとナヨの言葉を思い出した。
使い魔を返すときは手を合わせて願えばいい、と。
テーブルの下で手を合わせてそっと拝んでみる。屈んでいてよく見えないはずだが、とにかく、お帰り願いたい。
富士野に対する不信感や危機感はあるが、そこまで嫌いなわけではない。今の富士野への意識を例えるとするなら、知らないから怖いに近い。知れば多少は和らぐかもしれないけれど、今一対一でこうして話すのはまだ遠慮したいところだ。
なので、ひとまず、お帰りください。
むーんと目を閉じて念じてみてから、そっと開ける。
「……なんで」
変わらず目の前には、麗しい姿の男がいる。
「生憎ですけど、ちょっと今日は離れないほうが賢い選択だと思いますよ?」
富士野は食卓に並んだ干物の頭をぽりぽり食べながら、頭をちょっと傾げて見せた。俺の朝食がいつの間にか減っている。前は菜食主義と言っておきながら、メインのおかずを食うとはなんて勝手な。
「富士野、さんは、俺の使い魔? なんでしょ?」
「ええ、君の使い魔ですけど、ちゃーんとした契約じゃないからそんなの俺の知ったこっちゃないですね! 気分によりけりです! それより、今日出かけるんですか?」
逃避に走りそうになる思考を正して、どうにか声に出して聞くと、いい笑顔で俺の気分によります! という回答が返って言葉に詰まる。
「八草君?」
「え、あ、はい」
富士野が繰り返し聞いてきた質問に頷く。
そうだ、トモ男。これからトモ男と遊びに行くのだった。
「ふうん……そうだ、俺もついていっていいですか?」
「な、なんで?」
「まあまあ。そうですね、設定としてはアパートに越してきた新しい住人で、意気投合してぜひ一緒に遊びたいというので連れてきた、でどうでしょう?」
どうでしょう、じゃない。
首を振って、拒否の意思を示す。
何故大した仲じゃないのに、俺の遊びについて来るのだ。
「だから何でついて来るんですか。俺の友達と遊ぶだけだし、富士野さん関係ないじゃないですか」
「関係なくはないんですよー。だって八草君と契約しちゃった以上、今後顔を合わせることもあるでしょうし……ほら、さっき俺の言ったこと聞いてました? 今日は離れないほうがいいと思いますって」
「なんで!?」
富士野は俺がつっかかっても、全然なんとも感じないように笑顔を崩さない。
「八草君、呪い師が厄除けを渡したのは、単に俺を遠ざけるためだけじゃないんですよ。君は君が思うより丁重に扱われていますよ?」
「わけ、分かんないんですけど」
「そうですねー。多分、君の友達とあったら分かるかもですよ、ワケ」
これ以上は言わない、とでも言うかのように、綺麗に口元を引き結んでにっこり。
富士野はすっとリビングにある時計を指差した。
「ほら、早く食べないと遅刻しちゃいますよ」
時間はさ11時半になろうとしていた。
正午を知らせる音楽が響く。
最近は少し季節はずれになってきた『さくら』が流れている。
それを聞きながら待ち合わせの古井戸前公園へ向かう。無論一人で……と言いたいところだったけど、生憎一人ではない。
背後からくる花の匂い。
そう、結局富士野はついてきた。今、俺の後ろを富士野は歩いている。
来るな、行くの問答をしているうちに、トモ男から少し遅れるとの連絡電話が来て富士野が電話を奪って自ら話しだしてしまったのだ。
ちなみに富士野の設定は、さっき富士野が言っていたとおりの、アパートに来た新たな住人で俺の新しい友人というもの。トモ男はあっさりそれを信じ、「えーじゃー一緒に来いよ!」とまで言ってのけた。トモ男の懐の深さに涙がにじんだ。
ちらりと背後を見る。
王子様のような麗しい顔は虚空をぼうっと見ているだけなのに、絵になっている。服装も小じゃれたものではない長袖Tシャツとチノパンで、はからずも似た格好になったが自分と富士野では、大きな隔たりを感じてならない。
会話をするでもなく黙々と歩く。
古井戸公園と書いた札が飾られている塀が見える。待ち合わせに使う人もちらほらいて、予想通りといえばいいのか、後ろを歩く富士野に視線が注がれる。
自分が見られているわけじゃないけれど、一緒に歩く分、視線が集まって非常に肩身が狭く感じる。ああ、だから一緒に行くのはイヤだったんだ。
「おーい八草!」
古井戸前に入ったところで、公園の中から走ってくるトモ男が見えた。
トモ男は俺を見た後、後ろのほうにいた富士野を見つけてぽかんとした顔をした。
「おおっふ……おい、八草、この人が富士野さん?」
奇妙な声を上げてトモ男が俺を見る。俺が重々しく頷いたのを見てから、まじまじと富士野を見つめた。
富士野はトモ男を見返して、愛想よくトモ男に挨拶した。
「ええ、はじめまして。今日は急にすいません。まだここに慣れてなくて、どうしても八草君に無理をいってしまったんです」
「や、いやいや、いいっすよー。八草の友達なんでしょ、富士野さん」
「はい、もう、阿吽の呼吸の仲といっても過言じゃないですね」
いや、過言だろ。
心のうちでつっこむが、それに対してトモ男は軽く笑っている。
「まっ、馬が合うのはあるんじゃないっすかね。俺と八草もそんな感じだったし。けど、富士野さん外人さんじゃないんですか? ハーフ? 英語話せます?」
「はい、そんなところです。とはいっても、あまり流暢には喋れませんよ」
初対面の相手にあれこれ聞けるトモ男のコミュニケーション能力に感心するが、あっさりとこの場になじんで見せた富士野にも驚いた。
黙って様子を見ていた俺に、トモ男は富士野との会話を切り上げて俺に話を振ってきた。
「八草、時間ずらして悪かったなー。ちょっとさっき人助けしててさー。そのこがちょっと可愛くってさ、これは出会いのチャンスじゃねって親切にしてたんだよ」
「それはいいんだけど、あのなあ、それ助けた人に言うなよ」
正直なのはいいのだが、欲望に素直過ぎる。呆れて言うと、トモ男は頭をかいて笑った。
「いやー、だっていい感じに可愛かったんだよー」
「へえ、どんな人でした?」
富士野の言葉に、トモ男は目をぱちくりしてにやにやした。
「おっ、富士野さんみたいなイケメンでも気になりますかねえ……」
「生物学上男ですから」
「あはは、そっすねえー。俺らよりちょっと上くらいの年かな。こう、ぱっつんとした肩くらいの髪で。赤みがかった茶色だけどすっげえつやっつやでさ、目は綺麗なアーモンド形! 色白で凄い美女じゃないけど手に届きそうな加減で、すげえいい感じ」
すげえすげえと連呼して、やや興奮した様子でトモ男が言う。
「へー」
そこまでトモ男が褒めると、ちょっと気になる。相槌を打って富士野の反応はどうだろうと見るが、富士野は考えるように腕を組み唇を触っている。
「富士野さん?」
どうしたんだろうと思って声をかけて、はっとした。
富士野の花の匂いのほかに、何か、嗅いだことのない匂いがした。
焚き火したときの匂い。いい匂いか悪い臭いか判断に迷うような。
これを富士野に伝えるべきか。
俺がきょろりと目を動かしてから富士野へ戻すと、富士野はそっと頷いた。
「あら、そこの貴方!」
声がかけられた。少し高めの、女性らしい声。
瞬間トモ男は、頬を赤らめて振り向いた。
「あっ、さっきの!」
トモ男の視線の先を追うように確認すると、成る程、先ほどトモ男が言っていた感じの女性がこっちへ向かってきていた。
コツコツと少し高めのヒールを鳴らして、女性はトモ男の近くに立つ。
靴に反して素朴な衣装を着た女性は、アーモンド形の目を細めて微笑んだ。
「さっきはどうもありがとう。落し物を拾ってくれて。おかげで助かっちゃったわ」
「い、いやいや、そんなことないっす」
「ううん、本当に助かったのよ。私、これをなくしたらと思うとぞっとするから」
きゅっと女性が手元に抱えるのは小物ポーチだ。
女性とへらへらと嬉しそうに話しているトモ男の様子は、若干イラついたけれど微笑ましいもので。ひょっとしてここから何か始まるのかな、と見守っていると、とんとんと肩を叩かれた。富士野だ。
「八草君、少し、気をつけたほうがいいかも」
そっと静かに言った富士野は、その女性を見ていた。
なんだろう。
女性は相変わらずトモ男と談笑していたが、すっとポーチのチャックを開くと、もわっと熱気がそこから噴出した。
臭いが、する。
焚き火の、白く灰色の煙が充満したときの臭い。
ぱちり、と瞬きを数回。
それだけで、視界があっという間に変わった。
「ねえ、貴方、富士野ね?」
さっきまでの公園ではあった。公園であったが、いつの間にか人がいない。待ち合わせをする人や、車、空間ごとずれたみたいにすっからかんだった。
女性はいつの間にかこっちを、富士野のほうを見ていた。さっきと同じ笑顔のように目は細めていたが、今度は獲物を吟味しているような感じがした。
「友人君の表現に既視感があると思ったら、あなたですか」
「ええそうよ。偉大なる魔女の血を引いている、この私よ」
自慢げに手を腰に当てる女性は、富士野を見た後、目線を動かして俺を見た。
「で、貴方は……何故ここにいれるの? ここは力あるものしか移れないはずよ。貴方、何?」
どこか憎々しげに言われて、身じろぎする。初対面で敵意を持たれた。
煙るような臭いは、女性からしてくる。
思わずズボンのポケットにつっこんで持ってきた小袋を思い出す。ナヨからの厄除けのお守り。今の状況にご利益があるかはわからないが、ないよりまし。
小袋をポケットの上から触りながら、富士野のほうを向く。
富士野は、俺の前に出て、けだるそうに頭を動かした。
「そんなことより、なんの用ですかねえ」
「全くの偶然よ。こっちも予想外だわ。だって、いるって思わなかったもの。ねえ、富士野、いい機会だわ。あなた私と契約する気はなくて?」
富士野を上目遣いに見る女性は、可愛らしいものだった。しかし富士野はそれを半眼で見返した。
「いやですよ。あの方の縁類だったとしても、俺にメリットが見当たりません。それに、もう契約は済んでいますからね」
トンと肩に手を置かれる。富士野を見上げれば、富士野はそれはもうきらびやかな笑顔を女性に送った。
「将来有望な、あの呪い師の弟子君にね」
きっぱりと富士野が言うと、女性は目を見開いた。
富士野は結構凄い奴だと思う。ナヨから聞いた話と富士野自身が言う話を聞くに、だ。だからこそ、ぽっとでの俺のような子どもが契約をしたというのが驚きなんだろう。
そう予想つけて女性を見たが、女性はポーチを地面に落として頭を抱えた。
体とともにぶんぶんと頭を振って、がばっと顔を上げた。
近づいて俺を見て、顔を歪ませる。
「この独特のニオイ、まさか貴方、私の!! オッラの弟子!?」
叫んだ言葉に、今度は俺が驚いた。
この人、ひょっとしてナヨの知り合いか。
女性はよろめきながら後退して、声を上げた。
「嘘よ。嘘よ嘘よ嘘よっ。だってあの人、偏屈で、伯母様のせいでちょっと人間に対して厳しくて! こんな子どもが、何で? 嘘よ。嘘と言って。私がなりたかったポジションにっ」
「ナヨ、いや、えっと、師匠の知り合いです、か?」
思い切って問いかけると、女性はギラリとこっちを見た。
「ねえ、ちょっと、あんた一体何をしたの?」
「何って、何も」
「しいて言うなら、八草君の家族同然の友人だったんですよね。物心ついたときくらいからの」
富士野の言葉に、女性は悲壮な顔をした。
「わ、私も小さい頃から一緒だったわ。そりゃ、ここ十数年会えてなかったけど、私、毎日毎日手紙も電話もしたしそっと見守ろうとしたわ」
知り合い、と思ったがそうでなくてストーカーなのだろうか。ナヨの。
「あっ、でも手紙、最近返却されてきてて、え、やだもしかして、私、オッラに嫌われてた……? 嫌よ、そんなまさか……」
勝手に落ち込んでいく女性を唖然としてみていると、そっと富士野が説明してくれた。
なんでも、ナヨの師匠である人が魔女で、その魔女の近しい親戚がこの女性らしい。
オッラは魔女がつけたナヨの渾名。そのオッラことナヨを彼女は見てのとおり、物凄く物凄く偏愛しているそうだ。
初恋をこじらせたとも言います、と真面目に言った富士野に対して、俺はなんとも言えなかった。
ナヨを取り巻く環境って、一体。
「ええと、あの……」
声をかけようとして、この女性の名前を知らなかったことに気づく。なんて声をかけようか迷って口をつぐむ。
女性はぶつぶつと言っていた言葉を止めて、こっちを見た。綺麗に化粧した顔がやや崩れている。うわあ。
「……火釜よ」
ぼそりと言った言葉が聞こえて、ちょっとほっとする。
「火釜さん。俺は八草といいます」
「そう。ヤクサっていうの……オッラの弟子になった……ずるい、ずるいわ! 私、貴方に勝負を挑むわ……貴方に勝ったら、いいこと? 貴方、オッラに私のことを伝えるのよ。そこの富士野と一緒に」
「ご自分でしたらどうでしょうか……?」
おずおずと言い返してみるが、火釜さんはツンと顎をそらした。
「私の気高い血が、それを許さないわ。相手との立場はしっかりしなくてはならないわ」
後ろのほうでこっそり富士野が「単に度胸がないだけでしょうに」と言っていた。富士野は火釜さんに対してやや辛らつである。
「はあ……でも、勝負って」
一体何をするのだ。もし魔法対決とか力比べとかそういう類ならば、俺に勝ち目はない。富士野が手伝ってくれるならわからないが。
「出来るわけないでしょう。だって火釜、君、道具忘れているでしょう」
「はぁ!? 私が道具を忘れてなんか……」
ぱっと火釜さんは落ちたポーチを拾って中を探っている。次第に顔色を悪くして、地面にへたり込んだ。
「……」
忘れたんだ。
口には出さずに思ったが、富士野は呆れたように溜息をついていた。
「だから君とは契約したくないんですよ。あまりにお間抜けです」
「わ、忘れたわけじゃないんだから! ちょっと脅しただけよ、ええ、そうよ!」
きっと俺を睨んで見せて言う火釜さんだが、もう怖気づいたりはしなかった。いつのまにか厄除けの小袋の位置を確かめることはしなかった。
多分この人はもう敵意はないのだろう。俺が嗅ぐものは、俺にとって害があるかないかを知ることが出来る。そういったナヨの言葉が真実なら。
最初に嗅いだ煙のような焼け付く臭いはなく、ほのかな火をくべた薪の……暖炉前のようなまどろむ香りがした。
「いいから、もう帰してくれませんか? 俺、若い子と久しぶりに遊ぶんですから」
ぷりぷりと怒りながら言う富士野に、火釜さんは眉根を寄せてからポーチを手繰り寄せた。
「分かったわよ。今日はもういいわ。でも、貴方、ヤクサ? 次にあったときは覚えてなさい」
今更悪役ぶって言っても、なんだかなあ、である。
「はあ」
とりあえず頷いてみたら、火釜さんはよろしいというかのように鼻を鳴らした。
火釜さんがポーチのチャックを閉じる仕草をする。
また、数回瞬きをする間に、先ほどまでの公園へ戻っていた。
少し乗り物酔いをしたかのような感覚に、額を押さえて深呼吸をする。
「おい、八草、どうしたんだ?」
トモ男の声に振り向くと、呆れた顔をしていた。
「せっかく彼女の名前を聴けるトコだったんだぜ? お前体調悪いから、お大事にって帰られちゃったじゃねーか」
火釜さん、帰ったのか。
しかしトモ男よ、お前の芽生えかけているだろう恋心は徒労に終わるぞ。
機嫌を損ねたトモ男に謝って、気を取り直すようにどこへ行くか話す。
トモ男の恋愛より何より、とりあえず昼ごはんだ。
俺は腹が減ったのだ。
その後。
富士野を交えて適当に町をめぐり、カラオケをして別れた。富士野はカラオケにいたくご機嫌で、最近の機械って凄いですねと言って、トモ男にどんな未開の地から来たのかと聞かれていた。フォローする身にもなってほしい。
帰路につきながら、伸びをする。
やはり帰りも富士野つきだ。
「富士野さんは、今日火釜さんがくるって知っていた?」
行動を共にして、多少の慣れが出来た俺は、富士野に幾分か気軽に話しかけられるようになっていた。語りかける言葉もいくらか砕けたものになれた。
「そうですねー。ちらちらそれらしき姿は見た気がするな、程度でしたが、呪い師が出かけたでしょう? だから動くだろうなとは思ってたんです。ひょっとしたら、呪い師の弟子と知って危害があるかもしれませんし。まあ、その心配は全くなかったわけですが」
けろりと言ってのけた富士野に、ちょっと感心した。
「富士野さん、気にかけてくれてたんだ」
「そりゃ、俺の契約相手ですからね。契約しないと彼女のほかにも色々面倒な人たちに追い掛け回されそうなので、いやあ、本当に八草君には感謝です」
「俺に対するメリットってそれだったの?」
「それもありますけど、一番は単なる話し相手みたいなもんで、他にあげるなら能力と伸び白に期待できそうだったからですね。八草君、頑張って呪い師の腕を盗んでくださいよ。期待してますからね」
念を押すように言われて、ぐうと呻ってしまう。
呪い師の腕といわれても、俺は未だに、ミミズののたくった謎言語と格闘中なのだ。
「旧式言語? で詰んでるからあまり期待しないでほしいんだけど」
「ああ、旧式言語。でもそのうち覚えますよ。睡眠学習もしてるでしょう?」
睡眠学習。
言われて、ぱっと思いついたのは、あのミミズ文字が空を飛ぶ夢だ。
「まさか最近よく夢に見ると思っていたら……」
「あの呪い師が単なる方法だけで済ますわけないじゃないですか。徹底的にされてるはずです」
「やっぱり! 俺、本当に覚えれないんだけど」
顔を顰めて言えば、富士野は小さく笑った。
「そんなに言うなら、俺も手伝ってあげましょう。夜、待っててくださいね」
そう言ってアパートの前に着くと、富士野はじゃあまたと告げて塵になって掻き消えた。本日一番度肝を抜いた。
いや、訂正。一番は朝食のとき目玉をとった富士野を見たときだ。
それはともかく、富士野が消えたことを確認して呆然としながら部屋へと戻る。起きていた母さんが用意した夕食を食べ、歯磨きして、風呂へ入って布団をかぶる。
一連の行動を終えて目を瞑った後、すこんと意識は落ちた。
ぼんやりとまどろみながら、空を見る。
ミミズのような文字が飛んでいるのはこの間見た夢と同じだ。
しかし、前方を見て目が瞬く。
にこりと笑った富士野がホワイトボード片手に立っていた。周囲にミミズ文字をはべらせながら。
俺は初めて夢の中で座学を体験したのだった。夢の中だというのに盛大に気疲れしたのは言うまでもない。




