第十章 決意と選択(1)
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第十章 決意と選択
倒壊したディアドラ系譜図書館の〈前門〉が再び通行可能な状態になるには、最低でも六日かかると発表された。
ディアドラ系譜図書館は、万一王都に変事が発生した際には聖王の避難場所となる役目も持ち合わせている。その為、井戸も複数あり食料も十二分に備蓄されていた。急流で知られるアティスモット川を臨む断崖絶壁の上にあるのもその為だ。まさに難攻不落の要塞の街………三千年前に起こった『エギンテの反乱』の折も、反乱軍によって王都を占拠された聖王は一時期ここを仮の王都とした。たった六日くらい閉じ込められても、中の住人たちには何の影響もない。
それゆえ、パニックが起こる事もなく、不本意ながら予定より長くディアドラ系譜図書館に留まる事になってしまった来訪者たちも、皆〈前門〉の修理が終わるのをおとなしく宿で待った。
焦ったのは、予定通り次の得意先のある街や村へと行けなくなってしまった行商人くらいだろう。
指輪を何個か破損したボルトカ国のナタリア公妃は、不幸な事故で扉が壊れてしまった客室から別の客室へ移った後、まるで存在しないかのようにすっかり鳴りを潜めてしまっていた。それまでは、ホステッド・コスの支配人を何かと呼びつけてはやれ食事が不味いだの自分好みの葡萄酒がないだの飾ってある花の色が気に入らないだのと、あれやこれやと難癖をつけていたというのに。
彼女の騎士たちが全員包帯だらけの痛々しい姿になっているのを見かけたホステッド・コスの従業員たちは、きっとまたナタリ・ピッパが何かやらかして、そして手酷い反撃を食らったに違いないと噂し合った。
そして、〈前門〉の修理が終わり、ナタリアがボルトカ国へ帰国するまでの六日間、どうかこのままおとなしくしていて欲しいものだと心底願った。
特に、これ以上生え際が後退したくないホステッド・コスの支配人は。
*
控えめに扉をノックする音にカナンが「どうぞ」と返事をすると、湯気の立ち昇る皿を乗せた盆を持ってキリが入ってきた。
「起きていらしたのですね。良かった。お加減はいかがですか?」
カナンはにっこり笑って答えた。
「おはようございます。もうだいぶ良くなりました」
実際、昨日よりはるかに調子が良かった。熱を持ってズキズキと疼いていた顔の傷はもう腫れぼったくなく、だるくて起き上がるのにあれほど苦労した体も今朝は驚くほど楽に枕から頭を離す事が出来た。まるで悪いものがいっぺんに体から抜け去ったかのようだ。もうベッドから出ても良いのではないかと思えるほどだった。
しかし、にこやかに答えたカナンに、キリは心配そうに言った。
「回復には波があるんですよ。良くなったり、後戻ったり。朝は体調が良く思えても、夕刻には辛くなったりするのです。だから無理はいけません」
それが病弱な自身の体験から言っている事なのだとすぐに察したカナンは、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。もし、ちょっとでも具合が悪くなったら休みますから。約束します」
キリはベッドの脇のテーブルに持ってきた盆を置いた。
「麦のスープです。食欲があるようなら、召し上がって下さい」
「ありがとうございます。いただきます」
粒の形が残らないくらい煮込まれた麦のスープはとろみがあって温かく、ほんのりローズマリーの香りがした。スープを木のスプーンですくって口に入れると、優しい味がふわりと喉と胃に染み渡った。
「とても美味しいです」
「ラーキンが作ったんですよ、そのスープ。私の体調が悪い時にいつも作ってくれるんです」
「ラーキンさんが?」
いかにも妻思いの彼らしい。
何口か飲んだ後、カナンはスプーンを持つ手を止めた。
「………ラーキンさんから聞きました。お祖母さんの事。あなたにも話したって」
キリは頷いた。
「ええ」
〈前門〉でエイデンに語った時のように、ラーキンは淡々と祖母と実の祖父の事をカナンに打ち明けた。
カナンは驚きのあまり言葉も出なかった。ジーヴァだけでなく、ラーキンもまた自分と同じ七賢者の末裔だったとは。
そして、ラーキンは最後にこう告げたのだ。
「エイデンは無理に来なくても良いと言って下さいましたが、私は彼と一緒に行こうと思います」と。
カナンはベッドの傍らに座るキリの顔を凝視した。
「あなたは………本当にそれでいいんですか? ラーキンさんが旅に出てしまっても」
病弱の身で、この広い家にたった一人になってしまうというのに。
ラーキンがいつ帰って来るのかもわからないのに。
予言だから仕方ないと。
それで納得出来るというのか?
キリは穏やかに微笑んだ。
「私が言ったのです。ラーキンに。一緒に行った方がいい。行くべきだ、と」
カナンは目をみひらいた。
「どうして………」
「予言があるからという事ではないのです。予言とは単なる道標、従う事も逆らう事も無視する事も、本人の自由なのですから」
だが、実際には、〈地の民〉にとって予言というものの存在は大きい。聞いてしまったが最後、多かれ少なかれ影響を受ける。
六千年前、大予言者カラグロワが予言によってアザミ咲く野で〈双子王〉を見出したその時から。
「でも、彼のお祖母様から貰った予言を無視し、あなた方と出会った事もなかった事にして今まで通りの暮らしを続けても、それはずっとラーキンの心のどこかに引っ掛かったまま残り続けるでしょう。滓のように。ずっと消えない傷のように。一生、心の片隅に抱えたまま生きていかなければならなくなる。そういうものは、忘れようとしても………忘れ去ったつもりでいても、決して消える事はありません。冷たく、重く、少しずつ心を蝕んでいくのです」
明かりも灯していない真っ暗な部屋で、ラーキンは祖父母の肖像画をじっと見つめている事がよくあった。
声をかけるのが憚られるような表情で。
一体、何が彼の心を捕らえているのか。
一体、何を彼は心に秘めているのか。
カナンたちを連れて帰宅した時のラーキンの表情はどこか固く、キリは祖父母の肖像画をじっと見つめていた時の彼を思い出した。
予感めいたものがあった。
「キリ、大事な話がある」
冷えた朝霧の中、カナンたちを見送った後そう切り出したラーキンに、キリはやっと彼が打ち明けてくれるのだと悟った。
いつも祖父母の肖像画を見つめていた理由を。
彼の秘密を。
だが、ラーキンが語った話はキリの想像をはるかに超えていた。
「もしかしたら、ずっとこのまま何もないのではないかと思っていたと、ラーキンはそう言いました。けれど、心のどこかでそうではないと………いつかこの日が来ると、彼はわかっていたはずです。ベールで顔を隠し、家から一歩も外に出ず、生涯ひっそりと身を潜めて暮らしても、彼の祖母があの聖女ロザリンドであるという事実は変わらないように」
静かに語るキリの言葉は、まるでカナン自身に向けられているかのようだった。
祖父ワクトーから何ひとつ知らされないままシエル村で暮らしていたとしても、カナンが七賢者の末裔であるという事実は変わらないのだ、と。
「だったら………いっその事予言の結末を見極めて、心に区切りをつけた方がいいと思うのです。そうでなければ、本当の意味で前へ進む事は出来ないと、私はそう思うのです。後悔するかもしれないし、しないかもしれない。でも、立ち止まったままでは答えは永遠にわかりません。終着の地がどんなところなのか、進む前から思い悩んでも仕方がない事でしょう?」
キリはカナンを安心させるように微笑んだ。
「私は大丈夫です。近くに実家もありますし、司書をしている上の姉も〈前庭〉に住んでいます。何か困った事が起きても、両親や姉が助けてくれます」
キリは扉の方を見やった。
「今、ラーキンは父の所へ行っています。自分の出自も、祖母から貰った予言の事も、何もかも全て話しているはずです」
再び扉がノックされた。
入って来たのはエイデンだった。
ベッドから起き上がりスープを飲んでいるカナンの姿に、エイデンはほっと安堵したように表情を和らげた。
「だいぶ良いようだな。安心した」
キリが立ち上がった。
「いろいろお話がありますでしょう? 私は席を外します」
「すまない」
キリが部屋を出た後、エイデンは先ほどまで彼女が座っていた椅子に腰を下ろした。
鎧戸を開け放った窓から、まだ霧の気配が残る柔らかな風と朝の賛歌を歌う小鳥のさえずりが聞こえてくる。差し込む朝陽からは外れた位置に座る黒衣の男の姿は、そこだけまだ夜が留まっているかのよう。
安堵と心配がないまぜになった口調で、エイデンは気遣うように言った。
「良くなってきてはいるようだが、無理はしない方がいい」
カナンは口の端に笑みを刻んだ。
「うん。わかってる。さっきキリさんにもそう言われたし」
エイデンは優しい。
極端に口数は少ないし、言葉も口調も端的過ぎて素っ気ないけれど、時折見せるちょっとした表情や言葉の端々に彼の気遣いを感じる。
ラーキンに一緒に来なくて良いと告げたのも、きっと体の弱いキリを思いやったからだ。
カナンがスープを飲み終えるまで待つつもりなのか、エイデンは静かに座っていた。身動ぎひとつせず無言で座る姿は、等身大の黒曜石の彫像のよう。白い端正な顔を飾る黄金の額飾りが密やかな光を放っている。
半分ほどスープを飲み終えた頃、カナンはふとスプーンを置いた。
エイデンに言おうか言うまいか、ずっと迷っていた事があった。
でも、多分言った方がいい。この前見た単なる夢とは違うのだから。
実際にカナンの前に現れたのだから。
「エイデン、あのさ………」
カナンはきゅっと唇を噛むと、意を決したように顔を上げた。
「アニガン卿に会った」
「!」
「アニガン」の名が出た途端、エイデンの表情が険しくなった。
「いつ? どこで?」
「エイデンと別れて、もう一度ベヴさんの薬屋へ行った時。店の前で」
アニガンが偶然ディアドラ系譜図書館に………ベヴの薬屋の近くにいたとは、到底思えない。
もしかして、彼はずっとカナンたちの後を尾けていたのだろうか?
カナンが一人になるのを待っていたのだろうか?
そう考えると空恐ろしい気がした。
何故、アニガンはカナンに執着するのだろう?
カナンに聞かせたかったのだろうか? 自分の身に起きた悲惨な出来事を。
何故、自分が穢れをまとい永遠に彷徨う者となったのかを。
生きたまま焼かれたあの若き准貴族の魂を染めているのは、憎悪と悪意という名の穢れ。
「アニガンは君に何を言った?」
「彼と、彼の家族がどんな目に遭ったのか聞いた」
エイデンは微かに目をみひらいた。
「………そうか」
「ひどい話だよね」
「そうだな」
カナンはぎゅっと手を握り締めた。
「でも、フェデヴァン公は罰せられない。あんなひどい事をしても。領主だから。アニガン卿が言ってた。それが正貴族だって」
だから世界は穢れに満ちているのだ、と。
ナタリア公妃やボルトカ国の騎士たちだってそうだ。カナンを攫って、痛めつけて、ひとかけらの罪悪感も抱いていない。きっと、彼らにとってはカナンは自分たちと同じ人間ですらないのだろう。もしかしたら家畜以下だと思っているのかもしれない。
もし、あのままエイデンたちに助け出されず、最悪ボルトカ国へ連れ去られていたら………そう想像するだけで背筋が凍る。
プレストウィック国で、そしてガラハイド国で〈天の民〉との戦に巻き込まれた時と同じくらい………いや、それ以上に恐ろしい。
「正貴族にも様々な者がいる」
攫われた時の事を思い出し、耐えるように俯くカナンに、エイデンは言った。
「フェデヴァン公やナタリア公妃のように冷酷な者もいれば、クレメンツ公のような誠実な者もいる。平民も同じだ。プレストウィックで君を役人に売ったハネストウのような卑怯者もいれば、君が攫われたと我々に知らせてくれたベヴのような善人もいる。良い人間も悪い人間もいるのだ。貴賤は関係ない。個々人の人格の問題だ。確かに、今はフェデヴァン公を罰する事は出来ぬが、いつか必ず彼は自らの行いの罰を受けるだろう。彼自身の非道に罰せられるのだ。それに………」
エイデンは、そっと労わるようにカナンの髪に触れた。
「ナタリア公妃に関しては、もう私が罰した。二度と君に手出しはしないだろう」
カナンはくすっと笑った。
「それはラーキンさんやジーヴァから聞いた。二人とも言ってたよ、思わず彼らに同情したくなったって」
「死んだ者はいない」
「それって返って怖いんだけど」
「アニガンは他にどんな事を話したのだ?」
カナンは「うーん」と思い出すように包帯を巻いた頭を傾けた。傾けると、下になった方の顔の部分に鈍痛が集まってくる。昨日に比べると格段に良くなってはいるが、まだ全快には程遠い。
「他には別に何も。すぐにボルトカ国の騎士たちが現われたから」
「そうか」
エイデンは厳しい表情で言った。
「あの男には近づかぬ方がいい。何かよからぬ事を企んでいる。危険だ」
「うん。わかってる」
エイデンに言われるまでもなかった。穢れをまとい彷徨う死者になど、これ以上関わりたくはない。
アニガンと彼の家族の身に起きた悲劇には深く同情するけれど。
「………そうだ!」
急に思い出したカナンは、思わず声を上げた。
「ジーヴァに聞いた。〈前門〉が壊れた時、腕に怪我をしたんでしょ?」
「大した事はない」
カナンはスープ皿とスプーンをテーブルに置いた。
「ちゃんと手当てしなきゃダメだよ。傷が化膿したりしたらどうするの。腕を失くしたり、最悪死ぬ事だってあるんだから」
シエル村にいた時も、「大した傷ではないから」と怪我を放置した村人が、後日容態が急変してワクトーの所へ担ぎ込まれた時にはもう手遅れだった、という事が何度かあった。
怪我をした直後にきちんと手当てしていれば助かったというのに。
「見せて。手当てするから」
「必要ない」
カナンはベッドから身を乗り出すと、エイデンの腕に手を伸ばした。
「いいから。ほら」
「よせ!!」
思いもよらぬほど強い口調だった。
カナンの手が宙で凍りつく。
すぐに、エイデンは「しまった」というふうな顔をした。
「……………すまない。言葉が過ぎた。手当てはもう済んでいるのだ」
カナンはしゃがれた声を絞り出した。
「そうなんだ………じゃあ大丈夫だね。僕の方こそ強引にごめん」
「君が謝る必要はない」
室内に気まずい沈黙が流れた。まるで薄い氷の上に立っているようだった。少しでも足を踏み出せば、粉々に砕けてしまう。
二人の距離感そのもののように。
カナンは、エイデンに拒絶され行き場を失ってしまった手をきゅっと握ると、静かに引っ込めた。
それから、彼はテーブルに置いていたスープの皿とスプーンを取り、ただ黙って再び食事を続けた。エイデンが部屋を訪れる前よりも、スープに入れられたローズマリーの苦みが舌に絡みついた。
皿の中身がほとんど空になった頃、再びエイデンが口を開いた。
「〈前門〉の修理が終了したら、私は王都へ向かう。レディ・マリエルとサザーも一緒だ」
「ラーキンさんも、でしょ?」
「そうだ。………君はどうする?」
「!」
空になったスープ皿とスプーンをテーブルに戻しかけていたカナンの手が、ピタリと止まった。
この人は、どうしてこういつも大事な質問をまるで何でもない事のようにさらっと尋ねて来るのだろう? ガラハイド国で、領主館の張り出し屋根の上で「もうガラハイド国を出るか?」とカナンに問うた時のように。
カナンは白い仮面のように表情の乏しい黒衣の男の顔を凝視した。
「エイデンは、僕にどうして欲しい?」
「私がどうして欲しいかは関係ない。君がどうしたいかだ」
そう言うと思った。
カナンは内心で溜め息をついた。
一見、カナンの意思を尊重しているように思えるが、ある意味とてもずるい。エイデンが本心ではどうして欲しがっているのか、カナンにはよくわかっているのだから。
いっその事、「一緒に来て欲しい」と言われた方がどれほど楽か。
でも、それもまたずるい考えだ。
カナンは服の上からアリアンテを握り締めた。そうするのが癖になってしまっていた。
「……………少し、考えさせてくれる?」
「わかった」
エイデンは立ち上がった。
「また来る。答えは急がない。ゆっくり考えるといい」
きっと、エイデンには決して他者に越えられたくない「境界」があるのだ。
部屋を出ていくエイデンの後姿を見送りながら、カナンはそう思った。
先ほどの強い拒絶は、カナンが彼の境界を超えそうになったからに違いない。
果たして、その境界を越えられる日は………超えさせてもらえる日は、来るのだろうか?
*
カナンの部屋から出て来たエイデンを、階下へと降りる階段の側でキリが待っていた。体の前で重ねた手を、指の関節が白くなるほど強く固く握り締めて。
身の内側から溢れ出る感情を懸命に抑え込むように、彼女は震える一歩手前のような声で言葉を絞り出した。
「私は………貴方が現われなければ良かったと思っています」
立ち尽くすキリに、エイデンは静かに言った。
「…………すまない」
キリは固く唇を引き結ぶと、闇が人の姿を取ったかのような黒衣の男に向かって深々と頭を下げた。
「どうか、夫をよろしくお願いします」
最後までお読み下さいまして、ありがとうございました。
ナタリア公妃みたいな客、迷惑ですねぇ。ざまあ見ろです(笑)
次回第十章(2)のあと、この第2巻「七賢者の末裔」は終章となる予定です。
頑張ります。
ではまた。




