第六章 死より来たる
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第六章 死より来たる
翌朝。
まだ通りに冷たい霧が残るなか、カナンたちはラーキンの家を後にした。
「世話になった。感謝する」
見送るラーキンとキリに向かって、エイデンはそう言った。
キリは、血色の悪い唇に柔らかな微笑みを浮かべた。
「旅のご無事を祈っていますわ。雨と霧を抜け終着の地を踏めますように」
エイデンは軽く頷いた。
「ありがとう」
「お前とは初めて会った気がしないぞ、ラーキン=アクトール」
ジーヴァが言った。
「昔からの知り合いのような気がする」
ラーキンは複雑な笑みを浮かべた。
「それは光栄です」
相変わらず表現が大袈裟だなぁ。
カナンはそう思った。
ラーキンも面食らってしまっている。無理もない。
エイデンは黒馬に跨った。
「行こう。〈前門〉でレディ・マリエルたちが待っているはずだ。その前に昨日の薬屋にも寄らねばならない」
「あの、その事なんだけど………」
カナンが言った。
「薬屋には僕一人で行くから、エイデンとジーヴァは先に〈前門〉に行っててくれない?」
「だめだ」
まあ、大体予想はしていたが、取りつく島もない答えが返ってきた。
しかし、今朝はカナンも負けていなかった。
「大丈夫だって。ここは治安もいいし。そうでしょ? ラーキンさん」
「ええ、まあ………ここは〈双子王〉ディアドラ陛下の街ですから」
「ほら。だから大丈夫だよ」
「しかし………」
「それじゃ心配性を通り越して過保護だよ。そんなに僕が信用出来ない?」
エイデンは押し黙った。
あまり過保護にし過ぎると鬱陶しがられますわよ。
嫌味とからかいをまぶしたマリエルの言葉を思い出す。
「…………そんなつもりはない」
「だったら、問題はないよね?」
エイデンはしばし躊躇った後、不承不承に頷いた。
「わかった。では〈前門〉で待っている」
初めてエイデンが折れた。
心の中で小さくガッツポーズをしながら、カナンはラーキンとキリに笑顔で礼を述べた。
「それじゃこれで。お世話になりました」
「道中気を付けて」
朝霧の中へと消えていく三人を見送った後、ラーキンは傍らに立つ妻を振り返ると、固い表情で切り出した。
「キリ………大事な話がある」
*
派手に軋む薬屋の扉を開けると、ベヴ=ヘイバースは昨日カナンが訪れた時と全く同じ位置、同じ姿で、カウンターの向こうに座っていた。
爽やかな早朝の空気にはまるで似つかわしくない、相変わらずのだみ声でベヴは尋ねた。
「今朝は一人なのかい?」
「一人です」
「そうかい」
カナンの返答に、ベヴはほっとしたような表情を浮かべた。もしかしたら、昨日のようにまた「でかいカラス」に店の前で突っ立たれたら堪らないとでも思ったのかもしれない。
確かに、あの黒衣姿には無言の圧がある。
べヴはカウンターの上に我が物顔で長々と寝そべっていた猫を脇にどかすと、少し紫がかった細長い薬草を置いた。
「ほら。約束のシスヌギ草だよ」
ベヴが出したシスヌギ草はかなり良い品だった。葉は長く大きく、独特の艶がある。イヌサフランと同じく、鎮痛剤として重宝されている薬草だ。人間にだけではなく、肢を痛めた馬にも使う。
ベヴはいい行商人と取引しているようだ。
カナンは笑顔で受け取った。
「ありがとうございます」
代金を払い、布袋に薬草をしまうカナンを眺めながら、ベヴは言った。
「そういや、まだ名前を聞いてなかったね。あたしゃベヴ。ベヴ=ヘイバースだ」
「カナン=カナカレデスです」
「昨日一緒だった黒衣の伊達男とあんたとは、どういう関係なんだい?」
「彼は死んだじいちゃんの友人なんです。じいちゃんから僕の面倒を頼まれたからって、わざわざ僕を探しに来てくれたんです。僕には、じいちゃんの他に身内がいないので」
「つまり後見人というわけかい?」
「そんな大袈裟なものじゃないですけど」
ベヴは口の中で「ふうん」と呟いた。
老婆の口調に引っ掛かるものを感じたカナンは、訝しげに尋ねた。
「彼がどうかしたんですか?」
ベヴは頭を横に振った。
大きな輪のイヤリングが彼女の動きに合わせて揺れた。
「いや。ただ、ちょっと風変わりな組み合わせだと思ったもんでね、あんたとあの男がさ。ここは旅人が多い街だから、あたしも今までいろんな客に会ったけど、あんたたちはその中でもかなり変わってるよ」
カナンは苦笑するしかなかった。
自分とエイデンの他にも、目も眩むようなもの凄い美人の予言者と、とても騎士には見えない口の悪い大男も一緒だと知ったら、ベヴはどう思うだろう?
ベヴはカウンターに片肘につき、顎を乗せた。
「それじゃあ、あんたはこの先もずっとあの男と一緒に旅を続けるのかい?」
「それは………」
カナンは口ごもった。
困ったように黙り込むカナンに、ベヴはすまなそうに眉間に皺を寄せた。
「ああ、ごめんよ。よけいなお世話だったみたいだね。年を取るとお節介になっちまうもんでねぇ。勘弁しておくれ。ただ………あんたとあの男じゃあ、持ってるものがあまりに違うから」
「持ってる……もの?」
「あの男からは戦場の匂いがする。血と武器と軍馬のね。あたしの故郷は戦の絶えない国だった。だからわかるんだよ、戦場に馴染んだ人間が」
カナンは微かに目をみひらいた。
確か、以前スヴェアも似たような事を言っていた。
エイデンは戦慣れしている……と。
カナンの表情を見たベヴは頭をかいた。
「またよけいな事を言っちまったみたいだね。悪気はないんだよ」
彼女は、カウンターの上に逆さに吊るした麦の束に視線をやった。
「あたしの故郷のメイデヌ国は、領主の座を巡って公子同士がずーっといがみ合っててね。世継ぎが出来ないのも困りものだが、子沢山っていうのも考えものさ。何せ十九人もいるんだから」
「十九人、ですか?」
カナンは絶句した。
「もちろん、公妃との間の子だけじゃなくて、愛妾たちに産ませたのも数に入ってるがね。とにかく女癖の悪い領主でねぇ。ネズミやウサギじゃあるまいし、ボロボロよく作ったもんさね。自分が死んだ後どうなるか、ちったあ考えりゃ良かったんだよ」
「でも、普通は一番上の子供が次の領主になるんでしょう?」
カナンの言葉に、ベヴは苦々しげに表情を歪めた。
「その一番上の公子の出来が悪くてね。父親そっくりの女癖の悪さに加えて、ひどい乱暴者ときてる。ちょっと好みの女と見るや、家臣の妻だろうが何だろうが誰彼構わず片っ端から手を出すわ、酒場で酔って暴れるわ、買った娼婦の態度が気に入らないからって殴る蹴るして半殺しの目に遭わせるわ。世継ぎの公子じゃなきゃ、とっくの昔に首を刎ねられてるか、死ぬまで牢にぶちこまれてるかのどちらかだろうよ。そんな奴が正貴族を名乗ってるんだからねぇ、世も末さね。第一公子がそんなだから、下の公子たちが領主の座を狙い出してね。家臣まで巻き込んで、ドロドロのグチャグチャさ。領民は領主館の事を闘鶏場と呼んでたよ」
「それは………壮絶ですね」
それ以外、カナンは言いようがなかった。
「三流の大衆喜劇みたいだろ? あたしら領民にとっちゃいい迷惑さね。いつまでたっても決着しないんで、聖王陛下が間に入って無理やり新しい領主を決めたんだが、それに納得出来なかった他の公子たちが寄ってたかってその新領主を追い出しちまった。追い出された新……と言うか、元領主は、そのあと病になってどっかで野垂れ死んだって話だが、領民は公子の誰かが暗殺したんだろうって噂してたよ。で、元の木阿弥。せっかく決めた領主をあっさり追放されちまって、面子を潰された聖王陛下はいい面の皮さね」
ベヴの最後の言葉には露骨な冷笑が混じっていた。
ガラハイド国でも、今のベヴと同じ表情や口調で聖王の事を話す者を何度も見かけた。
〈地の民〉を統べる唯一の王なのに。
尊敬と忠誠の対象であるはずなのに。
プレストウィック国でエイデンが斃した〈天の民〉の槍騎兵は、自分たちの主君……名前は確か翼の王シファだったか……に対し、深い尊敬と揺るぎない忠誠心に溢れた言葉を語っていた。
〈地の民〉とは大違いだ。
仕える王を冷笑するような状態で、本当にあの〈天の民〉に勝てるのだろうか?
カナンは疑問を抱かずにはいられなかった。
「あなたの故郷は、今はどうなっているんですか?」
「まだ世継ぎ争いをやってるよ」
ベヴは、怒りも悲しみも通り越したような、虚しく乾いた笑みをパラパラとカウンターにこぼした。
「飽きもせずずっと。今じゃ、公子たちの子供や孫たちまで一緒になってね。領主が決まっても、すぐに代わっちまう。全くお笑い種さね」
そんなにころころ領主が変わっていては、家系図を管理するラーキンたちディアドラ系譜図書館の司書たちもいい迷惑なのではなかろうか?
カナンは内心彼らに同情した。
「あたしが住んでいた村も、公子同士の争いに巻き込まれて焼かれちまってね。家族で生き残ったのはあたしだけだった。遠い親戚を頼ってここに流れてきたのさ。だけど、ここに来たのは正解だったよ。ここなら戦はないからね。どんなに頭の悪い貴族でも、ディアドラ陛下がお作りになった街を戦場にする馬鹿はいない」
家も家族もなくし、着の身着のままの女の一人旅はさぞ辛かった事だろう。
シエル村を出た後の自分の旅を思い出しながら、カナンはそう思った。
「親戚夫婦もいい人たちでね。この店の先代なんだけど、あたしを本当の家族みたいに扱ってくれたよ。薬草の事も教えてくれた。あたしゃただの農民で、それまで薬草なんて扱った事なかったから、覚えるのにはかなり苦労したけどね。でも、後を継ぐ子供もいないからって、親戚夫婦はあたしにこの店を遺してくれたんだ。それで、今のあたしがいるってわけさ」
カナンは微笑んだ。
「良かったですね、ベヴさん。僕も、いつかあなたみたいに、どこかの街で薬屋をやるのが夢なんです」
「それなら、ここでやるのはどうだい?」
ベヴの言葉があまりにもさらりとさり気なかったので、カナンは彼女が何を言ったのかすぐには理解できなかった。
「え?」
目を丸くするカナンに、ベヴはまるで自分の身の上話の続きのような口調で言った。
「さっきのあんたの口振りじゃあ、目的地がはっきり決まっているわけでもないんだろ? あんたさえ良ければ、ここを継いで欲しいんだけどねぇ」
カナンは戸惑った。
「え……でも………本気ですか? 僕はあなたの親戚でも何でもないし、第一、昨日会ったばかりなんですよ?」
初対面の人間にいきなりそんな話を持ち掛けるなんて、正気の沙汰とは思えない。
しかし、ベヴは大真面目な顔で頷いた。
「もちろん本気だとも。貴族じゃないんだ、血が繋がってなきゃ跡継ぎになれないなんて事はない。それに、あんたの場合はもうすでに薬師だ。教える手間も省けるってもんさ」
「でも………いきなりそんな事を言われても………」
カウンターの向こうで及び腰になっているカナンに、ベヴは畳みかけるように言った。
「そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。あたしゃまだまだ長生きするつもりだし、取り敢えず住み込みで働いてみるってのはどうだい? 正直なところ、年のせいでだいぶ膝と腰が悪くなってきててねぇ、薬の配達が大変なんだよ。若いお前さんがいてくれると助かるんだが」
カナンは唇を噛んだ。
薬屋で、住み込みで働く。
プレストウィック国のハネストウの店でそうしていたように。
ベヴの提案は……唐突ではあるが……とても魅力的だった。まさに理想と言っていい。
でも………
他のみんなは……エイデンは何と言うだろう?
エイデンにとって、自分は友人から託されたというだけではない。彼がずっと探し求めていた「約束の予言」と関係がある人間なのだ。
考え込むカナンに、ベヴはまるで孫に語りかけるように優しい口調で言った。
「今、ここですぐに決めろなんて無茶は言わないよ。ただ、覚えていて欲しいんだ。あたしとこの店の事をね。その気になったら、またここを訪ねて来ておくれ。あたしは待ってるから」
ベヴはカウンターの上に吊るした麦の束から一本を引き抜くと、スッとカナンに差し出した。
「幸運のお守りだ。メイデヌ国では、こうやって旅の無事を祈って麦の穂を贈るんだ。旅の終わりの地がどこであろうと、その地で実った麦を食べられるようにってね」
カナンは老婆の顔と麦の穂を交互に見た。
窓から差し込む柔らかな光を浴びて、麦の穂は黄金色に輝いていた。
カナンはそっと受け取った。
「ありがとうございます」
一本少なくなった麦の束に視線を戻し、ベヴはしみじみとした口調で言った。
「故郷には何ひとついい思い出なんかないのに、ついこういう事はやっちまう。時々、あたしがいた村を夢に見たりする。焼けちまう前の村をね。考えてみれば全くおかしな話だよ。あの村に住んでた頃はそりゃあ貧しくて、その日の食べ物にも困ってたっていうのに。夫は飲んだくれのろくでなしだったし、姑もガミガミと口うるさくて好きじゃなかった。それなのに………どうしてだろうねぇ。だから『故郷』なのかもしれないねぇ」
遠い目をするベヴの表情には、淡く苦い望郷の念が漂っていた。
シエル村を出て、早七ヶ月余り。
カナンは祖父の墓が荒れていないだろうかと心配する事はあっても、あのギズサ山脈の奥の寒村が恋しいと思った事はなかった。まだ、それほど月日が流れていないからだろうか? それとも、あの意地悪で高慢ちきな村長一家とまた顔を合わせるのはごめんだからだろうか?
でも、いつか……例えばベヴくらいの年令になったら……やはり彼女と同じように、シエル村を懐かしく思う時が来るのだろうか?
帰りたいと願う時が来るのだろうか?
カナンはもう一度ベヴに礼を述べると、店を出た。
手の中の麦の穂を見る。
何故か、少し心が軽くなった気がした。昨夜までの………ガラハイド国を出立してからずっと胸の奥にあった重苦しいもやもやが嘘のように。
カナンは大事に麦の穂を布袋にしまうと、エイデンたちが待っている〈前門〉に向かって歩き出した。
………が。
「さっきの話、受けるのかい?」
ふいに投げかけられた問いに、カナンは驚いて振り返った。
こんな所にいるはずのない人物が立っていた。
カナンは呻くように呟いた。
「……………アニガン卿………どうして…………?」
*
カナンの驚愕など全く目に入らないかのように、アーサー=フラー=アニガンは邪気など微塵も感じられない上品で魅力的な笑みを浮かべた。
「またそんな堅苦しい呼び方をする。アーサーでいいと言ったろう?」
ガラハイド国で初めて会った時と同様、今日のアニガンも相変わらず派手で洒落た出で立ちだった。鮮やかな色の実をつけたカシスの枝をくわえたツグミの意匠を刺繍した翡翠色の衣装。月光石を綴った煌びやかな帯に、柄に大きな紅玉を嵌めた美しい短剣を差している。上着の前立てと袖口にずらりと並んでいるのは、もちろん虹貝の貝ボタンだ。
とても死者とは思えない。
そうと知っていても、尚。
でも………
彼はカナンとは「違う」のだ。
同じ日の光を浴び、同じ空気の中にいても。
異質なもの。
いてはならぬもの。
どうして………彼がここに?
カナンは相手の表情を探るように尋ねた。
「こんな所で何をしているんですか?」
アニガンは肩をすくめた。
「もちろん、家系図の書き換えだよ。フェデヴァン公がアニガン家の家系図から私の名まで削ってしまったから、それを訂正しに」
「フェデヴァン公?」
「トリーシャ国の現領主の名だ。フェデヴァン=カー=トリーシャ」
アニガンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「系譜図書館の司書も驚いていたよ。たまたま私を知っている司書でね、フェデヴァン公の勅使からは、アニガン家の者は一人残らず死んだと聞かされていたから。彼は親切な男だから、もしかしたら気を利かせて、私が来たとトリーシャ国へ知らせをよこすかもしれない。その時フェデヴァン公がどんな顔をするか………見物だね」
もしかして、フェデヴァンを驚愕させる為だけにわざわざ系譜図書館まで来たのではないだろうかと、カナンはかなり本気でそう思った。
一見、ひとかけらの邪気もないように見える蠱惑的な笑顔の奥底に、黒く歪んだ悪意が透けて見える。
「訂正する方がおかしいんじゃないですか? だって、あなたは生きてないんだから」
アニガンは芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「つれない事を言う。傷つくじゃないか」
「そうやって喋ったり歩いたりしている事自体が間違ってる。さっさと自分の墓に戻ったらどうなんです?」
「けっこう言うねえ、君。おとなしい子だと思っていたが、そうでもないらしい」
カナンは不機嫌に言った。
「…………子っていうのは、やめて下さい」
アニガンは笑った。
「それは失礼。でも、君と私はそう大差はないのだよ。君が思っているほどにはね。君だって、イグリットに教えられるまで私の正体には全く気付かなかったじゃないか」
「今は知ってます」
「だからそんなに私を怖がっているの?」
「!」
カナンははっと息を飲んだ。
「別に怖がってなんか………」
「本当に? さっきから私が一歩近づく毎に君も後ずさっているじゃないか。………ところで、もう後がないよ」
カナンの背中が建物の石壁に当たった。
だが、アニガンはそれ以上彼に近づこうとはしなかった。
「そんなに悪いものではないよ、今の私は。それどころか、生きていた頃よりはるかに良いくらいだ。〈地の民〉が吐き続ける、大地に満ち溢れる穢れが、私に無限の力を与えてくれる。この系譜図書館を取り囲む囲壁からアティスモット川の激流に飛び込んでも、私は無傷だろう。空腹を感じる事もないし、睡眠も必要としない。苦痛も疲労も感じない。例え剣で切られても………」
アニガンは帯から短剣を抜くと、無造作に自分の掌を切りつけた。
カナンは目をみひらいた。
傷口から溢れ出たのは赤い血ではなく、どす黒い霧だった。
プレストウィック国で、エイデンの黒い長剣の刃から滴り落ちたものと…………あの時〈天の民〉の槍騎兵を一瞬で塵と化したものと同じ。
穢れだ。
そして、見る見るうちにアニガンの掌の傷は消えた。
「ほら、この通り。私の身の内を満たしている穢れが、私を永遠に存在させてくれる。今さら暗く湿った墓に入る気になどなれないね。気が滅入るだけだ」
そもそも死んでいるのだから、気が滅入るもへったくれもないではないか。
カナンはそう思ったが、口には出さなかった。
………いや、そんな事よりも!
〈前門〉へと続く道をちらと見やる。
こんな所で時間をくっている場合ではない。早く〈前門〉に行かなければ。
エイデンたちが待っているのだから。
内心で焦るカナンをよそに、アニガンはまるで単なる世間話をするかのような口調で言った。
「それに、もともと私の墓などない。今も、アニガン家の者は焼け落ちた邸の瓦礫の下敷きになったままだ。いつか焦げた柱が風に吹き倒され、跡形もなく粉々に砕けても、一族の骸はずっとあのままだろう。トリーシャ国にアニガン家を弔う者はいない」
「そんな……どうして?」
思わず聞き返したカナンに、アニガンは魂が凍りつくような笑みを向けた。
カナンはぞっとした。
やっぱり違う。
この人は違う。
冷たく平坦な口調で、アニガンは言った。
「トリーシャ国の領民たちは皆知っているからさ。アニガン家の邸に火を放ったのが、自分たちの領主フェデヴァンだという事を」
「!!」
表情を凍らせるカナンの様子を眺めながら、アニガンは続けた。
「考えてもみたまえ。いくら火の勢いが凄まじかったとはいえ、使用人も含め百人以上もの人間がただの一人も助からなかったなどという事があると思うかい? 逃げたくても逃げられなかったのだよ。扉も窓も、全て外から塞がれていた。薪を積み上げ、ご丁寧に油までまいて。それを破って何とか外に逃れた者は、待ち構えていたフェデヴァンの騎士たちに斬り殺された。彼らは笑っていたよ。殺戮を楽しんでいた。まるで山火事を逃れ森から飛び出て来た獣を射殺す密猟者のように。窓からよく見えたよ。この身が炎に包まれるその瞬間まで」
その夜は、アニガン家の当主の誕生祝いの宴が催されており、一族全員が集っていた。当主の長男であるアーサー=フラーを始めとして、彼の弟や姉妹、叔父や叔母、従兄弟、姪や甥。その中には、まだ生後間もない乳飲み子もいた。
フェデヴァンが、アニガン家の一族全員が集うこの日を狙ったのは明らかだった。
皆殺しにするために。
さんざめく楽しげな笑い声や楽団が奏でる美しい音楽は、瞬時に恐ろしい悲鳴に変わった。豪華な衣装や宝玉に身を包んだ人々、贅の限りを尽くした調度、壁や柱や天井が、あっという間に紅蓮の炎に呑み込まれた。
人間が燃える時のあのにおい………アニガンは永遠に忘れない。
炎は翌日も、その翌日も燃え続けた。誰も消そうとしなかったからだ。
気付くと、まだ残り火がくすぶる惨劇の跡のただ中に、アニガンは一人立っていた。
そして………
茫然と立ち尽くす彼の前に、彼女が現われたのだ。
カナンは掠れた声を絞り出した。
「でもどうして……? 領主なのに、どうして自分の家臣をそんなひどい目に………?」
「欲だよ。人間が非道な行いに走るのは常に欲の為だ。アニガン家は虹貝で財を成した。あの貝には猛毒があってね、加工するにはまずその毒を消さなければならない。それには特殊な技術と解毒剤が必要だった。アニガン家はそれを秘匿し、門外不出にして、莫大な富を独占していた。強欲なフェデヴァンにはそれが我慢ならなかったのさ」
フェデヴァンは執念深くアニガン家を側近に嗅ぎ回らせ、ついに虹貝の解毒剤を手に入れる事に成功した。アニガン家当主の横暴ぶりに嫌気が差していた虹貝加工職人を買収したのだ。
火事はその直後に起きた。
カナンは言葉を失った。
そんな理由で………?
そんな理由で、百人以上もの人間を………赤ん坊までをも焼き殺したというのか?
領民を護るのが領主の務めではないのか?
一体、どれほどの穢れが業火と悲鳴の中から吐き出されたのだろう。
その具現が、今、カナンの目の前にいるのだ。
アニガンは肩をすくめた。
「まあ、私の父もフェデヴァンに負けず劣らず傲慢な、骨の髄まで強欲な金の亡者だったからね。もう少し臣下の立場をわきまえて、表向きだけでも主君に敬意を払っていれば、あんな事は起こらなかったろう。どちらも同じ穴のムジナというわけさ」
笑みを含むその声音には痛烈な嘲りが滲んでいた。その身を業火に包まれた時に、慈悲の心も一緒に焼き尽くされたかのように。
「私が言うのも何だが、貴族とはそういう生き物だよ。傲慢にして強欲。領民など、税を搾り取るだけの道具としか思っていない。豪華な衣装をまとい、高価な宝玉を身に付けていても、その内側はとても醜い。救いようがないほどにね」
「でも、貴族が………全ての領主がそんなひどい人ばかりじゃないと思います。クレメンツ公はとても良い方でした。ちょっと怖かったけど、ハイン卿や宰相様も」
アニガンは失笑した。
「クレメンツ公が特別なだけさ。彼を基準にしてしまうと、他の正貴族に会った時に失望するよ」
建物の間から見える、中央広場のディアドラの巨像を一瞥する。
「…………でもまあ、それもまた良い経験になるかもしれないね。君が正しい選択をする為に」
「選択?」
カナンは眉をひそめた。
「何の事を言ってるんですか? それって、このあいだガラハイド国であなたが僕に言った事と………」
「君は、何故イグリットが君の側にいると思う?」
「え?」
唐突に話を変えられ、カナンは戸惑って瞳を揺らした。
「………それは………じいちゃんに僕の事を頼まれたから………」
「では、君はワクトーからイグリットの事を聞いていたのかい? いざという時は彼を頼れと? ワクトー亡き後の君の行動から推察するに、とてもそうは思えないが」
「! それは………」
カナンは言葉に詰まってしまった。
ずっと心のどこかで感じていながら無視し続けていた疑念……違和感を抉られた気がした。
ワクトーは、エイデンに宛てた手紙に「親愛なる友よ」と書いていた。
あの手紙は確かに祖父の筆跡だった。
だから、カナンはエイデンを信用したのだ。
エイデンと共に旅をしてきた。
でも………
では、何故、祖父は生前、カナンにエイデンの事を一度も話さなかったのだろう?
プレストウィック国のハネストウの薬屋で初めて会うまで、カナンはエイデンの存在すら知らなかった。
「仮にワクトーとイグリットが昔は親しい友人だったとしても、イグリットの行動は度を越している。そう思わないか? 顔も知らない、一度も会った事すらない子供に対する態度ではない。まるで主人に尽くす健気な忠犬のようだ。実にいじましいじゃないか」
アニガンの声音には強い嘲りの色が滲んでいた。
エイデンについて語る時、アニガンはいつもこんな口調になる。ガラハイド国でエイデンと対峙した時もそうだった。
アニガンはエイデンを憎んでいるのだ。
何故かはわからないが。
アニガンは、同情めいた表情でカナンを見つめた。
「イグリットにとって、君はワクトーの身代わりに過ぎないのだよ、カナン。君にワクトーの姿を見ている。君自身ではなく。亡くした友の面影を重ね、かつては存在した懐かしい友との友情の記憶を見ている。美しい幻想にすがるように。そうやって己を慰めているだけだ。…………君は、それでいいのかい?」
カナンは体の脇でぎゅっと拳を握り締めた。
どうして、こんな意地悪な言い方をしてくるのか。いかにも同情しているふうを装いながら。
「…………そんな事………」
食いしばった歯の間から、カナンは怒りの滲む声を絞り出した。
「そんな事、あなたに言われる筋合いはありません。あなたには関係ない。そうやって僕を惑わすつもりなんでしょう? エイデンの事が嫌いだから」
アニガンは「心外だ」と言わんばかりに顎を引いた。
「ひどいな。そんなつもりはないよ。私はただ事実を述べているだけだ。私たちなら、ちゃんと君自身を見る事が出来る。君自身を尊重する。誰かの身代わりなどではなく」
カナンは眉をひそめた。
「私たち?」
「………失礼」
ふいに背後から声をかけられ、カナンは驚いて振り返った。
深緑色に金の縁取りが入った立派な衣装に身を包んだ、ひと目で騎士とわかる数人の男が立っていた。
全く見覚えのない男たちだった。
カナンは戸惑った。
一体誰だろう?
はっと思い出し、先ほどまでアニガンがいた場所を振り返る。
しかし、トリーシャ国の准貴族の姿は忽然と消えていた。
きょろきょろと周囲を見回すカナンを不審の目で見ながら、ボルトカ国騎士グリーナウェイは一歩カナンに近づくと堅苦しい口調で言った。
「ガラハイド国の予言者レディ・マリエルの連れとお見受けする」
「え? そう……ですけど……?」
カナンは思わず正直に頷いてしまった。
グリーナウェイはさらにカナンに近づいた。
「少し時間をよろしいか? 二、三、尋ねたい事があるのだが」
言いながら、部下に目配せする。
カナンは彼らに不穏な空気を感じ取った。
「悪いですけど、僕、急いでるんで………」
脇をすり抜けようとしたカナンの腕を、クロップトがいきなり掴んだ。
「待て! 平民の分際でその無礼な態度はなんだ!?」
「何するんですか!」
カナンが叫んだ瞬間。
突如、彼の胸元から強烈な白い光が放たれた。
光に触れた途端、クロップトが声もなく昏倒する。
グリーナウェイは目を剥いた。
「何だと!?」
「貴様……っ! 一体何をした!?」
激高したアガノアがカナンに向かって拳を振り上げた。
「! よせ!」
グリーナウェイの制止は間に合わず、固い革の小手をはめたアガノアの拳がカナンの顔をしたたかに打つ。
カナンは壊れた人形のように声もなくその場に崩れ落ちた。
グリーナウェイは怒鳴った。
「馬鹿者! 尋問出来なくなったらどうするのだ!」
グリーナウェイは倒れて全く動かないカナンの傍らに膝をつくと、彼の首筋に指を当てて脈を確認した。
「も、申し訳ありません、つい………」
うろたえるアガノアを睨みつけ、
「もういい。早く馬を引いて来い!」
「は、はい!」
慌てて駆け出したアガノアを見送りながら、ザンファーがいかにも疑わしげな口調でグリーナウェイに尋ねた。
「本当に、このような子供が何か知っているとお考えですか?」
「内情を知りたければ、従者や侍女に当たるのが一番だ。連中は常に主人の側近くにいるからな。この者もレディ・マリエルの従者ならば、件のガラハイド国と〈天の民〉の戦の折も彼女の傍らで全て見ていたに違いない。それに………」
グリーナウェイはカナンを見下ろしたまま続けた。
「先ほどの白い光を見たであろう? ただの従者に騎士を気絶させられるものか。金でも掴ませて情報を引き出そうと思ったが、もしかしたらこれは大当たりかもしれぬ。とにかく、仔細はボルトカ国へ連行してからゆっくり尋問すればよい。このような平民の小僧なぞ、ちょっと痛めつければすらすらと何でも喋るであろうよ」
「しかし………」
「もういい、黙れ!」
さらに言い募ろうとしたザンファーを、グリーナウェイは苛立って遮った。
「お前の意見など聞いてはおらぬ。よけいな口をたたく暇があったら、クロップトを起こせ!」
「…………はい」
これではまるで卑劣な人さらいではないか。
ザンファーは心の内で舌打ちした。
こんな卑しい真似をする事が、誇りある騎士のやる事だというのか?
自分は、こんな事をする為に騎士になったわけではない。
苦々しく思いながら、ザンファーが地面に転がったままピクリとも動かないクロップトの肩に手をかけた時。
凄まじい轟音と地響きが広大な系譜図書館全体を激しく揺るがした。
*
『本当に一人で行かせて良かったのか?』
ピンと立った羽根食いの尻尾越しに背後を見やりながら、ジーヴァはエイデンに尋ねた。
黒馬にまたがる黒衣の男と並んでいるせいで、彼女の日焼けした金髪と小麦色の肌の明るさがよけいに際立って見える。燦然と輝く太陽の傍らに漆黒の闇夜があるかのようだ。
鞍も付けてない風変わりな生き物に跨った風変わりな格好の少女に、すれ違う人々が驚愕と好奇が入り混じった表情で振り返るが、ジーヴァは全く気にする様子はない。
エイデンは前方に視線を向けたまま答えた。
『カナンが一人で行くと言って譲らなかったのだから、仕方なかろう』
『けどあいつ丸腰だろ? 武器のひとつも持たずに歩き回るなど信じられん』
『自分を基準にするな』
『私のをひとつ貸してやっても良かったのに』
『〈獣使い〉の一族の武器は〈地の民〉には扱えぬよ』
『ファミーガは扱えるじゃないか』
『私は基準にはならん』
『だが教える事は出来るだろう? 剣でも弓でも、あいつに教えてやればいいのに』
『カナンは薬師だ。薬師に剣はふさわしくない』
『頭が固いんだよ、ファミーガは。何をこだわってるんだか』
不満げに口を尖らせるジーヴァに、エイデンは顎をしゃくって前方を示した。
『彼女がレディ・マリエルだ』
冷たい朝霧が漂う中、木と鋼鉄で造られた見上げるような巨大な〈前門〉の周囲は、すでに開門を待つ人々や騎馬や馬車でごった返していた。
その中にあっても、純白の芦毛馬に乗った美しい予言者の姿はよく目立った。まるで彼女の周囲だけ霧が晴れているかのようだ。フードからこぼれる長い金色の髪が、滴り落ちる蜂蜜のように艶やかに輝いている。マリエルの美貌が気になって仕方がないらしい数人の男たちが、ちらちらと彼女に熱い視線を投げかけては、スヴェアに睨まれて慌てて目線をそらしている。
エイデンは苦い溜め息をついた。
ガラハイド国を早々に発ったのは、死肉に群がるハゲワシのような近隣諸国の目からカナンの存在を隠す為だった。
だが、カナンと二人で静かにガラハイド国を去るつもりだったのに、成り行きでマリエルとスヴェアまで同行する事になってしまった。ディアドラ系譜図書館に入る為には彼女がいた方がよかろうと思い、渋々ながら同行を承諾したのだが………。
予言者であるマリエルが側にいると、どうしても注目を集めてしまう。
それは、ガラハイド国を発って以来、エイデンがずっと懸念していた事だった。あの容姿もそうだが、胸元に付けているフクロウの護符のせいで、彼女が予言者だとわかってしまった事も多々ある。
さすがに、マリエルも予言者かと問われても頷くだけで、名を名乗ったりはしなかったが。
昨夜ジーヴァも言っていたように、街や村の大小に関係なく、予言者が現われたという噂が広まるのは早い。〈地の民〉の常で、皆予言を貰おうとするからだ。行く先々でマリエルは……連れであるカナンたちも……予言者がやって来たという噂を聞きつけて集った人々に囲まれる事が度々あった。
その為、一行はなるべく街や村は避け、夜盗や獣に狙われるリスクを冒しながら野宿をする事を余儀なくされた。
だが………予言者は必要だ。
まだ。
エイデンに気付いたマリエルが馬を寄せてきた。
スヴェアも後に続く。
「おはようございます、エイデン。そちらの方があなたの友人ですね」
「そうだ」
まるで貴族に挨拶するかのように、マリエルは優雅に微笑んだ。
「はじめまして。マリエル=サンデバルトです」
「よ、よろしく頼む。〈獣使い〉の一族ジーヴァ=テュボーだ」
ジーヴァは面食らったように何度も瞬きした。
「あんまり美人なので驚いた。人間離れしているな」
「ジーヴァ………」
額に指を当ててエイデンが呻く。
「………ちょっと待て」
スヴェアが気付いて言った。
「テュボーだって?」
エイデンは頷いた。
「あのテュボーだ」
昨日、カナンに答えた時と同じような返事をする。
スヴェアは目を剥いた。
「何だと? お前、七賢者の末裔に友人がいたのかよ。そんな事今までひと言も………」
「今言った」
冷やかに言い放つ黒衣の男に、スヴェアは拳を震わせた。
「…………てめぇ、いつかマジでぶん殴ってやる」
マリエルが周囲を見回しながら尋ねた。
「カナンはどこですか?」
エイデンは頭をちょっと動かして背後を示した。
「昨日立ち寄った薬屋に行っている。ここで合流する事になっている」
マリエルは心底意外そうに目をみひらいた。
「あなたが彼を一人で行かせるなんて驚きですわ。雪が降るかもしれませんわね」
「過保護すぎると言ったのはそちらだろう?」
不機嫌に返すエイデンに、
「わたくしは『過保護すぎる』とは言っていませんわよ。『過保護にしすぎると鬱陶しがられる』と言ったのです。カナンに嫌われるのがそんなに怖いのですか?」
エイデンは答えなかった。
ジーヴァが〈天の民〉の言葉でエイデンに囁いた。
『ファミーガに面と向かって嫌味を言うとは、〈地の民〉の予言者は怖いもの知らずだな。シャリマーといい勝負じゃないか』
『予言者は「遠慮」という言葉を知らん』
『同感だ。きっと奴らは神経が鉄で出来ているんだ。塩水ぶっかけて錆つかせてやりたくなるぞ』
「何ですって?」
〈天の民〉の言葉はわからないマリエルが聞き返す。
エイデンは素っ気なく答えた。
「何でもない」
ちょうどその時、キジの尾羽根を飾った洒落た帽子を被った男が、〈前門〉の両脇に建つ楼閣のひとつに姿を現わした。革のベストを着て、首から角笛をぶら下げている。
開門を告げる門番だ。
日中の陽気からは想像もつかない、初夏とは思えぬほど冷たい朝霧に身を震わせながら開門を待ちわびていた人々が、彼の姿を見て安堵にも似たざわめきをもらした。手綱や鞭を握り直し、馬の腹帯を確かめ、荷車にくくりつけた荷物の留め具を点検し、肩に担いだ袋を持ち直す。やっと出発出来るのだ。
門番は帽子を脱いで気取った仕草で深々と一礼すると、再び帽子を被り直し、おもむろに角笛を口に当てた。
スヴェアが面倒臭そうに呟いた。
「…………気取ってねえでさっさと門を開けろよ」
まだ色の薄い青空に、角笛の高く澄んだ音が高らかに響き渡った。木と金属が激しくこすれ合う音がそれに重なる。楼閣の内部にある歯車と滑車が、門扉を吊るす太く巨大な鎖を巻き上げていく音だ。
ギシギシと軋みながら〈前門〉がゆっくりと上がり始めた。その向こうから昇ったばかりの朝日が燦然と溢れ出し、冷たい朝霧を一気に打ち払う。
「………?」
ふと、エイデンが眉をひそめた。
『どうした? ファミーガ』
目ざとく気付いたジーヴァが問う。
エイデンは曖昧に頭を横に振った。
『いや………』
門扉が完全に上がりきるまで待ちきれなかったらしいせっかちな御者が、ピシリと鹿毛色の馬車馬の背に鞭を入れた。
それにつられて他の騎馬や馬車や人々も一斉に動き出す。
マリエルは急に目を射た朝陽が眩しくて、反射的に顔の前に手をかざした。指の間から、奇妙に引き伸ばされた人々や騎馬や馬車の影が見えた。
「………!!」
突然、マリエルの表情が変わった。
彼女は、信じられない光景を目の当たりにしたかのように大きく目をみひらいた。
「……………いけない」
「レディ? いかがなさいましたか?」
一番近くにいたスヴェアが、マリエルの独語を耳にして聞き返す。
マリエルは震える声を絞り出した。
「いけない……! 門をくぐってはいけません!!」
「? 何を言って………」
わけがわからず戸惑うスヴェアやジーヴァとは正反対に、エイデンの反応は早かった。彼は黒馬の腹に強く拍車をかけると、せっかちな御者が御する馬車の前に漆黒の疾風のごとく強引に割り込んだ。
突如、巨大な軍馬に立ちはだかれ、驚いた馬車馬が棒立ちになる。
御者が怒鳴った。
「何をする!? 邪魔だ、どけ!!」
「門をくぐるな!」
エイデンは鋭く叫んだ。
「予言者の言葉だ! 門をくぐるな!」
エイデンの「予言者の言葉」という文言に御者が怯んだ瞬間。
鼓膜を引き裂くような凄まじい金属音が響き渡った。
思わず立ち止まり、何事かと周囲を見回す人々の目前で、もうほとんど上がっていた門扉が一瞬、宙で凍りつく。
そして、まるで巨大なギロチンのごとく、門扉は一気に地面に墜落した。
*
系譜図書館全体を揺るがす轟音と衝撃と共に、中央広場のディアドラ像よりも高く立ち昇る土煙を眺めながら、アーサー=フラー=アニガンは不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、お手並み拝見といこうか、エイデン=イグリット。君のその美しい漆黒の剣で、この石の箱庭に穢れをまき散らすがいい。果たして君はナタリア・ピッパから無事にカナンを取り戻せるかな? この程度の危機も打開出来ぬというのなら、カナンは我々がもらうよ。その方が彼の為だからね」
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
カナンの試練は続きます。
エイデンに頑張ってもらわねば。
引き続き、次章もお読み頂けますと幸いです。
ではまた。