2話:保全という名の罠
翌朝、私は一睡もせずに書き上げた一束の書類を手に、王宮の執務室へと向かった。
昨夜の夜会での騒ぎなど、すでに私の頭の中では処理済みの過去だ。今の優先順位は、王家の財務状況を「法的に正しく整理する」ことにある。
執務室の扉を開けると、そこには案の定、エドワード殿下がリルムを膝に乗せて寛いでいた。
「なんだ、アイリスか。謝罪の言葉をまとめるには、少々早すぎるのではないか?」
王子の小馬鹿にしたような笑みに、私は完璧な令嬢の微笑を返した。
「殿下、昨夜のお話、真剣に検討いたしましたわ。私が王妃にふさわしくないというお考え、重く受け止めております。……そこで、一ヶ月後の円満な婚約解消に向けて、事務的な『棚卸し』を先に済ませておきたいと思いまして」
「……棚卸しだと?」
エドワードは意外そうに目を細めた。私は用意していた羊皮紙を、彼の前の机に滑らせた。
「これは、これまで我が公爵家が王家へ行ってきた『特別支援』の確認書ですわ。これまで曖昧になっていた名目を整理し、すべてを『婚約維持のための寄託金』として一括管理する手続きです。これにサインをいただければ、これまでの多額の出資はすべて、正式に王家のものとして受理されますわ」
「ほう……。つまり、もうお前の父親からガミガミと使い道を指示されずに済む、ということか?」
〈ええ、その通りですわ。ただし、それは『婚約が維持されている限り』という大前提があるのですけれど。……それをあえて説明しないのは、私の不親切ではなく、あなたの勉強不足ですわね〉
私は静かに頭を下げた。
この書類の肝は、今まで「贈与」か「貸付」か曖昧だった資金を、すべて「婚約という契約の履行を前提とした寄託金」という名目に統一することにある。
契約が破棄されれば、前提が崩れるため、受託者(王家)には返還義務が生じる。これは法律の基本中の基本だ。
「よかろう。潔い態度だ、アイリス。お前もようやく、分をわきまえたようだな」
エドワードはろくに内容も確認せず、羽ペンを走らせて署名した。
王子の目には、ただ「自由にお金が使えるようになる魔法の紙」にしか見えていないのだろう。
「アイリス様、物分かりが良くて助かりますぅ。これで殿下も、心置きなく私と過ごせますね」
「ええ、存分に楽しんでくださいませ、リルム様。……あぁ、そうだわ。そのペンダントも、公爵家からの預かり物としてリストに載っておりますので、どうぞ大切になさってくださいね」
私は署名済みの書類を恭しく回収し、足早に執務室を後にした。
廊下に出た瞬間、私は潜めていたため息を吐き出す。
「……詐欺でも何でもありませんわ。私はただ、正しい法的手続きを提案し、あなたはそれに合意した。ただそれだけのことです」
これで、王家へ流れた資金の「返還請求権」が法的に確定した。
次は、この権利をどう活用するかだ。
私は王宮の裏門近くにある、表向きはしがない商会を装った、隣国の間諜が集うとされる場所へと足を向けた。
そこで私を待っていたのは、旅装束を身に纏いながらも、その瞳に鋭い理知を宿した一人の男――カイルだった。




