ルーカス=ハイドランジア
「ええと、二本目の大通りを左、そこから四番目の十字路を右に曲がった先…此処、かな」
途中、両替と質屋を兼ねた店を見かけたので、金貨は一枚だけを小銀貨に両替してある。
門番で聞いた案内を頼りに辿り着いたのは、大通りに面してはいないものの、それなりに大きな建物だった。
大きいとは言ってもそれは他の建物と比べてで、食堂が併設された宿屋としてはこれが標準的な大きさだ。生憎と村を出たのも今日が初めてのライラには、それは知る由も無い事であったが。
カランカラン。
「いらっしゃいませー、お食事ですか?それともご宿泊ですかー?」
入り扉を開けてドアベルの後に聞こえて来たのは、少々気の抜けた挨拶だった。
その声の主はカウンターから動く事も無く、そもそも此方を見る事も無く下を向いている。
ぱらり。紙をめくる音で、彼が本を読んでいる事を知る。
「ええと、食事と宿泊、両方お願いします」
「両方ですね。宿泊人数は何名ですか?」
「一人です」
「はいはい。宿泊一名様、っと」
カウンター上の帳簿にペンを走らせていた彼は、ふと顔を上げて初めてライラの方へ向いた。
「え………」
小さく声を漏らして固まる彼に、首を捻るライラ。
「どうかしましたか?」
「えと、いや、な、何でも無い、です」
「そう、ですか?」
吃っている彼は顔を赤くしていたが、ライラには何故彼がそうなってしまったのか解らなかった。
ライラは世間一般的に見て、美人の括りに入る。しかし、彼女の育った小さな村では皆が親戚で、その平均的な顔面偏差値自体がそもそも高く。故に自分が、他人から見ると惚れ惚れする容姿をしている事には気付いていない。
宿屋の次男坊であった彼は、後にこう言った。
「瞳も髪も、何の変哲も無い栗色だったけど、だからこそ、天使が目立つその色を変えて地上に降りて来たんだと思ったよ」
渡されたペンで帳簿に名を書き本日分の宿代を払い終えると、ライラは受付をしてくれた彼に宿泊する部屋へと案内してもらった。彼は名をエリックと名乗り、自身はこの宿屋主人の次男坊であると話した。十七歳——ライラより一つ歳下の少年は、最初の対応と打って変わって懇切丁寧なそれへと変えている。それにライラは若干訝るも、先程までは読んでいた本にでも夢中になっていたから等閑になっていたのだろうと結論付けた。
「二〇七号室——此処が、ライラ様の御部屋になります。御食事は朝夕共に六時半から九時の間なら、食堂に来て注文戴ければ何時でも御用意させて戴きます」
「分かりました。ありがとうございます」
「では、ごゆっくりおくつろぎ下さい」
鍵を受け取り部屋に入ると、ベッドに腰掛け唯一の荷物である背負いの鞄を下ろした。
「ふー、初めてこんな長距離歩いたなあ」
靴を脱いでぶら下げた脚をやわやわと揉み解しつつ、ライラは身体の力を抜く。彼女にとって知り合いでない人間と話すのは、物心付いてから初めての事で、少し緊張していたのだ。
角部屋の此処は一階の食堂の真上な様で、窓を少し開けただけで美味しそうな匂いが漂って来る。きっと食事の時間になると、夕食や酒飲みに来た人間の声で騒がしくなるのだろう。
(嗚呼、独り静かに居るよりはその方が良い)
村を出るまでは、親と離れて暮らす事は無かった。自室に一人だったとしても、昼間ならいつも誰かが立てる音がしていた。外に出ていても、誰かが話している声が聞こえたならそれは、血の繋がった誰かの物だった。
その誰かは、此処に居ない。
知らない誰かの声だったとしても、そんな寂しさを紛らわせてくれるかも知れないと、ライラは階下から騒めきが聞こえてくる様になるまでと目を閉じた。
再びライラが目を覚ましたのは、すっかり日も暮れた頃だった。どうやら一時間ほど眠っていたらしく、下からは談笑する声が聞こえてくる。壁掛け時計の短針は、七を少し過ぎた所だった。
「服は…そんなに乱れて無いみたいだし、髪だけ解き直せば大丈夫ね」
身だしなみを確認して、彼女は一階の食堂へと降りて行った。
「いらっしゃい!空いてる席に座って、ちょっと待ってておくれ!」
食堂内は宿泊客以外にも食事や酒を提供している様で混雑しており、その客層は仕事終わりであろう男性が多くを占めていた。
「お隣り宜しいですか?」
「——嗚呼。構わないが」
空いていたカウンター席の一つに腰掛けると、私は正面の壁に掛けられているメニュー表を眺める。
頼む料理が決まったライラは注文をしようと店内を見回してみたのだが、食堂に入った時に来店の挨拶をしてくれた女性は忙しそうにしている。
「かみさん!酒くれ酒!」
「此処は食堂で酒場じゃないんだから、それ以上呑みたいなら酒場に行っとくれ!」
「此処の料理で酒飲みたいんだよおお…」
後ろから聞こえて来る会話は村には無い物だったが、その会話の中に気安さが伺えて、ライラは思わずくすりと笑ってしまった。
「——君は、一人で此処に来たのか?」
「え?」
静かに食べていた隣の人物、カウンターの右端に座っていた男性に話し掛けられて目を瞬かせると、ライラは困惑しながらも相手に視線を合わせた。
「はい。村から此方に出て来て、今日は此処の宿に泊まる予定なんです」
「そうか。此処に若い女性が来るのは珍しいから尋ねてしまったが、気に触る様だったら申し訳ない」
堅い口調ながらも、真摯に向けられた言葉にライラは苦笑を返す。
「いえ、お気になさらないで下さい。それより…注文って、店員を呼んで頼めば良いんでしょうか?」
周囲を伺って言ったライラのその質問に、男は固まった。
この国で店員を呼んで注文をするのは当たり前の事である。それなのに、彼女はそれを知らないらしい。王都周辺は商人なんかの往き来も多いので、食堂や酒場があるのは当たり前。村から出て来たという彼女が、それを見るのも利用するのも初めてなんて事はあり得ないはず——と男が訝しんだ所で。
「あっ!ライラ様、お待ちしてました!」
その思考を、明るい声が遮った。
「エリックさん、ちょうど良かったです!」
「え?!——ああ、注文がまだだったんですね。それなら僕が伺いますよ」
ライラの言葉に何かを期待して、状況を見て彼女が求めていたのが「自分」でなく「店員」であろう事を理解したエリックは、少し肩を落としながらも仕事の対応として言うべき台詞を口にした。
「ボロネーゼのパスタとクラムチャウダー、それから白ワインを一杯下さい」
「かしこまりました。では後ほどお持ちしますので、しばらくお待ち下さい」
頭を下げて戻って行ったエリックは、カウンター向こうの男性に一言二言告げている。その姿をライラが眺めていると、隣りの席の男が小さく呟いた声が耳に届いた。
「家出、という訳では無い様だな」
男がそう考えた理由は、ライラが頼んだ物の値段だった。もしライラが家出娘だったなら、その懐を気にして安い料理を一品位に留めておくはずである。この後、夜も活動する様な事でもあるなら別かも知れないが。
「家出ですか?流石にそれは無いですよ。村を出る時は、それはもう、母を説得するのが大変でしたが。でも、村長にも一緒に説得して貰って来ましたし」
「そう、か。……そういや名乗って無かったな。俺はルーカス。ルーカス=ハイドランジアだ」
ライラの屈託無い笑みに男は少し拍子抜けして、今の所は一度、彼女に対して湧き上がる不信感を胸の奥にしまい込んだ。
「え、ハイドランジアって事は…貴族、ですか?」
男——ルーカスが名乗った家名に、ライラは目を瞬かせる。それは、この国の貴族は花の名を家名として用いるからで、また、庶民が花の名を家名として用いる事は許されていないからだった。
ライラの驚きにルーカスが首肯で返すと、先程よりは幾分改まって背筋を伸ばした彼女は名乗り返す。
「失礼致しました、ハイドランジア様。私はライラ=セレーネと申します」
紫陽花。
その名を名乗る者は、辺境伯家の一員。
そして、ライラが名乗った家名は本来の物で無かったのだが、本人以外にそれを知る者は居なかった。
「お待たせしました!トマトソースパスタと山羊のミルクスープ、それから此方が白ワインになります」
ライラの頼んだ料理を運んで来たのは、その注文も受けたエリックだった。
少し手が空いたらしい女性店員やカウンター奥でフライパンを振るう男性、常連客の面々が一様に、普段やる気を見せないエリックの、嬉々として仕事をするその姿を生暖かい目で見守っていた。
もちろん、エリックがライラに惚れているのであろう事が一目で判ったからこそ、である。
「ライラ様、もし良かったらお話良いですか?」
「?私が答えられる範囲なら、大丈夫ですよ」
視線に何となく気付きながらも、口にはしないエリックと、その意味を量り兼ねているライラ。
二人はその考えを異にしながらも、それらを無視するという同じ結論を出すに到った。
「ありがとうございます!えっと、ライラ様はどちらからいらっしゃったんですか?」
そしてエリックが最初にした質問は、ライラにとって答えにくい物だった。
「…スターチス、って名前の村です。森や川に囲まれていてほとんど人の訪れない場所だけど、その分たくさんの自然の恵みを受けられて、良い所だと思ってます」
「素敵な村なんですね。じゃあライラ様は、どうして王都にいらっしゃったんですか?」
ありきたりな言葉だけで表現して、自分の村の本当の特徴を述べなかった彼女は、疑問を持たれなかった事にほっと息を吐く。
「そうですね…。村の外を、見てみたかった。それだけなんです」
これは本音だった。触れた事の無い外への渇望。それが彼女を此処まで連れて来た。
それと、年に一度だけ村に来る幼馴染を、驚かせようと思って。
その言葉を口にした彼女が浮かべたイタズラっ子な笑みは見る者の目を惹きつけていたが、それは本人には知り得ない事だった。
先程、何処にある、とは明言せずに一般的な村の特徴だけを答えたライラ。浮かべた笑みに質問主は納得して頷いていたが、隣で聞いていたルーカスは村の名に眉を顰めていた。
(スターチス、か。どう考えても花の名だな)
花の名を家名として名乗るのは、貴族だけ。ではそれを地名として冠する様な物はどんな所かと言うと、貴族の治める領名とその領都のみである。ただの村が、その名を花から付けた物とする事は出来ないのだ。
(明日の休憩時間にでも、一度調べてみるか)
そして、謎だらけの少女と辺境伯令息の歯車は動き出す。