第二章 〈庭園〉のテンペランス
第二章 〈庭園〉のテンペランス をお届けします。
今回、少し長くなってしまいました。申し訳ありません
最後まで読んで頂けますと嬉しいです。
第二章 〈庭園〉のテンペランス
〈天の民〉が住まう空中都市〈黄金の鷺〉は、光り輝き流れうねる雲海の中に、まるで天の女神の麗しき髪を飾る宝冠のごとく超然と浮かんでいる。
その姿は、両翼を広げ、頭を高く掲げて今まさに飛び立たんとする鷺に似ており、それがこの壮麗な天空の都市の名前の由来でもあった。
いや、「都市」というより、最早「大陸」と呼ばわった方が相応しいかもしれない。あまりに巨大・広大すぎて、〈黄金の鷺〉で最も高い位置……鷺の頭の部分……にあるハランたちが住まう〈庭園〉の塔のてっぺんに立ったとしても、両端を見渡す事は出来ないのだから。
別名「天の花」と呼ばれる真紅の薔薇が咲き乱れる〈庭園〉から、ゆるく弧を描く長い道を下っていくと、そこには白鷺の飾り羽根のごとく煌びやかで荘厳華麗な王宮がそびえている。〈天の民〉を統べる翼の王の居城でもある王宮は、〈黄金の鷺〉の政治を司る中枢だ。
そして、その王宮の周囲には、〈黄金の鷺〉最大の都である王都〈女神の御手の上〉が整然と広がっている。
〈女神の御手の上〉は建物も道も全て天の水晶で造られた、神々しいばかりの輝きと気品に満ち溢れた都だ。木や石や煉瓦で造られた〈地の民〉の無秩序で雑然とした街などとは比べ物にならぬほど美しく、完璧に整備され、衛生的で、洗練されている。
叫び鳥が曳く優雅な鳥車がマス目状に張り巡らされた道を軽快に走り、繊細優美なシルエットの建物と建物の合間をぬって、背に人を乗せた白孔雀がゆったりと飛んでいる。
人々は裾の長い絹の衣装をまとい、金や銀の上品な装身具で身を飾っていた。ある者は運河にかかる橋の欄干にもたれて恋人と語らい、ある者はテラスに据えた華奢な椅子に腰かけて読書に耽り、またある者は鏡の前に座る娘の金色の髪を櫛で梳いてやっている。
そして、時折甘く柔らかい風に乗って〈庭園〉に咲く真紅の薔薇の高貴な香りと、ハランたちの妙なる歌声が漂うのだ。
〈女神の御手の上〉の周囲には豊かな森や輝く草原や芳しい花園が広がり、いく筋もの小川が軽やかなせせらぎの音を奏でていた。流れる水には天の水晶が溶け込んでいる為、川面はキラキラと細かな金の砂のような光を放っている。森の外れの果樹園では、金色の髪をなびかせた純真無垢な少女たちが、鈴の音のような笑い声を上げながら真っ赤に熟した果実をもいでいる。
少女たちの頭上では雲雀が高らかに常春の賛歌を歌い、ひらひらと舞う瑠璃色の蝶が緑の原に華を添え、百花咲き乱れる花園では艶やかな赤茶色の毛皮の鹿の群れが柔らかい花びらを食べている。
美しい民が住まうにふさわしい、美しい天空の都。
遠く離れた異郷の地で、今も野蛮な〈地の民〉と戦をしているなどとは到底想像しえない、永遠の楽園の地。
しかし、この平和と輝きに満ちた風景とは裏腹に、荘厳華麗な王宮では殺伐とした軍議が連日のように開かれていた。
*
〈天の民〉の統治者・翼の王シファ=カンタベリスが軍議の休憩の為に将軍たちと共に会議室を出ると、ロイック=ミュイスが彼を待ち受けていた。
ロイックの顔を見た瞬間、シファには悪い知らせだとわかった。戦場にいるハランたちを統括しているロイックの顔が心なしか青ざめていたからだ。胸に付けたハランの証アリアンテの輝きも、心なしか弱々しい。
シファは重々しい口調で尋ねた。
『何事だ? ロイック』
ロイックは深々と頭を下げた。
『アンヤ=グェヒンが討たれた由にございます、陛下』
『何だと!? またか!?』
大声を上げたのはシファではなく、彼の背後にいた将軍の一人アマルハス=アトフだった。
アマルハスは怒りに口髭を震わせた。
『つい先日もシーマー(〈天の民〉が使っている〈獣使い〉の一族の蔑称)に一人討たれたばかりではないか! 一体、そなたらハランは何をやっておるのだ! 敵の矢の前にぼけっと突っ立ってでもおったのか!?』
ロイックは頭を下げた姿勢のまま、ギリリと奥歯を食いしばって、容赦なく投げつけられる罵倒に耐えた。
本来ならば、ハランは翼の王の次に敬意を払われるべき存在なのだ。ハランなくしてこの壮麗なる天空の都は存在し得ないのだから。彼らがその歌声で天の水晶を操り、制御しているからこそ、〈天の民〉は何の不自由もなく平穏に暮らしていられるのだ。
だが………
七十年前の大戦で、全てが変わった。
大戦の前は、身内にハランの才がある者が現われると親族総出で盛大に祝ったものだ。それが………今では困惑しか抱かない。それどころか隠そうとする者すらいる。
全ては、あの汚らわしい裏切り者……大罪人エルレイ=ズヌイのせいで。
死した後も災いをまき散らす、呪われし者。
まるでそんな民の有様を嘆いた天の女神が采配したかのように、九百年ぶりに王族からハランが誕生した後ですら、一度人々の心に染みついた憎悪と嫌悪は容易には消えなかった。
『やめよ』
やや鋭い口調でアマルハスを諌めたのは、シファだった。
『戦場で斃れた者を蔑むは、誇りある軍人のする事ではないぞ。少なくとも私は好かぬ』
『!』
アマルハスがはっと怯む。
内心、アマルハスと同じように思っていた他の将軍たちも、ばつが悪そうに目線を泳がせた。
シファはロイックに視線を戻した。
『だが、ロイック、開戦以来これで討たれたハランはもう四人目だ。これは想定外の事態だぞ。討ったのはまたシーマーか?』
『いえ。此度は〈地の民〉です。ガラハイドとか申す辺境の小国とか』
シファは口の端をわずかに歪めた。
『残念な事だ。アンヤは夫同様、賢く勇敢な民であった。遺族には私から哀悼の意を伝えよう。………で? それ以外の損害はいかほどか?』
『それが………』
ロイックは口ごもった。
『…………全滅の模様です』
『何!?』
シファは目を剥いた。
『全滅だと!? 誰一人、戻らぬというのか!? 一人も!?』
『御意。空中砦も跡形もなく崩壊した由』
『馬鹿な……!』
アマルハスの隣りで、スカワ=オキトア将軍が呻き声を漏らす。
『あのキシュベルの………ガスキア=トゥヴォーンの槍騎兵部隊が全滅だと……?』
現在、〈天の民〉軍に五人いる女将軍の一人ハヴァメム=ラトレルが、信じられないと言わんばかりに震える声でロイックに問うた。
『本当なのか、それは? 何かの間違いではないのか?』
ロイックは無念そうに頷いた。
『はい。生存者が皆無であった為、確認に手間取りましたが………確かです』
シファは内心で舌打ちした。
聖王直下の水晶騎士団ならばいざ知らず、まさか辺境の一小国ごときがそこまでやろうとは。
一体、どんな策を使ったのか。
ただでさえ数の少ないハランに戦死者が続けば、〈庭園〉の連中が何を言い出すか………
『テンペランス様………!』
驚いたように上がった声に、シファははっと顔を上げた。
数人の男女を従えた、背の高い女性が近づいて来ていた。
真珠色の光沢を放つ裾の長い衣装に銀糸を織った帯を結い、ほとんど銀色に近い金髪に幾筋もの細い飾り鎖を垂らした純銀の冠を付けている。彼女の動きに合わせて煌めく様は、まるで夜空を彩る銀河のよう。
そして、その胸元には、ハランの証たるアリアンテが燦然と輝いている。
王宮と並ぶ〈黄金の鷺〉の要……天の水晶を操る者たち・ハランが住まう〈庭園〉の守護者にしてハランの長・テンペランス=ヤクソニアである。
一様に見目麗しい〈天の民〉の中にあっても、テンペランスは光り輝く〈黄金の鷺〉の化身であるかのごとく抜きん出た気品と威厳の持ち主だった。同性のハヴァメムですら思わず息を飲んでしまうほどの並ぶ者なき高貴なる美貌と、全てを見通すような緑玉色の双眸は、他人をして見惚れるというより畏怖にも似た感情を抱かせる。
頭を垂れずにはいられない。
何故なら、〈庭園〉の守護者は〈天の民〉で唯一、翼の王と同格の存在であるからだ。
それゆえ、シファも彼女に対しては最上級の礼を尽くす。
心の内では何と思っていようとも。
テンペランスに付き従う数人の男女……全員彼女やロイックと同じくアリアンテを身に付けているので、ひと目でハランだとわかる……の内の一人が誰か気付いたシファは一瞬目をみひらいたが、すぐに元の表情に戻ると、居並ぶ将軍たちと同じように丁寧に頭を下げた。
『〈庭園〉の外にお出ましになるとはお珍しい。このような無骨な場に何用でございましょうか? 守護者殿』
テンペランスはシファに冷やかな視線を投げた。
『用件はわかっているはずです、翼の王よ。またハランが討たれたと聞きました』
頭を上げたシファは、頬に苦笑を閃かせた。
『これはまたずいぶんとお耳の早い。確かにその通りです。私もたった今、このロイックより報告を受けたところです。その知らせ、貴女は誰からお聞きになったのですか?』
『それは重要な事ではありません。重要なのは、此度の戦で命を落としたハランがこれでもう四人目だという事です。わずか九ヶ月の間に四人………いささか犠牲が多すぎるのではありませんか?』
『彼らは戦場におりますれば、もとより戦死は覚悟の上でございましょう』
答えたのはシファではなく、ロイックだった。
将軍たちがぎょっとしたように互いの顔を見合わせる。
いかにシファの信任厚いとはいえ、ハランであるロイックは当然ながら守護者であるテンペランスより地位は下だ。それなのに、そのテンペランスに対してこうまで露骨に無礼な態度を取った事に驚いたのだ。
今回の開戦に関して、二人の意見が対立しているという噂は、どうやら本当らしい。
テンペランスはロイックを見やった。
『そなたの言いようは、とても〈庭園〉に属する者の言葉とは思えぬ。我らハランの務めは、天の女神より授けられた特別な声と歌によって天の水晶を操り、〈天の民〉にただひとつ残されたこの〈黄金の鷺〉を維持する事。その声を戦場で、しかも武器として使うなど、本来の役目とはかけ離れている。わたくしは開戦の折よりそう申してきました。だが、そなたは聞く耳を持たぬ』
『此度の戦はその〈黄金の鷺〉を〈地の民〉がまき散らす穢れから守る為のもの。ハランの務めにも沿うております。それでも許せぬと仰るのであれば、〈庭園〉の守護者としての権限を行使して、我々をお止めになればよろしいでしょう』
我々。
ロイックはわざと複数形を使った。
貴女の意に沿わぬ者は自分だけではない。
言外にそう言い放ったのだ。
ロイックのあまりの不遜さに、テンペランスに付き従う供のハランや将軍たちはむろんの事、シファまでもが言葉を失った。
ただ一人、テンペランスだけが小揺るぎもしなかった。
『むろん、それ以外に手段がない時は、そうしましょう』
『ご随意に』
『ロイック! それが守護者に対する物言いか!?』
『やめなさい、ルカ』
ロイックの無礼な態度に腹を据えかねて声を荒げた供の若いハランを、テンペランスは制した。
静かだが厳しい視線をぶつけ合うテンペランスとロイックの間に割って入るように、シファが言った。
『申し訳ありませんが、守護者殿、我らはこの後も軍議がございますれば、これにて失礼させて頂きます』
それから、シファは先ほど声を荒げた若いハランに向き直ると、やや口調を和らげて続けた。
『久し振りだな、ルカ。父上の葬儀以来か』
ルカ=カンタベリスはぎこちない微笑を返した。
『ご無沙汰しております………兄上』
『〈庭園〉の務めも忙しかろうが、たまには一緒に食事でもどうだ? ………それくらい構わぬでしょう? 守護者殿』
『もちろんです』
頷くテンペランスの横顔をちらと見やってから、ルカは言った。
『では、近いうちに王宮へ伺います』
『楽しみにしているぞ。………では失礼』
踵を返したシファは、ほんの一瞬だけ苦々しげに口元を歪めた。
伺う……か。
まるで他人の家を訪ねるような言い方ではないか。
やっとこの気まずい場から離れられると安堵の表情を浮かべる将軍たちを引き連れ、シファは再び会議室へと向かった。
そもそも軍議の休憩の為に会議室を出たのだが、シファも将軍たちもそんな気分は吹き飛んでしまっていた。
『ロイック』
彼らの後に続いて会議室に入ろうとしたロイックを、テンペランスが呼び止めた。
『今ひとつ、そなたに尋ねたい事があります』
ロイックは振り返った。
『何でしょう?』
『そなたは先の翼の王の臨終の折、シファ陛下と共に立ち会っていたと聞きました』
『そうですが………それが何か?』
『その際、本当に先王は何もご遺言なさらなかったのですか?』
『はい。何も』
ロイックは、抑揚のない声でよどみなく答えた。
『グロフト王は眠ったまま安らかに逝かれました。テンペランス様もご葬儀の折、そのお顔をご覧になったはず』
『ええ。とても穏やかな死に顔でした。まるで………言い遺した事は何もないというふうに』
先ほどと同じ張りつめた空気が流れた。
ロイックは束の間目を伏せると、口の端だけでちらっと笑った。
『シファ陛下に民の未来を託せばなんの心配もないと、そうご安堵なさったのでございましょう』
再び……心なしか足早に……会議室へと入っていくシファたちを厳しい表情で見送った後、テンペランスは衣装の裾を翻した。
『〈庭園〉に戻ります』
*
テンペランスとルカを乗せた鳥車は、王宮と〈庭園〉とをつなぐ長い道を軽快なスピードで進んでいた。
ルカ以外の供のハランたちは、もう一台の鳥車に乗って後ろに続いている。
〈庭園〉の上空を白孔雀や冠鷲に乗って飛ぶ事は禁じられている為、〈庭園〉への出入りには必ずこの鳥車が使われるのだ。
鳥車は、白孔雀よりも力が強く、冠鷲よりもずっと御しやすい叫び鳥に曳かせる〈天の民〉の主たる移動手段である。基本は〈地の民〉が馬に曳かせる馬車と同じだが、それよりもはるかに乗り心地が良い。どんな悪路でも雲間を飛ぶがごとく静かに軽やかに走る。
尤も、この〈女神の御手の上〉に舗装されていない道などないが。
唯一の難点は、叫び鳥の鳴き声がその名の通りとんでもなくやかましいという事だったが……叫び鳥の飼育者の職業病トップが難聴というくらいだ……嘴が少ししか開かないよう頭絡に工夫が施されていて、耐えられないほどではない。
『ルカ』
しばらくして、テンペランスが口を開いた。
『あなたは王族。他の者とは違って、兄である翼の王に会うのにいちいちわたくしの許可を得る必要などないのですよ』
ルカははっと顔を上げた。
『申し訳ありません。そんなつもりでは………』
九百年ぶりに王族から現れたハラン。それがルカ=カンタベリスだった。
ハランの才に血筋は関係ない。〈天の民〉であれば、誰でもハランの才を持って生まれる可能性がある。王族であろうと、代々の軍人の家系であろうと、街の片隅に暮らす平凡なパン職人の家であろうとも。
どういう法則でハランが誕生するのか、誰にもその原理はわからない。
過去には、兄弟揃ってハランの才が現れた例もあるが、それは極めて稀な事例だ。
〈天の民〉の長い歴史においては、王族出身のハランも少なからずおり、中には守護者の地位にまで登りつめた者もいる。
しかし、この九百年というもの、王族からは全くハランが生まれなかった。
それゆえ、我が子にハランの才があると知った時、グロフト王は非常に喜んだという。
しかし、兄シファの胸中は複雑だったに違いない。何故なら、ハランの才を持って生まれた者は、皆〈庭園〉に入る事が義務付けられているからだ。
そして、ほとんどのハランが、〈庭園〉の外の者とはほとんど関わる事なく一生を終える。アンヤのように〈庭園〉の外の者と結婚するハランは非常に稀だ。
そして、例え外の者と結婚しても、ハランが〈庭園〉から出て他所に住まう事は許されない。
アンヤの場合も、夫キシュベルの方が先祖代々の家を出て、守護者テンペランスの特別な許可を得て、夫婦二人〈庭園〉の片隅で目立たぬようひっそりと暮らしていた。
禁じられているわけではないけれど、ハランではない者を配偶者に選ぶ事は、〈庭園〉ではあまり好ましく思われていなかった。本来、住む事が許されないはずのハランではない者が……〈庭園〉の中でも外れた区域とはいえ……〈庭園〉の敷地内に居を構える事になるからだ。公式に禁ずるべきとする意見も、一定数ある。しかし、結婚の自由を定めた〈天の民〉の公法に反する、というのが、王宮と代々の〈庭園〉の守護者の見解だった。
もちろん、ハランに全く行動の自由がないわけではない。許可さえもらえば休日にはいくらでも〈庭園〉から外出できるし、反対に家族が会いに来る事も可能だ。先の大戦以前は、定期的に実家に里帰りするハランも多かった。しかし、日々の修行や務めに忙しく、頻繁には外出出来ないのが実情だ。
但し、〈庭園〉の外へ出る事が出来るようになるには、守護者から一人前のハランになったと認められ、ハランの証たるアリアンテを与えられる事が前提だった。それまでは、家族の葬儀の時以外、一切の外出が禁じられている。
家族が〈庭園〉へ会いに来る事も同様に。
そして、一人前のハランとなるには、長い修行期間が必要だった。
シファとしては、たった一人の弟を〈庭園〉に奪われてしまったような気分だった事だろう。
実際、年端もいかぬ幼少の頃に〈庭園〉に入ったルカにとっては……自分でも薄情だとは思うのだが……滅多に会えない両親や兄よりも、テンペランスや仲間のハランたちの方がずっと身近で親密な存在だった。
だが、ハランであると同時に翼の王の弟でもあるルカにとって、今の王宮と〈庭園〉との緊張状態は居心地の良いものではない。
『………テンペランス様は………』
ルカは、躊躇うように自分の足元に視線を彷徨わせた。
『テンペランス様は、兄が父の遺言を握り潰したと、そうお考えなのですか?』
テンペランスはすぐには答えず、鳥車の窓から外の景色を見やった。
通称「回廊」と呼ばれている〈庭園〉へと繋がる唯一の道は、鳥車同士が余裕をもって離合できるほど幅広かった。回廊の両脇には鳥車の落下事故防止を兼ねた石柱と彫像が一定間隔で延々と並び、その外側には金色のリボンのような小川が〈庭園〉からこぼれた真紅の薔薇の花びらを水面に散らしながらゆったりと流れている。陽光を浴びて白銀色に輝く雲海と、抜けるような真っ青な空が美しい。もし、天の水晶と同じように太陽も常人には聞こえぬ歌を歌っているのだとしたら、それは力強く眩いばかりの歓喜と祝福の賛歌に違いない。
テンペランスは、後方へと流れゆく景色を見つめたまま静かに言った。
『………そうでない事を祈っています』
そう思っている。
ルカには、テンペランスの返事がそういう意味に聞こえた。
彼は膝の上で拳を握りしめた。
確かに、先王が崩御してから〈地の民〉との開戦まで、あまりにも展開が早すぎた。ハランを戦場へ送る事にテンペランスが明確に反対の意を表したにも関わらず、何人ものハランがロイックに賛同した事も、ルカにはショックだった。
シファがロイックの提案を受け入れた事も。
鳥車の窓から吹き込む心地好い風も、芳しい緑と花の香りも、車内に垂れこめる重苦しい空気を打ち払う事は出来ない。
しばらくの沈黙の後、テンペランスはやや口調を変えて再び口を開いた。
『あなたは、グェヒン将軍の副官を知っていますか?』
ルカは頷いた。
『はい。確か、ユキア=カトラの甥だったと記憶しています。上官と共に戦死したとか』
同情の滲む口調で続ける。
『親しくしていた身内は彼だけだったとか。………気の毒です』
ユキア=カトラはルカにとって良き先輩であり、親しい友人、そして姉のような存在のハランだった。
先の大戦の後、ユキアは家族と会わなくなった。あまり実家に顔を出してくれるなと、親兄弟から言われたのだ。裏切者と同じハランである彼女に度々帰って来られては、自分たちが嫌がらせを受けるかもしれないから、と。
血を分けた家族からそのような冷たい言葉を浴びせられ、どれほどユキアは傷ついた事だろう。
家族や親類縁者から、彼女と同じような事を言われたハランは多かった。
しかし、ユキアの弟の息子ベルギットだけは、変わらず彼女と交流していた。
ルカも何度か会った事があるが、心根の優しい好青年だった。軍人にしては珍しく語学に長けた人物で、〈地の民〉の言葉ばかりでなく、はるか昔に絶えてしまった〈海の民〉の言葉も研究していた。その語学の才能を買われ、若年にも関わらずキシュベルの副官に抜擢されたのだ。
結局はそれが仇となり、残念な結果となってしまったが。
『そのユキアの甥が、ガラハイドとの戦の直前、わたくしのもとへ知らせを送ってきました。戦場で、アンヤ以外にアリアンテを持つ者がいる、と』
『!!』
ルカは目をみはった。
その言葉が意味するのは………
他に聞く者などいないというのに、テンペランスは声を落として続けた。
『しかも、その者は〈地の民〉の、まだ年若い子供であった、と』
『そんな……っ!』
ルカはうわずった声を上げた。
『そんな事はあり得ません! 〈地の民〉がアリアンテを所持出来るわけがない! 穢れにまみれた手で触れた途端、砕けてしまうはずです。第一、一体誰のアリアンテが…………』
はっと思い当たったルカは、愕然としてテンペランスの顔を凝視した。
『………まさか………』
テンペランスは深く頷いた。
『そうです。ひとつだけ、行方のわからないアリアンテがあります。先の大戦の折、エルレイ=ズヌイが持っていたアリアンテが。噂では、エルレイは死ぬ直前に七賢者の一人に自身のアリアンテを譲ったとか。元の持ち主が許せば、アリアンテも砕ける事なく新たな持ち主を護るでしょう』
『何という事を……!』
ルカは怒りに声を震わせた。
『ハランにとって………〈天の民〉にとって最も神聖なアリアンテを、穢れた〈地の民〉に譲るなど!』
一体、どこまで我らを侮辱すれば気が済むのだ、あの罪人は!?
『では、その〈地の民〉の子供は、かの七賢者なのですか?』
テンペランスは頭を横に振った。
『いいえ。それでは年令が合いません。大地を覆う穢れに寿命を削り取られ、〈地の民〉は百年すら生きられないのですから。七十年を経た現在、七賢者も皆年老い、あるいは最早死に絶えているはず』
では、一体どういう事なのか。
ルカは動揺を抑えきれなかった。
〈地の民〉の手にアリアンテがある。
自分やテンペランスの胸元で輝く水晶と同じ物が。
今、この瞬間も。
そう想像するだけで、あまりのおぞましさに吐き気を覚えた。
もし、その事が〈黄金の鷺〉中に知れ渡ってしまったら………
『兄は………翼の王は、この事を知っているのでしょうか』
『わたくしが知っている事を、シファ王が知らぬはずはないでしょう。軍の士気を慮って口外はしないとは思いますが。………ルカ、あなたもこの件はくれぐれも他言せぬように。いいですね?』
『わかりました』
ルカは固い表情で頷いた。
しかし………
しかし、それでも噂は広まるだろう。
エルレイの時がそうであったように。
悪夢が再び繰り返されようとしている。
何という事だ。
『テンペランス様、そのアリアンテを持つという〈地の民〉の子供、一刻も早く見つけ出した方が良いのではありませんか? 捕らえ、アリアンテを我々の手に取り戻すのです。傷が大きくなる前に。先の大戦の二の舞だけは何としても避けなければ』
『すでに捜させています。ですが、件の者はすでにガラハイドを出て、行方をくらませた後でした』
ルカは唇を噛んだ。
そのアリアンテを持つ〈地の民〉の子供が、キシュベル率いる槍騎兵部隊と空中砦を全滅させた件に何らかの形で関わっている可能性は、十分にある。
『〈天の民〉が捜しに来ると予想していたのでしょうか? だからすぐに姿を消した?』
『そこまで考えての行動だとすれば、相当手強い相手です』
テンペランスの表情も険しい。
『〈地の民〉は髪や瞳、肌の色までも多種多様な雑種の民、金髪碧眼の者も大勢いる。その中に〈天の民〉が紛れても、気付かれる心配はありません。アリアンテがあれば、〈地の民〉が吐く穢れからもある程度身も守れる。ですが、如何せん〈地の民〉の言葉を自在に操れる者が少ない。そのせいで人員が足りず、思うように捜索が出来ないのが実情です。発見には時間がかかるやもしれません』
ルカは身を乗り出した。
『私は〈地の民〉の言葉を操れます。王族は皆覚えるのが習わしですから。私も捜索に加えて下さい。それほど侮れぬ敵であるならば、ますます一刻も早く捕らえねば。捜索の人員は一人でも多い方が………』
テンペランスは軽やかに笑った。
『冗談はおやめなさい。翼の王の弟に、そのような危険な真似をさせられるはずがないでしょう?』
『ですが………』
さらに言い募ろうとするルカを、テンペランスは片手を上げて遮った。
『この話は終わりです、ルカ。わたくしを困らせないで』
『……………はい』
ルカは不承不承に引き下がった。
憂鬱な事ばかりだ。〈地の民〉との戦が始まってからというもの。事態が悪い方向にばかり転がっているように思えてならない。
父上の葬儀以来か。
先ほどのシファの言葉を思い出す。
思えば、父の死後、兄とゆっくり話した事はなかった。もともと、ほとんど顔を合わせる機会もなかったが。
兄が何を考えているのか、直接会ってその真意をきちんと確かめた方がいいのかもしれない。
『………出来れば………直接会ってみたいものです』
独り言のようなテンペランスの呟きに、ルカは物思いから引き戻された。
『会う?』
『エルレイのアリアンテを持つという、その〈地の民〉の子供に』
濃い緑色の双眸に何とも形容しがたい光を湛え、テンペランスは低い声で続けた。
『…………その者が、アリアンテと共にエルレイから何を受け継いだのか………確かめたい』
『そう………ですか』
ルカは暗い面持ちで言った。
会って一体どうなるというのだ?
心の内でそう思いながら。
*
風が冷たくなってきた。
開け放ったままのテラスへと出るドアを閉めようとしたスカワ=オキトワの耳に、男とも女ともつかぬ妙なる歌声が流れてきた。
〈黄金の鷺〉を………この広大で壮麗な唯一無比の空中都市を形作っている天の水晶が崩壊する事がないよう、〈庭園〉のハランたちが奏でる聖なる調べ。
〈黄金の鷺〉を支える歌だ。
『夜の唱和が始まったな』
スカワはドアの縁に片手を添えたまま、青白い月光と共に皓々と降り注ぐ美しく厳かな歌声にしばしの間耳を傾けた。
何度聴いても飽きるという事はない。鳥も獣も月や星々さえも虜にするような、並ぶものなき至上の調べ。長く尾を引く白孔雀の鳴き声がそれに神秘さを添える。
通りを行く恋人と思しき若い男女が立ち止まり、スカワと同じようにじっと聴き入っているのが見えた。
スカワは室内を振り返った。
『まるで心が洗われるようだ。そうは思わぬか? アマルハス』
『それは認める』
アマルハス=アトフは言葉とは裏腹に苦々しい表情でそう答えると、杯に半分ほど残っていた酒を一気にあおった。
スカワは苦笑した。
『お前がハランを嫌う理由はわかるがな。だが、彼らは〈黄金の鷺〉にとって必要不可欠な存在だ。ここには旱も洪水も飢饉もない。畑は豊かに実り、森や草原には鳥獣が溢れ、水は清らかで枯れる事も濁る事もない。それは、全てハランがその歌で天の水晶を制御し、〈黄金の鷺〉を維持しているからだ。それに、彼らが戦列に加わったおかげで、先の大戦の時とは違い、我らにはコンシャナフォアがあるのだからな』
コンシャナフォアとは、今回の〈地の民〉との戦で〈天の民〉軍が本陣としている空中要塞の通称である。「小さな鷺」という意味だ。
「小さな」と名についてはいるが、キシュベルとアンヤが使った空中砦よりもはるかに巨大で、ロイックに賛同した数人のハランによって制御されている。天の水晶で出来た空中要塞を本陣とする事で、〈地の民〉がまき散らす穢れから将兵を守っているのだ。
先の大戦でグロフト王が撤退を余儀なくされた一因は、戦が長期に及んだせいだと言われていた。その時は地上に陣を張っていたのだが、穢れにさらされ続けた将兵が次々と体調を崩していき、士気の低下が止められなかったのだ。天の水晶で造られた鎧だけでは、穢れを完全に防ぐ事は出来なかった。
グロフト王の死も、先の大戦で浴びた穢れのせいで寿命が縮まったのだと囁かれた。彼はまだ二百四十才だったのだ。〈天の民〉の平均寿命より九十年余りも早く死んでしまった。
グロフトと同じように病に罹り、早死にした先の大戦の従軍者がなんと多いことか。
あの戦は、終結後もあらゆる意味で〈黄金の鷺〉に暗い翳を落とし、〈地の民〉がまき散らす穢れの有害さを改めて〈天の民〉に知らしめる結果となった。
しかし、今回は違う。例え戦闘で大地に渦巻く穢れを浴びてしまっても、コンシャナフォアに戻れば天の水晶が身にこびり付いた穢れを浄化してくれる。
そう思うだけで、精神的にもかなり違う。
最前線にいる将兵にとって、コンシャナフォアの存在は大きい。
先の大戦を経験しているアマルハスも、それは認めないわけにはいかなかった。
彼は不機嫌に言った。
『だから、それは認めると言っている』
『だったら人前では慎め。今日の軍議の時のような言動はまずい。他の兵まで将軍たるお前を真似て、前線のハランに対し露骨な態度を取るようになるぞ。ハランたちの士気が下がっては、コンシャナフォアの維持に悪影響が出かねない。シファ陛下もそのような事態は望んでおられぬはず。第一、陛下の弟君もハランなのだ。ハランを蔑むという事は、ルカ様をも侮辱する事になるのだからな』
シファに一喝された時のばつの悪さを思い出したアマルハスは、渋面を作った。
『確かにあれは少々言い過ぎた。以後、気を付ける。お前に説教されるのもうんざりだからな』
『お前が私に説教されるような事ばかりするからだ』
スカワとアマルハスは、士官学校時代からの百二十年来の友人である。アマルハスがキシュベルと同じく先祖代々生粋の軍人の家系であるのに対し、スカワの両親は絹織物の機織り職人だ。
しかし、二人にとっては、友情を育むのに互いの家業の違いなど何の支障にもならなかった。士官学校に入学したその日、式典でたまたま隣り同士の席になり、意気投合して以来の付き合いだ。士官学校では共に学び、競い合い、時には血気盛んな若者らしいバカな事をしでかして、一緒に教官にこっぴどく怒られたりもした。
卒業後も交流は続き、互いの結婚式にも参列した。共に先の大戦にも従軍して華々しい戦功をあげ、今では十六人いる将軍の一人に揃って名を連ねている。
お互い多忙な身だが、今も変わらず仕事の後よくこうしてどちらかの家で酒杯を酌み交わしている。
テーブルには酒の他に、スカワの妻オルガナが用意した食事が並べられていた。薄く切った鹿肉の燻製を挟んだパン。練った小麦粉で包んだ魚の蒸し焼き。薫り高い山羊のチーズ。海老の酢漬け。胡桃を散らしたサラダ。そして数種類の新鮮な果物。
もうすぐ待望の第一子が生まれる身重のオルガナ自身は、もう先に休んでいる。
オキトワ家の子供部屋(になる予定の部屋)は、三つ子か四つ子でも生まれるのかと思うくらいすでに赤ちゃんグッズでいっぱいだ。まだ子供がお腹にいる時分からこの親馬鹿ぶりでは、生まれたら一体どうなる事かとアマルハスは苦笑を禁じ得ない。
そういうアマルハス自身も、息子が生まれた時は友人に負けず劣らず親馬鹿ぶりを大暴走させてスカワを呆れさせたのだが。
アマルハスの息子は父親の期待によく応え、現在士官学校に通っている。あと数年もすれば、父と同じ軍服に袖を通す事になるだろう。
『………それにしても』
室内に戻ったスカワは椅子に腰を下ろすと、苦い吐息と共に言った。
『いつ言い出されるかと内心冷や冷やしていたのだが………ついにシファ陛下は仰られたな』
昼間の軍議で、ロイックからキシュベル率いる槍騎兵部隊が全滅したとの報告を受けた後、シファは自らコンシャナフォアへ出陣すると宣言したのだ。膠着した戦況を打開し、最前線で今も果敢に戦っている将兵の士気を高める為に。
アマルハスの部隊もシファと共に出撃する事が決まった。
アマルハスは不満げに言った。
『何だ、その言い草は。王たる者、戦場においては常に先頭に立つのは当然ではないか。偉大なる初代翼の王ロムルス陛下も、常に第一の剣・第一の翼であられた。よくぞ仰ったと、私は感銘を受けたぞ。さすがはシファ陛下だ』
スカワは苦笑した。いかにも生粋の軍人家系の出らしい発想だ。
だが、アマルハスとは違い、スカワはどうしても考えてしまうのだ。万一……決して口には出せないが……シファが敵の剣に斃れた場合の事を。
シファはまだ王妃を娶っていない。当然、世継ぎたる子供もいない。そうなると、唯一の血縁であるシファの弟ルカが次の翼の王となる。
常に他人を惹きつけずにはいられない強烈な存在感を放つシファに対し、ルカはまるで水面を渡るさざ波のような印象の人物だった。穏やかすぎて影が薄いのだ。はっきり言って、ルカには兄のような統治者にふさわしいカリスマ性がない。単にたまたま王の弟に生まれたというだけだ。
それに、彼が王位に就いては、それこそ〈庭園〉の……テンペランスの意のままなのではないか?
長い〈天の民〉の歴史を見ても明らかなように、傀儡の王など国を乱すだけだ。
そんな翼の王など………
スカワの心中を知ってか知らずか、微かに侮辱めいた色を滲ませた口調でアマルハスが言った。
『しかし、昼間のルカ様の態度を見る限り、あの方は完全にテンペランス様側だな。思った通りと言うべきか』
『ルカ様はハランなのだ。仕方あるまい。シファ陛下は、ルカ様の態度に少々がっかりなさっておられたようだがな』
アマルハスは苦々しげに吐き捨てた。
『ふん。ハランめが』
『アマルハス……またお前は………』
『今、ここには私とお前しかおらぬのだから別に良かろう。それに、お前とてロイックを嫌っておるではないか』
『それは………』
アマルハスは人差し指をスカワの顔面につきつけた。
『違うとは言わさんぞ。お前の態度を見ておればわかる』
スカワは不承不承に認めた。
『…………確かにな』
『そらみろ。お前も他人の事は言えぬではないか』
にやりと笑ったアマルハスは、意地の悪い口調で続けた。
『尤も、あの陰気な男に好感を持つ者など誰もおらぬだろうがな。側におるだけで背筋が寒くなる。死人のごとき顔をしおって』
スカワは溜め息をついた。
『死人などとは言い過ぎだ、アマルハス。私はただ、テンペランス様に公然と背いていながら、平然と〈庭園〉での務めを続けているあの男の厚顔さに呆れているだけだ』
スカワは独り言のように続けた。
『…………あの男………一体何を考えておるのか…………』
*
同じ頃、ロイック=ミュイスは〈庭園〉にそびえ立つ塔のとある一室の扉を叩いていた。
部屋の主は、親しい友を迎えるような穏やかな微笑を浮かべ、彼を手招いた。
『待っていました。………では、王宮内の……シファ王の動向について報告を』
ロイックは深々と頭を下げた。
『はい………テンペランス様』
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
第1巻 約束の予言 で少しだけ登場した翼の王シファを始め、今回は〈天の民〉側のお話でした。
〈天の民〉は〈地の民〉と同様、いろんな考えや思惑、信念を持ち、選択をし、行動しています。決して、邪悪で非道な悪魔のような存在、絶対悪ではありません。
〈天の民〉に気に入ったキャラはおりましたでしょうか?
でしたら嬉しいのですが。
次章は再びカナンたちが登場します。
ではまた。