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1話:帳簿の裏に隠された絶望

「アイリス、君には失望したよ。これほどまでに心が醜い女性だったとはね」


きらびやかな夜会の片隅。シャンデリアの光が刺すように痛い。

私の婚約者、エドワード王子は、吐き捨てるようにそう言った。彼の腕の中には、今にも泣き出しそうなほど震える男爵令嬢、リルムが収まっている。


「……っ、殿下、私は……!」


言い返そうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

猛烈な頭痛と共に、濁流のような「記憶」が脳内に流れ込んでくる。


(……二十八歳、独身。職業、弁護士。専門は倒産手続きと債権回収……)


現代日本で、数々の泥沼化した企業破産を冷徹に裁いてきた「私」の記憶。

それが今の私の状況とリンクした瞬間、心の中にあった王子へのドロドロとした執着心が、まるで急速冷凍されたかのように冷めていくのが分かった。


(……あぁ、なるほど。これがいわゆる『乙女ゲームの悪役令嬢』というやつね)


数秒前まで、私はこの男に狂おしいほどの嫉妬を感じていた。

リルムに贈られた大粒のルビーのペンダントを見て、「それは私のものだったはずよ!」と叫びたい衝動に駆られていた。

けれど、今の私にはその宝石が、ただの「横領の証拠品」にしか見えない。


「聞いているのかい? 君がリルムに浴びせた罵言、そして彼女の花壇を荒らした罪……。君のような高慢な女は、王妃にふさわしくない。いずれ、この婚約については正式に……」


「殿下、少々よろしいでしょうか」


私は手にした扇子をパチンと閉じ、口元を隠して微笑んだ。

弁護士時代の癖で、声が一段と低く、事務的な響きを帯びる。


「『花壇を荒らした』とおっしゃいますが、あのアブラムシまみれで放置されていた雑草同然の庭のことでしょうか? 私は公爵家の庭師に命じて、適切な『資産価値の維持(剪定)』を行わせただけですわ。むしろ感謝していただきたいくらいですけれど」


「なっ……! 屁理屈を!」


顔を真っ赤にする王子を、私は鑑定するような目で見つめた。

その上質な絹のシャツ、特注の靴、そして隣の女に買い与えた宝石の数々。


(……ふむ。王家の歳入規模に対して、この支出は明らかに異常。すべては『ベルシュタイン公爵家からの貸付金』……つまり、私との婚姻を担保にした先行投資から捻出されているわね)


この男は、自分が座っている椅子が、私の実家が貸し付けている金でできていることすら理解していない。


「エドワード殿下。婚約破棄のお話、一ヶ月後の卒業パーティーまでお待ちいただけますか? 私も『身辺整理』が必要ですので」


「ふん、往念の悪い。一ヶ月の猶予をやろう。その間に、リルムへの謝罪の言葉でも考えておくんだね」


王子は鼻で笑うと、リルムの肩を抱いて去っていった。

周囲の貴族たちが「あぁ、公爵令嬢もお終いね」と囁き合うのが聞こえる。

だが、私は見逃さなかった。

会場の隅で数人の老練な貴族たちが、私の豹変した態度を見て、震える手で計算機(魔導具)を叩き始めているのを。


(……あら、お目が高い。泥舟から逃げるなら今のうちですわよ?)


自室に戻った私は、すぐさま執事を呼びつけ、公爵家の秘密金庫から一冊の分厚い帳簿を取り出させた。

深夜、羽根ペンを走らせながら算出された数字を見て、私は思わず額を押さえた。


「……ひどいわね。債務超過どころか、実質的な国家破綻状態じゃない」


王家は、アイリスの父である公爵からの「追い貸し」という延命措置でかろうじて形を保っているに過ぎない。

そして一ヶ月後の卒業パーティーで私が「追放」されれば、その瞬間に公爵家からの資金援助は止まる。


「つまり、彼は自分の命綱を自分で切ろうとしているわけね。……救いようのない不良債権だわ」


私は暗闇の中で、扇子を広げて不敵に微笑んだ。

前世で何度も見てきた、無能な経営者の末路。


「いいでしょう、エドワード殿下。望み通り婚約破棄(契約解除)は受け入れて差し上げますわ。……ただし、弁護士としての私が担当するからには、一銭たりとも踏み倒しは許しませんけれど?」


私は最初の一歩として、王家に貸し付けている「債権の一覧表」と、差し押さえ可能な「資産リスト」の作成に取り掛かった。

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