可愛いわんこはオスだった
ピピピピピピピピピピピピ……
耳障りなアラームを手探りで止め、のそりと身体を起こす。顔を洗い、菓子パンを食べてから歯を磨く。軽く化粧をしてから着替え、足取り重く家を出た。しとしとと降り落ちる雨が靴に染み、ぐちょぐちょと滑る。
通勤電車は今日も満員で、じっとりとこもった空気がいつも通り不快だった。
「おはようございまーす……」
「あ、南雲さんはコレお願いね! それが終わったら商品部の手伝い行ってきて〜」
「……わかりました」
席に着く前に差し出された書類の束はしっかり重く、昨日残したものと合わせれば立派な鈍器にもなり得そうな様相を成している。
……これで課長を殴ったら早く帰れたりしないかな?
詮無いことを思い浮かべつつ、パソコンの電源を入れた。
キーン コーン
ふと耳にチャイムの音が飛び込んできて、周囲の人々の声が戻ってくる。いつの間にか昼休みに入ったようだ。腰に手を当て背中をそらすと、骨が鳴ってはいけない音をたてた。
「南雲先輩、今日一緒に昼行きません?」
向かいの席から呼びかけてきたのは、後輩の北風君だ。彼が入社してきて最初の教育係を務めたせいか、やたらと懐かれてしまった。ふわふわの茶髪が実家で昔飼っていたトイプードルと重なり、人懐っこい笑顔も相まってついつい世話を焼いてしまうのだ。
「でも今日外雨でしょ? 面倒じゃない」
「地下街にいい店見つけたんですよ〜! 絶対後悔させませんから、行きましょ行きましょ!」
「うーん、まあ、いいけど」
ぶんぶんと振られる尻尾が見えるような。満面の笑みで手首を引かれ、あの子も散歩の際にはよくこうしてリードを引っ張っていたなと思い出す。
地下に降りる階段までのわずかな距離は、二人でひとつの傘を差し、肩を並べて歩いた。
「じゃーん! ここです!」
「へぇ……こんなオシャレな店近くにあったんだ」
得意げに北風君が指し示したのは、木目の美しい壁にシンプルな内装の洋食店だった。店内は案外広く、テーブルごとに形の違う様々なソファーが組み合わせられている。色味が統一されているせいかちぐはぐな感じは全くなくて、素直に好きな雰囲気だった。
「コーヒーも美味しいんですけど、ランチのセットも案外食べ応えあってお手頃なんですよ〜」
「わ、ほんとだ。カツサンドも美味しそうだし……パスタのセットもいいね」
「あ、じゃあそれぞれ頼んでシェアしません? 週替わりだから僕も食べたことないんで!」
「ん、いいよ」
元々「一口ちょうだい」はあまり好きではないはずなのだけれど。北風君となら抵抗なく受け入れられるのは何故だろう?
「わ、やっぱりこれ美味い! ね、南雲先輩も食べて下さい! はい、あーん!」
綺麗にパスタが巻きつけられたフォークからソースがこぼれ落ちそうになり、私は慌てて口を開けた。
「んぐ…………ん、おいし……!」
クリームソースが濃厚で、トッピングされた大きな帆立は表面が香ばしく炙られており、中は絶妙なレア加減だった。
「ですよね?! やっぱここの料理最高だな〜。ね、先輩のも貰えます? あーん」
嬉しそうにニコニコ笑いながら口を開けて待つ北風君を見て、改めて私は自分の行いを自覚してしまった。
シェアするとは言ったけれど、別に食べさせ合う必要はなかったのではないか、と。頬が若干熱い気もするが、今更照れるのもそれはそれで恥ずかしいかもしれない。ここは平然となんでもないことのようにさらりと済ませる方がいい場面なのではないだろうか。犬にオヤツをあげるときだって、こうして手のひらから与えていたわけだし……。
「あ、あーん」
北風君の歯は白く綺麗に並んでいて、けれど左の八重歯だけが尖っている。笑った時だけちらりと覗くそれが可愛らしくて、私は好きだった。
大きな口がサンドイッチを齧りとっていく。近づいた彼のまつ毛の長さまで見えてしまって、少しだけ手が震えた。
指に触れた柔らかな感触は、もしかして唇だろうか。全神経が指先に集まっていくようで、なんだかどこを見ていいものか分からなくなってしまいそうだった。
「わ、うまっ! カツめっちゃジューシーじゃないです? これテイクアウト出来るかな……」
普段と変わらぬ様子で食事を続ける北風君に、いっそ腹までたってくる。
だって私ときたら、この歯型の付いたサンドイッチの残りをどうするか考えるだけで胸の鼓動が高まってしまっているのに。
「北風君、カツサンドもっと食べる……?」
「あ、それ美味しすぎるんで、僕おやつ用に追加で注文することにします! だから残りは先輩が食べちゃっていいですよ~!」
邪気なく笑う彼を見て、やはり意識しているのは私だけなのだなと僅かばかりの落胆を覚えた。今度の一口は、躊躇なく食べられたと思う。
「もうそろそろ昼休みも終わっちゃうから、戻ろっか」
「えっ、もうですか? やっぱり先輩と過ごすと時間経つの早いなぁ~」
彼は誰にでもこうして尻尾を振るのだろうか。
行きがけには感じなかった雨の冷たさが、私の左の肩を濡らしていく。これだから、梅雨は嫌いだ。
「……先輩?」
車が水たまりを跳ね上げ、ばしゃりと大きな音を立てる。
「南雲先輩、なんか怒ってます?」
北風君が立ち止まるから、傘を人質に取られている私も渋々足を止めた。
見上げた彼は眉を下げ、悲しいような困ったような表情で小首を傾げている。幻の尻尾はきっと力なく垂れ下がっていることだろう。
「別に、怒ってないよ?」
「うっそだ~。僕、先輩のことなら人より詳しいんで分かります!」
「またそんなこと言って……」
私の気持ちなんて、少しも気付いてないくせに。
自嘲気味に嗤った私の上に、さっと影がかかる。壁際に一歩寄った北風君が、周囲の視線を遮るように手に持った傘を傾けたのだ。
傘と壁に挟まれたその薄暗い空間で、私の視界には北風君の真剣な表情だけが映っている。
背の高い彼が不意に腰を屈め、形のいい鼻が私のそれと触れ合った。挨拶のように軽く、誘うようにトン、トンと。
さっきよりもずっと近い距離で見る長いまつげは自然にカールしていて、もっとよく見たいと顎を上げたその瞬間。重ねられた唇はやっぱり柔らかくて、少しだけ冷たかった。
「な、んで……?」
これまでずっと、わんこみたいにじゃれつくただの後輩だったくせに。
「だって先輩、会社辞めようかずっと迷ってたでしょ。その上僕のことで悩ませたくなかったから、言わないでおこうと思ってましたけど。先輩が許してくれるなら……これからは本気でいきますよ?」
どうやら気付いていなかったのは、私の方だったらしい。
可愛い後輩が不意打ちで見せたオスの顔にすっかりやられてしまって、頬の熱を冷ますのにたいそう苦労したのだった。