第五章 過ぎ去りしもの
第五章 過ぎ去りしもの をお届けします。
最後まで読んで頂けますと嬉しいです。
第五章 過ぎ去りしもの
一面に深紅の花が咲いていた。
降り注ぐ眩いばかりの陽光に祝福されて、花々は耳には聞こえない歓びの賛歌を歌っているかのように美しく煌めき、咲き誇っている。雲ひとつない輝く青空の下、見渡す限り広がる麗しき深紅の絨毯。
そのただ中に、カナンは立っていた。
かぐわしく濃厚な花の香りが鼻孔をくすぐる。
見覚えがあるようでいて、全く見知らぬ場所だった。ずっとここにいたような気もするし、反対にたった今ここに来たような気もする。
髪を巻き上げるように吹いた風につられて視線を上げると、深紅の花園の向こう……なだらかな斜面の上の小高い丘に、いくつもの尖塔が空を貫く巨大で荘厳な建物がそびえ立っていた。物言わぬ巨人のごときその威容。まるでカナンをねめつけているかのようだ。強い陽射しを浴びているはずなのに、黄金と白亜の建物は何故か暗く陰鬱だった。じっと見ていると、言い知れぬ不安が胸をざわつかせる。
「…………彼の墓があるの」
ふいに耳に届いた声に驚き、振り返ると、カナンの隣りに一人の喪服姿の女性が佇んでいた。
一体、いつからそこにいたのか。
手首に付けた小さな弔いの鈴が、花園を渡る風に揺れてか細い音を立てている。
喪服の女性は前方に視線を向けたまま、まるで独り言のように続けた。
「………ここに」
カナンは目を細めた。
陽射しが眩しすぎて、彼女の顔が見えない。
「お墓……ですか? こんな花園に?」
こんなに美しい、光が満ち溢れた場所に?
彼女は振り返ると、真っ直ぐカナンを見た。
それでもまだ彼女の顔は見えなかった。
「そう。ここは唯一、彼の故郷を思い起こさせる場所だから。たった一人、誰も訪れない花園に眠っている」
カナンは首をかしげた。
「誰も? でも、あなたはこうしてここに来ているじゃないですか。弔いの服を着て、弔いの鈴を鳴らして」
「私はもうここに来る事は出来ない。………永遠に」
喪服の女性は声を震わせた。
「人々の心も変わってしまった。いつしか花を手向ける者はいなくなり、墓に眠る者の名も墓石の在処すらも忘れ去られてしまうでしょう。…………でも」
突然、彼女の口調が変わった。
「………本当は何の意味もない。墓に捧げる花になど」
口調だけではない。声そのものも、そして姿も。
アーサー=フラー=アニガンは、カナンに向かってゆっくりと手を差し伸べた。
「手向けの花も瞬く間に枯れるだろう。………ほら、君には見えるはずだ。水晶の歌を聞く君には」
世界を蝕みゆく穢れが。
*
「……っ!」
頬に氷の指を押しつけられたような気がして、カナンは飛び起きた。
体の下でベッドが軋んだ。
一瞬、自分がどこにいるのかわからず、彼は暗い室内を見回した。
床には麻織の丸いラグが敷かれ、壁には農村風景を描いた小さな絵が掛けられている。ベッドの脇に置かれた木のテーブルには、火を消した燭台がひとつ。
質素ながらも、家人の人柄がよく表れた清潔な部屋だ。
「………そ……か………」
カナンは震える声で呟いた。
「ここ………ラーキンさんの家だ」
額の汗を拭う。
激しい動悸がしていた。まるで全速力で走った後のように。胸に手をやると、六角形の水晶の首飾りが指に当たった。
カナンは深く息を吐いた。
何故、あんな夢を見たのだろう? 知らない場所に佇む、知らない喪服姿の女性。
もう夢から覚めたのに、まだ彼女の悲しみが心を軋ませる。
まるでカナン自身が彼女であるかのように。
そして………
あの准貴族。
アーサー=フラー=アニガン。
カナンは身震いした。
穢れを吸い、まとい、大地を永遠に彷徨う、呪われし者。
死者。
単なる迷信だと思っていた。言う事を聞かない子供を怖がらせる為の作り話だと。
それなのに………。
あんなふうに普通に、まるで生者のように話し、歩くなんて。
エイデンが正体を暴かなければ、きっとずっとわからないままだった。
もしかしたら、今までもそうやってただ気付かなかっただけで、他にもアニガンの「同類」が身近にいたのではないだろうか? すれ違ったり、あるいは言葉を交わしたりしていたのでは?
そう考えると背筋が凍った。
急に肌寒さを感じ、カナンは自分の腕を強くさすった。
部屋の四隅に潜む闇が、ひたひたと彼の方へと染み広がってくるような気がした。
その向こうから、アニガンが冷たい指を差し伸べてくるような気が。
テーブルの上の燭台に火を灯したい衝動を、カナンはどうにか我慢した。閉ざされた鎧戸が夜風にカタカタと音を立てている。ベッドに入った時は全く気にならなかったのに、今はやけに大きく聞こえた。
カナンは軽く頭を振ると、毛布を脇に押しやってベッドから抜け出した。
すぐにまた横になる気にはなれなかった。
他の者が目を覚まさないよう、音を立てないようそーっと扉を開ける。
………が。
「カナン?」
すぐに呼び止められてしまった。
声の主が誰か瞬時にわかったカナンは、小さく息をついて振り返った。
わずかに開いた隣の部屋の扉の向こうに、見慣れた黒衣姿が立っていた。扉の隙間から垣間見える部屋の中は真っ暗で、どこまでが暗がりでどこからが黒衣なのかわからない。
エイデンは静かな口調で尋ねた。
「どうしたのだ? こんな時間に」
「何も。ただちょっと………眠れなくて」
この人はいつ眠っているのだろう?
カナンはぼんやりとそう思った。
ガラハイド国を出立し、野宿をしていた時も、カナンが夜中にふと目を覚ますとエイデンは起きている事が多かった。最初は、スヴェアと交代で見張りをしてくれているのかと思ったのだが、さり気なくスヴェアに確認したところそうではないらしい。
「何でもないから。エイデンは寝てて」
「また悪夢を見たのか?」
「!」
カナンははっと息を飲んだ。
「時々、うなされているだろう?」
「…………知ってたんだ」
カナンは表情を歪めた。足元に視線を落とす。
それはそうだ。二十日以上、一緒に旅をしてきたのだから。
もしかしたら………いや、おそらくスヴェアやマリエルも気付いているのだろう。口には出さないだけで。
カナンは、一瞬だけきゅっと唇を噛んだ。
「よく………ソーンさんの夢を見るんだ」
ついさっきまで言葉を交わし、笑顔を見せていた若い騎士が、次の瞬間には地面に倒れていた。
蝋燭の炎が燃え尽きるように、その両眼から光が失せていく様を間近に見た。
死を。
人の死に遭遇したのは初めてではない。シエル村にいた頃も、獲物に反撃された猟師や崖から転落した若者や誤って毒の実を食べてしまった子供などが、薬師だった祖父のもとによく運び込まれた。
その中には助からなかった者もいた。
人が住むには過酷すぎる山深い寒村では、死は生活の一部ですらあった。
だが………
戦場での死は、それとは全く違う。
戦で命を落とした者は、その悲惨な最期ゆえに、葬られてもなお穢れを吐くという。
ならば、アダル=ソーンもまた、今も墓の下で穢れを吐き続けているのだろうか?
あのアニガンのように、永遠に彷徨う呪われた者となるのだろうか?
頬に飛び散った血飛沫がまだこびりついている気がする。
そして、それが乾いた砂に浸み込むように、体の一番奥深いところで凝っているような気がするのだ。
夢の中だけではない。
起きていても、ふとした瞬間にソーンの最期の様が突如脳裏に甦る事がある。光景だけではなく、音や匂いまでも。
そんな時は身が竦んでしまう。
きっと、エイデンたちにはそれも気付かれているのだろう。「大丈夫か?」と、よく声をかけてきてくれるから。
「エイデンも、悪い夢とか見る?」
「時々は」
「どんな夢を?」
エイデンは一瞬だけ答えるのを躊躇った。
「…………戦場での夢だ。昔の」
剣を扱う者らしい夢だ。
カナンはそう思った。
「悪夢は誰でも見る。普通の事だ」
「でも嫌なものだよね、悪い夢って」
辛い記憶を繰り返すなんて、出来ればしたくない。ソーンの死を何度も何度も経験しているかのようで。
「いつか見なくなったりするのかな」
「それは人による。だが、同じ悪夢でも、時と共に次第に遠く感じるようになる。だから大丈夫だ」
「エイデンもそう?」
「ああ」
それは、エイデンが強い精神の持ち主だからではないだろうかと、カナンは思った。自分もそんなふうに感じられるようになるかどうかは、正直自信がない。
カナンの胸中を知ってか知らずか、エイデンはやや遠慮がちに言った。
「もし、また悪夢を見て、誰かに話したくなったら、私に言えばいい。話を聞く事くらいしか出来ないが、それで良ければ」
カナンは微笑んだ。
「ありがとう。少し気分転換してから、部屋に戻るよ」
「わかった。気を付けろよ」
カナンは苦笑した。
「ここはラーキンさんの家の中だよ。何に気を付けろっていうの?」
カナンは踵を返した。
背後でエイデンが扉を閉める音が聞こえた後、カナンはもう一度彼の部屋の方を振り返った。
本当は、さっき見たのはいつものソーンの夢ではなかったのだが。
喪服姿の女性と、見知らぬ花園。
そして、アニガン。
しかし、迷ったけれど、カナンは今夜見た夢の内容の事をエイデンに言うのはやめた。ガラハイド国での、アニガンに対するエイデンの激しい感情を思い出したから。
あの時の、アニガンのエイデンへの嘲りの言葉も。
祖父に対する罪悪感とは何なのか。
エイデンの言う「あの女」とは誰なのか。
何故、エイデンはアニガンが告げた「あの女」からの伝言にあれほど反応したのだろう?
ずっと心に引っかかっているのだが、何故か触れてはいけない気がして、カナンは聞けずにいた。
カナンは何かを振り払うように何度かゆっくりと頭を横に振ると、これ以上他の者が目を覚まさないよう、なるべく足音を立てないよう注意しながら廊下を進んだ。
昼間の陽気が嘘のように、家の中の空気はひんやりと冷たく、そして静寂に包まれていた。
ラーキンの家は、カナンが想像していたよりもずっと大きな家だった。調度類も古びてはいるが凝った細工の立派な物ばかりで、寄せ木細工の床が美しい吹き抜けの玄関ホールには、真鍮のシャンデリアまで吊り下がっていた。
部屋数もたくさんあり、カナンたちはそれぞれ別々の部屋に通された。完全に一人だけで、しかもちゃんとしたベッドで眠ったのは、ガラハイド国を出立して以来初めてだった。野宿も多かったし、宿に泊まるにしてもマリエルだけ個室で、男三人は相部屋だったから。
「司書というのは報酬が良いんだな」
真鍮のシャンデリアを見上げながら不躾な事を言うジーヴァに、ラーキンは気を悪くするふうでもなく笑顔で答えた。
「いえ、そんな事はありません。この家は、系譜図書館を警備する騎士だった私の先祖が建てたものです。私と違って、先祖はかなり高い地位にあったそうなので」
アクトール家は代々騎士の家系で、司書になったのはラーキンが初めてだという。夫婦二人だけで住まうには広すぎて管理が大変だと、ラーキンは笑った。
ラーキンの笑顔はとても心が和む。懐かしいような気さえする。
ふいに頬を微風が撫でた。
「……?」
目の端に何か白いものが映った気がして、カナンは振り返った。
廊下の曲がり角に……ほんの一瞬だけ……白い衣装の裾と長い金髪が垣間見えた。
レディ・マリエル?
咄嗟にそう思ったが、すぐにそんなはずはないと思い直す。マリエルは、スヴェアと共にホステッド・コスに泊まっているのだから。
誰だろう?
こんな時間に、一体どこへ?
カナンは吸い寄せられるように後を追った。
廊下を曲がると、白い人影はちょうどとある部屋の扉の向こうへするりと消えるところだった。
カナンはわずかに開いた扉の隙間からそっと中を覗き込んだ。
暗い室内には誰の姿もなかった。
「………あれ?」
戸惑って中を見回したカナンの目に、壁にかけられた大きな肖像画が飛び込んできた。
おそらく夫婦だろう。騎士と思しき正装姿の壮年の紳士と、その隣に座る婦人の肖像である。二人の背後には、地平線近くに灰色の雲が流れる空の下、崖の上に超然とそびえ立つディアドラ系譜図書館が描かれている。
婦人は何故かすっぽりとベールを被っており、肖像画だというのに顔が描かれていない。
こんな風変わりな肖像画は初めてだった。
カナンは人影を追っていた事も忘れ、しばしその奇妙な肖像画に見入っていた。
何だろう?
何か………何かが…………
「カナン?」
ふいに背後から声をかけられ、カナンは飛び上がるほど驚いた。
コップと水差しを乗せた盆を持ったラーキンが立っていた。
「どうしました? こんなところで」
「え……と、さっきここに………」
人影の事を言いかけて、やめる。寝静まった家の中をうろつく白い人影を見たなどと言ったら、ラーキンが薄気味悪く思ってしまうかもしれない。
きっと見間違いだったのだ。実際、誰もいないではないか。
まださっき見た悪夢を引きずっているのかもしれない。
カナンは曖昧に頭を横に振った。
「いえ。ただちょっと………眠れなくて。ラーキンさんはどうして?」
「妻が、喉が渇いたというので」
水差しを示す。
昼間、系譜図書館で会った時と同じく物柔らかな声音には、妻に対する深い愛情が満ち溢れていた。
玄関でカナンたちを出迎えてくれたラーキンの妻キリは、儚げという表現がぴったりのたおやかな女性だった。肩に触れるくらいの長さに切り揃えた亜麻色の髪と、水面に映る月のような澄んだ瞳。透き通るような肌は白いというより青白く、ひまわりのような明るい笑顔をもってしても顔色の悪さは覆い難かった。
体が弱いのだろうと、ひと目でわかるほどに。
共に囲んだ夕食でもキリはほとんど食べておらず、時折ラーキンが気がかりそうに彼女に視線をやっていた。
それとは対照的に、ジーヴァの食べっぷりは呆れるほど見事だった。至極当然といった顔でエイデンの皿の料理まで片付けてやった様子から、エイデンはカナンを探しに行く前……〈獣使い〉の一族と共にいた頃も、自分の分をジーヴァに譲っていたのかもしれない。
エイデンもかなり小食な方だから。
ラーキンは、カナンが眺めていた肖像画に視線を移した。
「これは祖父母の肖像画です。祖父は先祖と同様、系譜図書館を警護する騎士でした。先の大戦の折は、王都で時の聖王陛下に仕えたそうです」
系譜図書館を警護する騎士は、全員が水晶騎士団の第三師団に所属している。聖王家護衛の次に重要とされる任務に従事する、とても名誉ある務めだ。
そして、戦の時は、聖王の下に馳せ参じ、主君を護り戦うのだ。
「時の聖王陛下って………もしかしてオニール陛下ですか?」
ラーキンは頷いた。
「そうです」
「すごいですね。〈勝利王〉の騎士だったなんて」
ラーキンは少し照れたような笑みを浮かべた。
「数いる騎士の中の一人にすぎませんよ。大戦後に引退して、〈前庭〉に戻ったそうです」
カナンは椅子に座る婦人の方を示した。
「どうして彼女はベールを被っているんですか?」
ラーキンは何とも形容し難い表情をした。
「先の大戦で、祖母は戦火に巻き込まれ顔にひどい怪我を負ってしまったそうです。それで常にこんなふうにベールで顔を隠し、一歩も家から出ませんでした。そんな目に遭ったというのにとても心優しく、ユーモアがあって、子供心にも不思議な雰囲気の女性でした。………二人とも亡くなりましたが」
「お気の毒です」
ラーキンは穏やかに微笑んだ。
「もう、ずっと昔の事ですから」
カナンはもう一度肖像画を見上げた。
七十年も昔の戦の傷跡が、ここにもある。
彼は祖父の事を思わずにはいられなかった。祖父の心に、あの戦はどんな傷を残したのだろう? 七賢者としての名誉や称賛全てに背を向けて、氷河と万年雪に閉ざされたギズサ山脈の奥深い寒村でひっそりと残りの人生を送るほどに。
生き残った他の二人の七賢者も、ワクトーと同じように歴史の表舞台から姿を消してしまったという。彼らはその後どんな人生を送ったのだろうか。
長く辛く激しい戦だったから、疲れてしまったのかもしれないね。
クレメンツの言葉を思い出す。
もしかして………じいちゃんは七賢者の名から逃れたかったのではないだろうか?
だからこそ、かつて自分が成した功績を死ぬまで孫に……そしておそらく一人娘にも……ただのひと言も語らなかったのでは?
今思うと、そうとしか………
「それにしても残念でしたね。お探しの女性がすでに亡くなってしまっていて」
ラーキンの言葉に、カナンは物思いから引き戻された。
「クレメンツ公もさぞや落胆される事でしょう」
「そう………ですね」
カナンは曖昧に頷いた。
そもそもクレメンツの公妃探しの話は嘘なので、クレメンツが落胆する事はない。それなのに、その作り話を信じ、無駄足になってはいけないと自分たちをあちこち探し回ってくれたラーキンに悪くて、カナンはひどく良心が咎めた。
おまけに家にまで泊めてくれて。
意外だったのは、ラーキンからホーデンクノス家最後の一人が死んだと聞かされても、エイデンがさほど落胆しているようには見えなかった事だ。あれほど「約束の予言」を欲していたはずなのに。
「それで、みなさんはこれからどうされるのですか? エルメイア国へ行ってももう何の意味もありませんし、ガラハイド国へ帰国されるのですか?」
「さあ………もしかしたら、今度は王都へ行くって言い出すかも」
王都には、聖女ロザリンドの生家アンダーレイ家がある。
ナセル=フレイズの子孫がもはや存在しないのであれば、エイデンは他の七賢者の末裔を探そうとするかもしれない。
しかし、「約束の予言」のいう「七賢者」が「再び集う」事は、もはや不可能だ。ナセル=フレイズの血を引く者はいなくなってしまったのだから。
だからこそ、エイデンが微塵も落胆を見せなかった事が、カナンには不思議でならなかった。
まあ、単にいつものごとく感情を表に出さなかっただけかもしれないが。
エイデンはこれからどうするつもりなのだろう? まだ諦めず、一縷の望みを託して他の七賢者の末裔を探し続けるのだろうか?
「王都へ? 何故?」
ラーキンが訝しげに聞き返してきた。
カナンははっとした。
またよけいな事を言ってしまった。
「いえ、ただ何となく。決めるのは僕じゃなくてエイ……レディ・マリエルですから」
「そうですか」
内心ではまだ怪訝に思っていたのかもしれないが、ラーキンはそれ以上突っ込んで尋ねる事はしなかった。
「…………あの」
カナンは躊躇いがちに切り出した。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「もし、レディ・マリエルの予言がなくても、あなたは僕たちを家に泊めてくれましたか? それとも………彼女の予言を知ったから、それに従ったんですか? そうしなければならないと、思って……?」
ラーキンはカナンの顔を凝視した。
「予言が関係する事で、何か嫌な思いをした事があるのですか?」
「!」
怯んだように息を飲むカナンに、
「あなたは予言に対して抵抗感があるようだ。だから、そのような質問をするのでしょう?」
カナンは足元に視線を落とした。
「………予言をされたんです。どう考えてもあり得ないような、途方もない予言を。僕にはとても信じられなかった。でも………」
微塵も信じて疑わない人々がいた。
息苦しかった。
とても。
「その予言は外れたのですか?」
カナンは弱々しい笑みを刻んだ。
「…………いえ。予言の通りになりました」
ガラハイド国は〈天の民〉に勝利した。
祖父が遺したアリアンテの力によって。
それが良かったのか、悪かったのか………今、自分が置かれている状況を考えると、とても素直には喜べない。
「でも、まだ終わっていないんです。まだ予言は続いている。………ずっと」
君の手に世界が握られている。
君こそが「約束の予言」の要だという事さ。
アニガンの言葉を思い出す。
君はどちらを選ぶ? 争乱か静寂か。
あれは一体どういう意味なのか。
アニガンは何を知っているのか。
ひとつだけ確かなのは、カナンはまだ「予言」という名の鎖に縛られているという事だ。
エイデンの「約束の予言」に。
七賢者の末裔であるがゆえに。
絡みつき、つきまとう重たい霧のように。
胸の奥のもやもやしたものがずっと晴れない。夜明け前の悪夢のように、彼の心を冷やすのだ。
「少し冷たい言い方になってしまいますが………」
祖父母の肖像画を見上げながら、ラーキンは言った。
「一度発せられた予言は止められません。どうやっても。自分では遠ざけ、避けたつもりでいても、いつの間にか追いつかれている」
「その予言に関わりのある場所や………人から遠く離れても、ですか?」
「ええ。残念ながら。予言とは、言うなれば地面に落ちた自分の影のようなものです。常に傍らに存在し、決して離れる事はない。予言者自身にもそれはどうしようもありません。ですから、自分が視た不吉な予言の通りの結果となってしまった時、苦しむ予言者が多いのです」
「そんな予言……!」
カナンはやや強い口調で言った。
「そんなもの、僕は欲しくありません。誰かの思い通りに動かされているみたいで、嫌なんです。そんなの変です」
まるで誰かが選んだ道を知らぬ間に歩かされているかのようで。
自分で決めたつもりだったのに、実は誰かに操られているかのように。
今、このディアドラ系譜図書館にいるのは、取り敢えずガラハイド国を出なければならなかったから。
それはよくわかっている。
自分で考えて、選んで、決めて、ここまで来た。
そのつもりだった。
でも………
七賢者の末裔であるジーヴァに出会った。
まだ予言は続いているのだと………また自分は予言の通りに動いてしまったのだと、カナンは思い知らされた。
ショックだった。
マリエルは、予言とはあくまで数多ある未来のひとつを示す道標にすぎないと言ったけれど。
そうであるならば、何故こんなにもカナンの心を重く暗くさせ、苛むのか。
逃れられない。
そう思わせられるのか。
ガラハイド国にいた時と同じだ。息苦しくてたまらない。
自分は何をどうするのか、どう判断するのか、それら全てを「約束の予言」に縛られるのか?
この先ずっと?
一生?
………未来永劫?
「…………あ」
カナンは我に返って口ごもった。
「す、すみません。ラーキンさんには全然関係ない事なのに」
ラーキンは優しく微笑んだ。
「いいんですよ。そういう事は、赤の他人の方が返って話しやすいものです」
ラーキンの言う通りだった。エイデンはもちろん、スヴェアやマリエルにも相談出来ない。彼らはカナンと違い、予言をもとに行動する事を「当たり前」だと思っているのだから。
彼らと自分との間に目に見えない壁を感じる。
エイデンの事を「さん」を付けずに呼べるようにはなったけれど、それだけだ。
このままエイデンたちと共に旅を続けても良いのかどうか。どこかで「けじめ」をつけなければならないのではないか?
わからない。
ではどうするのだ? と自分に尋ねても、カナンは答えを見出せなかった。迷ってばかりの自分が、結局ずるずると惰性でここまで来てしまった自分が、嫌になる。
明確で、正しい答えはあるのだろうか?
あるとしたら、それは一体どこにあるのだろう?
「話を聞いてくれてありがとうございました。ちょっとだけ気が楽になりました」
「それは良かった。お役に立ててなによりです」
「それじゃ、僕、部屋に戻ります」
「おやすみなさい、カナン」
「おやすみなさい」
自分の部屋へと引き上げていくカナンを見送った後、ラーキンはもう一度祖父母の肖像画を見上げた。
レディ・マリエルは、あの少年の事を「従者」と言っていたが………。
だが、貴族(やその勅使)の従者は普通、主人の許しがない限り勝手に喋ったりはしない。
カナン=カナカレデス。
あの少年は何者なのか。
一体、どんな秘密を胸に抱えているのだろう?
誰にも打ち明けられないものを抱え込むというのは、辛いものだ。
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
ラーキン、けっこう勘が鋭いですね。記憶力お化けなだけではないようです。
次章では、カナンがえらい目に遭います。
「お楽しみに」……なんて書くとカナンに怒られそうですが、
お楽しみに。
ではまた。