さえずりスプレー
キラキラと輝くイルミネーションが、嫌いだった。
クリスマスイブの朝、だからといって小学校のホームルームの開始時間は遅くなってはくれないらしい。いつもと同じように慌ただしく身支度をして、翔太は鏡をにらみつけている母に声を掛けた。
「行ってきまーす」
「気ぃつけてな。走ってこけたらあかんで」
厚く塗りこめるように顔を作りながら母が言う。横顔をじっと見つめ、翔太はやや声のトーンを落とした。
「……お母ちゃん、最近、化粧濃ぉなったんちゃう?」
「余計な事言いな! いろいろあんねん、大人には」
「老化とか?」
「そうそう、お肌のうるおいが年々減って――ってやかましいわ! はよ学校行き! 遅刻すんで!」
母の怒声に笑いながら「はぁい」と答え、翔太は玄関を飛び出す。冬のシンとした冷たい朝の空気が頬をピリッと刺した。
クリスマスイブの夜、商店街はイルミネーションの灯りに包まれる。サンタの仮装をした店員さんが風船を配り、クリスマスソングが鳴り響いて、皆どこか浮足立った様子で行き交う。はぐれないようにと、右手を父と、左手を母とつないで、翔太は上機嫌だった。
「サンタさんに何をお願いしたの?」
柔らかい口調で父が尋ねた。翔太は生意気なすまし顔で答える。
「サンタなんて信じる歳ちゃうで。トナカイが空飛ぶはずないやん」
母が思わずといった様子で吹き出す。翔太は心外そうに「なんで笑うねん」と口を尖らせ、母とつないでいる左手をぶんぶんと振った。母は「ごめんごめん」と言いながらまだ笑っている。翔太は鼻にシワを寄せ、プイっと母から顔を逸らせた。
「じゃあ、欲しいものを言ってごらん? クリスマスプレゼントだ。お父さんが買ってあげよう」
「ほんま!?」
不機嫌はどこへやら、翔太の顔が喜びに沸く。欲しいもの、何でもええの? えーっと、新しいゲーム機に、自転車に、自分用のスマホ? それから、それから――
欲しいものの候補を探して周囲を見渡した翔太の視界に、はっきりとした違和感が飛び込んでくる。チューリップハットを目深にかぶり、着物姿で足にはブーツの、まるで現れる時代を間違えたような不思議な雰囲気をまとった青年。青年は厳しい表情でこちらを見ていた。イルミネーションに照らし出されるように、青年の姿が浮かび上がって見える。それが強烈な違和感を生み、翔太の注意を奪っていた。
「……あっ」
何かに気付いたように小さく声を上げ、翔太は足を止める。父と母が釣られて止まり、不思議そうに振り返る。翔太は父の顔を見上げた。
「そっ、か。これ――」
父の顔は、まるで靄がかかったようにぼやけている。当たり前だ。翔太は父の顔を見たことがない。
「ウソ、やんな」
イルミネーションの灯りが徐々に強さを増す。商店街も、行き交う人々も、両親の姿も、真っ白な光の中に消えていく。あまりのまぶしさに、翔太は目を閉じた。
放課後、ランドセルを抱えて、翔太は商店街の道の真ん中に立っていた。日が沈むにはもう少し時間が必要で、イルミネーションはまだ点灯していないらしい。小学校から家までの、いつもと同じ帰り道。それなのにあんな夢を見たのは、今日がクリスマスだからだろうか。
「……あほらし」
翔太はそうつぶやいて空を見上げる。空には黒い雪雲が広がり始めていた。夜には雪の予報だった気がする。ぶるっと身体を震わせ、翔太は息を吐いた。白く吐息が丸まり、溶けて消えた。
「ぼっちゃん」
不意に声を掛けられて振り返る。声の主の姿を見て、翔太は思わず「うわっ!?」と声を上げた。そこにいたのは着物姿で足にはブーツの、まるで現れる時代を間違えたような姿の青年――さっき見た夢の中で、厳しい顔でこちらを見ていたあの青年だった。青年は翔太の動揺に構うことなく、穏やかな様子で手のひらほどの大きさの箱を差し出した。
「落とし物ですよ」
優しげな雰囲気とは裏腹に、どこか有無を言わさぬ迫力を感じて、翔太は差し出された箱を受け取る。帽子のつばの端をつまみ、軽く会釈をして、
「それじゃ、あたしはこれで」
青年は翔太に背を向けた。翔太は反射的に、去ろうとする青年の帯を引っ掴む。
「ちょお待って!」
引き止められると思っていなかったのだろう、青年が驚いた顔で振り返る。
「なにか?」
「『なにか?』やあらへん。おっちゃん、さっき夢ん中に出てきたひとやろ?」
青年はわずかに翔太から視線を逸らした。
「なんのことやら、さっぱり」
「とぼけなや。そないけったいな格好、よそで見たことないで」
傷付いたように小さくうめき、青年は自分の着物に目を落とす。
「……似合いませんか? 結構、気に入ってるんですがね」
翔太は自分の心に誠実な言葉を慎重に選び、はっきりと言った。
「似合てるで。変態的な意味で」
がーん、という効果音が聞こえてきそうなほどの激しい衝撃を顔に表し、青年はその場にしゃがみこんだ。背を丸め、膝に顔をうずめて、「変態って……」とつぶやきながら地面に人差し指で丸を描いている。誰かが言うてやらんとな、とうなずき、翔太は青年の肩に手を置いた。
「さあ、キリキリ白状せぇ。おっちゃん、誰や」
いじいじと地面の丸を消しては書きながら、いくらかふてくされたような調子で青年は答える。
「ぼっちゃんのおっしゃるとおりですよ。あたしはさっき、ぼっちゃんの夢におじゃまさせていただいた者です。ぼっちゃんが夢に呑まれそうになっていたのでね」
「夢に、呑まれる?」
どこか不穏な響きの言葉に翔太は眉をひそめた。青年が顔を上げ、翔太を見上げる。
「夢ってのはね、ぼっちゃん。まぼろしとは違って、現実のすぐ隣にあるもんなんです。薄皮一枚隔てた、すぐ隣にね。だから、手を伸ばせば簡単に届く。薄皮を自分で破れば、夢と現実に違いはなくなる」
チューリップハットの奥から覗く青年の瞳に、冷たく鋭い光が掠めた。
「ひとときの夢ならいい。だが、『夢こそが自分の居場所だ』と思ってしまったら、あなたはこの世から消えて夢の世界の住人になる。心から納得してそうなるなら止めやしませんが、ぼっちゃん、あなたはまだそうじゃないでしょう?」
確認のように、あるいは見透かすように掛けられた問いから、翔太は目を逸らせた。
「意味わからん。夢は夢やろ、あほちゃう?」
茶化すようにそう言って、ふと翔太は何かに思い当たったように「あっ」と声を上げた。
「夢におった、ちゅうことは、僕の夢、おっちゃんも見た、いうこと!?」
質問の意図を計りかねたのか、青年が小さく首を傾げる。
「そりゃまあ、その場にいましたからねぇ」
「忘れぇ! 今すぐ!」
顔を赤くして翔太が怒鳴る。居もしない父親と手をつないで、はしゃいで、わがままを言って。そんな子供みたいな姿を見られた恥ずかしさが全身を巡る。バシバシと頭をはたく翔太の手を腕で防ぎながら、青年は悲鳴のように叫んだ。
「わ、わかりました! 忘れます、忘れますから!」
はぁはぁと息を切らし、「絶対やぞ」と念を押して、翔太は怒りを収める。安堵の息を吐き、型崩れしたチューリップハットを被りなおして、青年は立ち上がった。
「でも、ね、ぼっちゃん」
でも、の言葉に反応し、翔太が青年をにらみ上げる。青年は軽く両手を上げて手のひらを向け、反抗の意志がないことを示した。鼻息荒い翔太が落ち着くのを待って、青年は噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「あの夢は、夢だが、嘘じゃない。おわかりでしょう?」
不意を打たれたように翔太が固まる。言葉を探し、生意気そうに口の端を上げて、翔太は鼻で笑った。
「また意味の分からん事言うて。そういうん、むしろカッコ悪いで」
ふむ、と青年は何か考えるように腕を組んだ。日が傾き始め、商店街のお店から店員が出てきて、イルミネーションの点灯を始める。日のあるうちに灯るイルミネーションはどこか寂しげだった。視界に入る光に翔太の表情が曇る。青年は独りごとのようにつぶやいた。
「文化は違えど趣旨は同じか」
青年が右のつま先を上げ、とん、と地面をたたく。ふっと冷たい風が吹いて――
――すべての音が、止んだ。
えっ、と戸惑いながら翔太は周囲をきょろきょろと見回した。さっきまでにぎわっていた商店街に、今は誰もいない。通行人も客も、店員の気配さえない。ずっと鳴っていたクリスマスソングも消え、シンとした寒さと静寂だけがここにあった。まるで世界に翔太と青年の二人しかいないような、凍えるような安心感。
「な、ん?」
うまく言葉にならず、翔太は目を丸くして青年を見る。青年は煙に巻くような曖昧な笑みで応えた。
「ま、クリスマスってことで」
「それですむかどアホ!」
想像よりずっと軽薄な答えに思わずツッコむ。「まあまあ」と翔太をなだめ、青年は言葉を続けた。
「ここは『こちら』と『あちら』の狭間。現実でも夢でもない場所。ここには『何も存在しない』し、『何も起こらない』。だからここでしゃべったことも、誰にも届かないし残らない」
また意味わからんこと、と言いかけて、翔太は口を閉じる。誰もいなくて、何も聞こえなくて、少しだけ安心している。けれど、場所は商店街のままで、イルミネーションがきらきらと光を放っていた。
「イルミネーション、あるやん」
嘘つき、と言いたげに翔太は青年を見る。青年は静かに翔太を見つめ返した。
「お嫌いですか?」
「嫌いや」
吐き捨てるように言って、翔太は視線を地面に落とした。
「クリスマスやいうてみんな浮かれて。電気ついたり消えたりしとるだけやん。何が楽しいねん。アホやで、みんな」
青年は何も言わず、ただ翔太を見つめている。その表情に同情はない。青年の無言に引き出されるように、翔太は言った。
「なんなん? クリスマスてなんも変わらんやん。サンタうちに来ぉへんやん。お母ちゃんはよ帰って来ぃひん。なのにピカピカピカピカ、うっといねん! 押し付けんなや! 寂しぃて、辛うて、何があかんねん!!」
寂しぃて、辛うて――惨めで。翔太はぎゅっと目を瞑る。青年は翔太に近付き、無言のままその手を取った。
「……最近、お母ちゃん、化粧濃いねん。疲れた顔見せんようにしてんねん。お仕事毎日遅うて、やのに僕のご飯作って、宿題見てくれんねん。僕、お母ちゃんの邪魔ばっかりしてんねん」
イルミネーションが輝き、翔太の影が地面に浮かび上がる。背を丸め、
「なぁ、おっちゃん」
罪を告白するように、翔太は言った。
「……なんで僕にはお父ちゃんおらんのかなぁ? なんでお母ちゃんあんなに毎日しんどそうなんかなぁ? 僕が――」
固く瞑った目から、涙が一粒、流れて落ちる。
「僕がおらんようなったら、お母ちゃんもっと幸せになれるんかなぁ?」
音の無い世界に告解が響く。空気は冷たく透き通り、イルミネーションの明滅が翔太の影の形を変える。頬を伝う涙が地面に落ちたとき、青年は口を開いた。
「その問いに答える資格は、あたしにはありません。答えを知っているのもあたしじゃない」
鼻をすすり、翔太は目を開く。青年は湖面のように凪いだ瞳で翔太を見ていた。苦笑いを浮かべ、涙を拭って、翔太は言った。
「おっちゃん、ケチやな」
青年は柔らかく微笑み、握っていた手を翔太の胸のあたりまで持ち上げる。そこには何も書かれていない小さな白い箱があった。青年は箱を開けて中身を取り出す。出てきたのはラベルの張られていない一つのスプレー缶だった。
「これはね、ぼっちゃん。『さえずりスプレー』っていう、のどの滑りをよくする薬です。のどにしゅっと一吹きすれば、鳥がさえずるようにすらすらと言葉が出てくる。ぼっちゃんが望む言葉を、ぼっちゃんが望むように」
青年はスプレー缶を翔太に握らせ、そっと手を離した。翔太は冷たい金属の感触に目を落とす。青年は感情の無い声で言った。
「変えたくなければ嘘をつけばいい。変えたいのなら本当を言うしかない。ぼっちゃんがどちらを望んでも、そのスプレーは願いを叶えるでしょう。でもね、ぼっちゃん」
びょうと風が吹き、青年の着物がはためく。遠く微かにざわめきが聞こえ始める。翔太は顔を上げた。青年は冷厳に告げる。
「選ぶのは、あなただ。それだけは誰にも肩代わりできない」
目の前にいるはずの青年の姿が急にぼやける。イルミネーションの光が強さを増す。雑踏が近付く。スプレー缶を握り、翔太は笑った。
「言えるわけないやん。本当なんて」
沈みかけの太陽が抗いようのない夜の訪れを少しでも後らせようともがいている。イルミネーションは夜闇を得て本来の意味を取り戻そうと手ぐすねを引いている。立ち止まっている翔太の横を、楽しげな人々が次々に通り過ぎていく。スプレー缶をポケットに入れ、小さく息を吐き、翔太は顔を上げた。
「帰ろ」
つぶやきと共に吐息が白く煙る。商店街の賑わいの隙間を縫うように、翔太は歩き始めた。
カチ、カチ、カチ
時計の音が規則的なリズムを刻む。独りの部屋はエアコンを付けても温かくならない。寒さは一段と増し、ちらちらと雪が降る。明日は積もっているかもしれない。
もうすぐ夜の十時になる。母が帰ってくる気配はない。翔太は食卓に突っ伏した。お腹が恨めしそうに「ぐぅ」と鳴る。
「……おなかすいたなぁ」
つぶやいて、翔太はつぶやいた自分を笑った。おなかがすいたなら何か食べればいい。冷蔵庫にあるものを適当に使えば、味はともかく空腹は満たされる。それができない年齢ではない。でも――今日は、ひとりで食べたくない。
「なんでやねん」
独り言が部屋に広がって消える。やるべきことははっきりしている。食事を済ませ、洗い物を片付け、宿題をして、明日の準備をする。そこまで終わって母が帰らなければ、火の元と戸締りを確認して、風呂に入って寝る。いつもやっていることだ。クリスマスイブの夜にだけできない理由はない。それなのに、やる気が起きない。何もしたくない。
「――あかん!」
少し大きな声を出し、その勢いで身体を起こす。このままじゃあかん。このままじゃ、余計なこと言ってまう。耐えられんくなる。遅い、寂しい、苦しい、ごめん。全部いらない言葉だ。母を悲しませる言葉だ。翔太はポケットからスプレーを取り出す。スプレーはひんやりとした手触りがする。
――いるんは、楽しいウソだけや
口を開け、のどの奥にしゅっと一吹き。ミントのような爽やかな香りが広がり、翔太は左手で胸を押さえた。
「ただいまぁ」
やや乱暴に玄関扉が開き、母の大きめな声が聞こえる。「雪てほんま、勘弁してほしいわ」などとぶつくさ言いながらコートの雪を払う様子にあきれ顔を作り、翔太は母に駆け寄った。
「おかえり。今日もご苦労さん」
脱いだコートを受け取り、腕に絡めてくるくると畳む。靴を脱ぎながら母が憤りを吐き出した。
「ほんまやであのハゲ課長が。定時直前に仕事振るなっちゅーねん」
以前写真を見せてもらったが、課長の髪はふさふさだった。それでも母は課長を「ハゲ」と呼ぶ。母曰く、「アイツは心がハゲ散らかしとんねん」らしい。意味は分からないが、嫌っていることだけは充分すぎるほど伝わった。
「ほぉら、買ってきたでサンダース。クリスマスやさかいな」
気持ちを切り替えるように明るい声を出して、母が戦利品を誇示するように箱を掲げる。右手でそれを受け取ると、まだじんわりと温かかった。
「なんでサンダース呼びやねん。通じひんで余所で」
「ウチで通じとったらええやん。暗号みたいで楽しいやろ」
「なんで家ん中やのに暗号で会話せなあかんねん。スパイ家族か」
ははは、と楽しそうに笑って、母は居間まで歩くと勢いよくソファに倒れ込んだ。
「ああ~~、づ~が~れ~だ~」
ソファに顔をうずめたまま、地獄の底から響くような情念で母が叫ぶ。サンダースを食卓に置き、コートをハンガーに掛けて、翔太はソファの背を叩く。
「ほら、はよ着替えて。シワになるやん服が」
「……あと五分」
どっちが子供かわからんわ、と半眼でにらみ、翔太は叱咤の声を上げた。
「あかん! サンダースが冷めてまうやろ!」
「お、そらあかん。超速で着替えたるわ、まっとき!」
がばっと身を起こして母が寝室に駆け込む。サンダースの威力、恐るべし。妙な納得感と共に閉じた寝室の扉を見つめる。
――だいじょうぶ。うまくやれてる。
スプレーの効果は本物だ。その確信を得て、翔太は安堵の息を吐いた。
「あんな、今日、帰りにけったいな格好のおっちゃんに会ってん」
二人分にしては多すぎるフライドチキンをほおばりながら、翔太は今日の出来事を母に話す。他愛ない、ちょっとだけ笑える、そういう話が母は好きだから。
「けったいて、どんな?」
少し考える仕草をした後、手ぶりを交えて青年の姿を伝える。
「変な、えーっと、チューリップみたいな? 変な帽子かぶって、着物着て、ブーツはいてん」
「着物にブーツ!? そら、けったいやなぁ」
目を丸くして驚き、母は表情を緩める。
――よかった。お母ちゃん、笑うた
「商店街の真ん中やで? あんなん、間違いなく不審者や」
次のチキンにかじりつき、口をもごもごさせながら翔太は大げさに話し続ける。口の周りが油でテカテカと光った。母は「ありゃりゃ」とティッシュを二枚出し、翔太の顔に手を伸ばした。
「ほら、口拭き。べとべとやん」
荒っぽく口を拭かれ、不満げな声を漏らす。母が呆れたように笑った。
――これでええねん。いつもと、おんなじ
何でもない、どうでもいいことを言って、笑って。お母ちゃん、疲れとって。僕はウソばっかりで。
「お母ちゃんも見たかったわ、そない珍しいひと」
「なっかなか、見られへんであんなん」
翔太の口は軽快に回る。学校でこんなことがあった。担任に怒られた。友達とケンカして、仲直りした。深刻にならない、でもありそうな話。しゃべっているのが本当にあったことなのか、全部創作なのか、もう翔太自身にも分からない。しゃべっている自分の声がどこか遠くから聞こえる。
――本当なんて、どうでもええねん。お母ちゃんが喜んどったら、それでええねん
母が何か言っている。でも、何を言っているのか分からない。翔太は答える。何を言ったのか、分からない。分かるのは、母が嬉しそうだということだけ。
――だって
何も聞こえない。自分は今、しゃべっている? 何を? 視界がぼやける。お母ちゃん、今、笑ろてる?
少し、声が掠れた。
――もし本当に、『僕がおらんようなったら、お母ちゃんもっと幸せ』やったら――
「ほんでな、お母ちゃん」
さっきまでと何も変わらない、今日のささいな出来事を話すのと同じ口調で、翔太は言った。
「僕がおらんようなったら、お母ちゃんもっと幸せ?」
「は?」
よどみなく、なめらかに口をついたその言葉に、母の動きが止まる。翔太の顔から一気に血の気が引いた。
「あ、と」
声が、音が、鮮明に聞こえる。言ってはいけないことを言ってしまった、そのことがはっきりと理解できる。母は凍り付いたように翔太を見ていた。翔太は顔を引きつらせ、ぎこちなく口を開いた。
「ぼ、僕が、オランウータンやったら、お母ちゃん、しあわ、せ?」
ごまかせない。ごまかせるはずもない。いくらでも望むウソがつけるはずのスプレーは、今は噓のように何の力も発揮してくれなかった。どうしよう、どうすれば――冷たい汗が背を伝う。焦るばかりで時間だけが過ぎていく。永遠のような数秒が過ぎ、母は大きく息を吸うと、「よっ」と椅子を持ち上げて翔太の横に置き、そこに座った。逃げようもない距離に翔太の身体が強張る。母は翔太の両肩を掴み、強引に振り向かせてまっすぐに目を見る。
「ずっと秘密にしとったけどな」
母は見たこともないような、真剣な表情をしている。
「お母ちゃん、実は、めっちゃズボラやねん」
「うん。知っとる」
ほとんど条件反射的に翔太は即答する。母の目が驚愕に見開かれた。
「知っとったん!? いや、お母ちゃん的には『そんなことないよ』て優しい言葉待ちのとこやで!?」
完全に当てが外れた顔で、悲鳴のように母が言う。翔太は「気付かれてないと思っとったんか」と言いたげな驚きを目に宿した。
「服はしょっちゅう脱ぎ散らかしとるし、洗濯もんのたたみ方テキトーやし、ゴミの日毎回忘れとるし」
「いやいや、さすがにそんなことは……」
翔太の指摘を母は笑って否定する。翔太は無言で寝室を指さした。寝室の扉は開きっぱなしで、床に脱いだままの形の服が見える。
「……ホンマや」
ショックを受けたように母は食卓に突っ伏した。つい先ほどに自分が為した所業にショックを受けること自体が驚きだが、反省してくれるならそれに越したことはな――
「ちっがーう! 言いたいとこそこちゃうねん!」
十秒もせずに起き上がり、母は再び翔太を正面から見つめる。どうやら仕切り直しのようだ。何がしたいねん、という言葉を飲み込み、翔太は母の言葉を待った。母は緊張をほぐすように息を吐き、ゆっくりとした調子で言った。
「お母ちゃん、ズボラやから、ひとりやとご飯食べんでもええか、ってなんねん。お風呂も今日は入らんでええか、ってなんねん。会社行きとうないわぁ、……もう行かんでもええか、って、なんねん」
唐突な母の告白に戸惑いながら、翔太は素直な感想を口にする。
「それは……大人として、どうなん?」
「そやねん!」
強い口調で母は翔太の言葉を肯定し、再び肩を掴む。
「あかんねん。でもな、どうしょうもないねん」
どうしようもない、と断言され、翔太は言葉に詰まる。冗談というには切実な、真剣というには笑い話のような、でも、確かに伝えたいという意志を感じる。
「ご飯食べんかったら死んでまうやろ? お風呂入らんかったら異臭騒ぎでアパート一帯避難勧告出るわ。会社行かんかったらクビになって、お金のうなってしもて終了や。お母ちゃんひとりやったら、確実にそうなってまうねん」
面白おかしい言葉が震える。必死に言葉を探している。
「あんたがおるから、ご飯作らなって思うねん。ええ匂いのお母ちゃんでおりとうてお風呂入んねん。ハゲに叱られてもしばき倒すの我慢しよて思えんねん」
肩を持つ手に力がこもる。少し、痛い。
「あんたがおらんようなったら、お母ちゃん生きていかれへんねん」
母は翔太のおでこにこつんとおでこを当てた。
「おらんようなるなんて言わんといて。お母ちゃん、まだ死にたないねん」
言葉の終わりは消え入るように、シンと冷たい聖夜の静寂に溶ける。肩の力が抜けたように、翔太は笑った。
「生きていかれへんのやったら、おらんようなられへんなぁ」
ハッと目を見張り、目尻を指で拭って、
「せやで。責任重大や」
母は翔太の頭をくしゃくしゃに撫でて、笑った。
ベッド脇に座り、寝息を立てている翔太の髪を軽く撫でる。愛しい寝顔に何度救われたか知れない。この子がいなければ、きっと自分はこの世にいない。それなのに――
顔を上げる。部屋の隅にある姿見が目に入った。姿見には一人の女の姿が映っている。情けない、ひとりの女の姿が。
「……なにしとんねん。あんた、お母ちゃんやろ。しっかりせぇ!」
姿見の中の女をにらみつけ、彼女は鋭く言い放った。
クリスマスが終わり、商店街は正月の装いへと姿を変える。サンタクロースを門松に変えただけの雑な模様替えが笑いを誘う。「ええかげんやなぁ」とつぶやいて、翔太は今日も帰り道を歩く。
「あっ」
違和感しかない見知った格好を見つけ、翔太は思わず声を上げた。チューリップハットに着物にブーツ。相変わらずの不審者に駆け寄り、翔太は着物の帯を掴む。
「おっちゃん、見つけたで」
ほの暗い不穏な雰囲気を宿した低い声にギョッとした様子で青年は振り返る。
「おや、ぼっちゃん」
とぼけたような返事をする青年に、翔太は厳しい目を向けた。
「おや、やないわ。なんやねんあのスプレー。肝心な時に全然役に立たんかったで」
「あらら、そりゃ災難でしたね」
青年の様子はまるで他人事だ。ムッとした顔で翔太は通告する。
「せーぞーぶつせきにんほーや。そんがいばいしょーをせいきゅーする」
「ちょっと、ぼっちゃん。そりゃ誤解です」
そんがいばいしょー、という言葉に反応したのか、青年は慌てて反論に転じた。
「最初に言ったでしょう? 落とし物ですよ、って。あれはあたしが作ったものじゃない。ぼっちゃんが落としたものなんですよ。あたしはそれを届けただけ。だから、せーぞーぶつせきにんほーには違反してません」
「見苦しいで。僕、あんなん持ってなかってんもん」
「いいえ、あれはぼっちゃんの落とし物です。間違いありません」
冷たい視線の翔太に青年は断言で対抗する。その勢いに呑まれ、翔太は青年の言葉を待った。青年は前のめりに顔を近づける。
「あれは、ぼっちゃんが今まで言えずに置いてきた言葉で作られたもの。だから、もしあれが役に立たなかったとしたら、ぼっちゃんがあれを使ったときにはもう、あれは役割を終えていたんです」
真剣な言葉の奥に、裁判沙汰は嫌だという本音が透ける。翔太は冷淡に斬り捨てた。
「意味わからん。前も言ったけど、そういうんカッコ悪いで」
バツの悪そうに青年はチューリップハットを被りなおすと、翔太から目を逸らし、商店街のほうを見る。ちょうど各店の店員が表に出て、イルミネーションの点灯を始めようとしていた。その様子を見ながら、青年はぽつりと言った。
「お嫌いですか? イルミネーション」
翔太も青年の視線の先に目を遣る。スイッチを入れられたイルミネーションが光った。まだ日のある時間のイルミネーションは、どこか間抜けだ。
「別に。好きでも嫌いでもないわ。ただの電球やろ」
青年は小さく笑う。イルミネーションが通りを彩る。しばらく無言でそれを見つめた後、青年は言った。
「それじゃ、あたしはこれで」
翔太が振り返る。すでに青年の姿はない。パチパチと目を瞬かせ、翔太は大きく息を吸った。冷たい空気が肺に入ってくる。痛いほどに澄んだ、冬の空気が。
「帰ろ」
誰にともなくそう言い、翔太は歩き出す。イルミネーションがきらきらと輝く、商店街の道を通って、家までの道を。日が落ちて夜になっても、イルミネーションがあれば、暗くなくていいじゃないか。そんなことを考えながら。




