第一章 記憶の都
石の剣の王2 七賢者の末裔 の序章、第一章をお届けします。
舞台はガラハイド国からディアドラ系譜図書館へと移ります。
カナン以外の新たな七賢者の末裔が登場します。
この作品は、石の剣の王シリーズの第2巻となっておりますので、もし第1巻の 石の剣の王1 約束の予言が未読でいらっしゃいましたら、そちらを先にお読み下さいますようお願いします(でないとちょっと訳が分からないと思いますので。すみません)。
石の剣の王2 七賢者の末裔
水崎 芳
獣の王は問うた。
もし、森で毒蛇に出くわしたらどうするか?
狼は答えた。
私なら、この鋭い牙で蛇の背骨を噛み砕く。
馬は答えた。
私なら、この硬い蹄で蛇の頭を踏み潰す。
ウサギは答えた。
私なら、誰よりも早いこの足であっという間に逃げおおせる。
獣の王は言った。
どれも良い答えである、と。
ところが………
一度目、二度目は成功したが、
三度目に狼は蛇が吐いた毒が目に当たって失明してしまった。
一度目、二度目は成功したが、
三度目に馬はくるぶしを噛まれて死んでしまった。
一度目、二度目は成功したが、
三度目にウサギはついに追いつかれ食われてしまった。
どれほど最良の答えでも、
常に正しいとは限らない。
序 章
「………あら………来てくれたのね………」
一体いつからそうしていたのか、まるで影のように部屋の片隅に佇む男に気付いた彼女は、うっすらと微笑みかけた。
長く病の床にあるせいでそのやつれた顔からは血の気が失せ、目尻や口元や首筋には降り積もった年月が深い皺を刻んでいる。かつては子鹿の毛皮のように輝いていた栗色の髪も今ではすっかり白くなり、毛布の縁に添えた手も触れただけでポキンと折れてしまいそうなほどか細く弱々しい。
だが、その瞳だけは、昔と変わらず優しく美しかった。
声も変わらず美しいと、男は思った。
「もう二度と会えないのではないかと思っていたわ」
「友の臨終を看取るのは私の義務だ」
男の声は地を這う霧のように彼女のもとに届いた。
彼女は苦笑した。
「相変わらず義理堅いのね。昔と全然変わらない………もっと近くへ来てくれない? あなたの顔をよく見たいわ」
間近に歩み寄っても男の姿は闇に沈んだままだった。黒い衣装と黒い髪のせいだ。額につけた黄金の額飾りだけが微かな光を放っている。
彼女は、いく筋かほつれた髪が散る頬に憐憫の情を浮かべた。
「可哀想な人。一体、あなたは今まで何人の友人を見送ったの? 永遠に去りゆくのを、ただじっと………まるで罰のように」
「それだけの事を、私はしてきた」
「ええ。そうね」
穏やかだが容赦のない言葉に、男は痛みを覚えたように束の間彼女から視線をそらした。
彼女は、革手袋をはめた男の手にそっと触れた。
「大丈夫。それでも、あなたは私の友人よ。あなたの罪深さを知っても、尚。何故って、あの時のあなたの判断は正しかったのだから。………そう、あなたは常に正しかった」
遠い昔に思いを馳せるかのように、彼女は吐息をひとつ漏らすと、しばしの間目を閉じた。
雲が早く流れているのか、閉じた鎧戸の隙間から差し込む月光が風になびくカーテンのように明るくなったり暗くなったりしている。それがなければ、あまりの静寂に時間が止まってしまったのかと錯覚してしまいそうだ。
しばらくして、彼女は再び目を開いた。
その瞳には、先ほどまでとは異なる強い光が宿っていた。
「あなたに伝えなければならない事があるの。視えたのよ。間に合って良かったわ」
男が息を飲む気配がした。
「いつか、あなたの望みを叶える予言を語る者が現われるでしょう。ずっとあなたが果たしたいと願ってきた、友との約束を叶えるための予言………『約束の予言』を語る者が」
「…………それは………君ではないのか?」
聞き返した男の声は、覆いがたい失望に掠れていた。
「私は………ずっと君だと思っていた」
彼女は枕の上でやんわりと頭を横に振った。
「いいえ。期待に応えられなくて残念だけれど、私ではないわ。それは私の役目ではない。人には………」
「………人にはそれぞれ果たすべき役目がある」
低く呟いた男に、彼女は頷いた。
「ええ。そうよ」
「その『約束の予言』を語る者は、いつ私の前に現れるのだ?」
「大丈夫。あなたにとっては瞬きのようにすぐ先よ。そして、全てが一気に動き出すでしょう。それまで滞っていたのが嘘のように。あなたは再び試練に立たされる。あの時と同じように、選択を迫られる。その奔流に流されてしまわないよう、どうか気を付けて」
「……………わかった」
男は、彼女の言葉のひとつひとつを噛みしめるように深く頷いた。
「その時が来るのを待とう。………ありがとう、ローザ」
彼女の青ざめた頬に一瞬だけ赤みが戻った。
「その名で呼ばれるのは久し振りだわ。夫は私と二人きりの時ですら、決して私をその名で呼ぼうとはしなかった。彼は用心深かったから」
「君の夫は、君を護る事に全身全霊を傾けていた」
「ええ………おかげで、私は残りの人生を心穏やかに過ごす事が出来た。それ以前のあの激動の時代が嘘のように」
彼女は深く長く震えるような息を吐いた。
「…………そう………今となっては………全て夢のよう…………」
男の手に触れていた彼女の手が、パタリと力なく毛布の上に落ちた。
男は身じろぎひとつせず、ベッドの傍らに立ち尽くしていた。
いつまでも。
いつまでも。
第一章 記憶の都
*
黒い剣を操る者が
お前の運命を連れて来る
*
長い長い混乱と暗黒の時代に終止符を打ち、〈地の民〉に平安と秩序をもたらした初代聖王は、双子の王だった。
大予言者カラグロワによって見出された偉大なる〈双子王〉……兄ディアティス王とその妹ディアドラ女王である。
ディアドラは生まれつき盲目であったが、その代わりに一度耳にした事は決して忘れないという、神がかり的な記憶力の持ち主だった。彼女は自分たち兄妹に仕える四十四名の騎士……後の正貴族四十四家……の氏名や出生地はもちろんの事、彼らの配偶者や子供、孫、親類縁者に至るまで、全て諳んじる事が出来たという。
ゆえに、邪な企みによって彼らの名を騙る者は、悉くディアドラによって断罪された。
しかし、自分が死した後の事を案じたディアドラは、悪意ある者が聖王や貴族の血統を偽り、悪用出来ぬよう、自らの記憶の全てを系譜書として後世に残す事にした。
こうして、聖王の血脈を始めとして、全ての貴族……正貴族・准貴族の膨大な家系図を保管・記録する為だけに、それ自体でひとつの街を形成するほどの広大な建物群が誕生したのである。
現在、創設者の名を冠するこのディアドラ系譜図書館には二千名を超える「司書」と呼ばれる者たちが働いており、六千年の長きにわたって貴族の家系図を管理し、保管し、更新し、偉大なる初代聖王にして〈双子王〉ディアドラの遺志を継いでいる。
*
カナン=カナカレデス、エイデン=イグリット、レディ・マリエル=サンデバルト、そしてスヴェア=サザーの四人がこの壮大な記憶の都に辿り着いたのは、彼らがガラハイド国を出立して二十二日目の午後の事だった。
*
カナンたちが通された来訪者用の部屋に入って来た時、その若い司書は一瞬だけ奇妙な表情をした。
ずいぶんと風変わりな取り合わせだと思ったのかもしれない。
領主の署名入りの委任状を携えた勅使と、その護衛の騎士という組み合わせであれば、別に珍しくもなんともない。その勅使が、誰もが思わず振り返るほどの絶世の美女であるという事を脇に置いたとしても。
だが後の二人は………
汗ばむほどの陽気だというのに革手袋までしている全身黒づくめの男と、それなりに目を引く容姿ではあるがどう見ても貴族とは思えぬ質素な身なりの少年。
エイデンは壁際に佇んだまま、まるで芯まで冷たい石の彫像のように身じろぎひとつしない。
対して、カナンの方は、自分でも場違いだと感じているのか居心地悪そうにもじもじしている。
一体どういう一行なのだろうかと、誰しもが首をひねる事だろう。
しかし、若い司書はすぐに気を取り直したように、この一風変わった取り合わせの来訪者たちに穏やかな笑みを向けた。
「大変お待たせ致しました。一級司書のアクトールと申します。私が御用命を伺います」
ラーキン=アクトールはいかにも学者然とした、品の良い青年だった。司書の証である白と紺のローブをまとい、髪の色と同じ栗色の瞳には高い知性と豊かな教養が溢れている。年令はエイデンより少し若いくらい。柔らかい物腰が、どこなくガラハイド国の若き領主クレメンツを思い起こさせる。
丁寧に頭を下げたラーキンに、マリエルは優雅に腰を屈めつつ極上の微笑を返した。
「わたくしはガラハイド国領主クレメンツ=ハーディ公の勅使レディ・マリエル=サンデバルトと申します。よろしくお願い致します、司書殿」
そのあまりにも艶やかな微笑に、ラーキンは思わず息を飲んだ。
地味な色合いの旅装束も、この予言者の美貌を一片たりとも損なう事はない。透けるような白磁の肌や、鈴の音のごとき声を紡ぎだす唇。さり気ない仕草で動かされる白い指。背を流れる黄金色の髪のひと筋ひと筋までもが燦然と輝き、身の内より溢れ出る気品が昇ったばかりの朝陽のように彼女を華やかに彩っている。「貴婦人」という称号は彼女の為にあるかのよう。
「…………失礼致しました」
あまり凝視しては無礼になると気付いたラーキンは、喉に引っかかった言葉を咳払いして押し出した。
「では、その………早速ご用件を伺います」
マリエルは頷いた。
「過日、わたくしは主君クレメンツ公のお妃に関する予言を視ました。公のお妃は、紋章にツタイチジクの意匠を使う准貴族の血筋の者である、と。ですが、数ある准貴族の中で、どの家がその意匠を紋章に使っているのか見当もつきません。そこで、クレメンツ公は、ここならばわかるはずだと、わたくしを遣わされたのです」
正貴族も准貴族も、全ての貴族は紋章を持っている。貴族にとって紋章はもうひとつの家名のようなものだ。
そして同時に、正貴族の紋章は、その正貴族が領主として統治する国の紋章でもある。
紋章は、正貴族は三種類、准貴族は二種類の意匠を使う事が定められており、使われている意匠の数を見れば、おのずとどちらであるかがわかるようになっている。
例えば、正貴族であるクレメンツの紋章はトネリコと乙女と猟犬、准貴族である騎士団長ジルダスの紋章は盾とトケイソウ、というふうに。
ラーキンは、考え込むように曲げた人差し指を顎に当てた。
「ツタイチジク、ですか………」
クレメンツの公妃に関する予言云々というのは、むろんでたらめだ。真の目的は、七賢者の一人であるナセル=フレイズ=ホーデンクノス卿の子孫を探す事。ツタイチジクはホーデンクノス家の紋章に使われているのだ。
再び〈天の民〉との戦が始まった今の状況で、しかも先般その〈天の民〉の空中砦を見事撃破した国が今度は七賢者の末裔を探していると知られては、いらぬ憶測を呼ぶ恐れがある。
正確には、探しているのはエイデン個人であってガラハイド国ではないのだが、他国にそのような事情がわかるはずもない。例えそう説明しても、勘繰るだけでおそらく信じはしないだろう。
そこで、真の目的を隠す為に、表向きの理由をでっち上げる事にしたのだ。
ガラハイド国攻防戦での勝利の後、次々と来訪する……表向きは……ガラハイド国の勝利を祝う周辺諸国からの使者たちの、手を変え品を変え探りを入れてくる様をクレメンツの傍らで見ていたマリエルの発案だった。
エイデンはあまり乗り気ではないようだったが、そもそも貴族ではない者、貴族の勅使ではない者は、系譜図書館への立ち入りを許されない。それに、聖王の居城たる王都の水晶王宮の次に厳重な警備で知られる系譜図書館に忍び込むなど、到底不可能だ。
クレメンツの「勅使」であるマリエルに、エイデンは従うしかなかった。
渋々といった体だったが。
先の大戦より四十余年後、ホーデンクノス家は傲慢が過ぎて主君であるボルトカ国領主の怒りを買い、滅ぼされてしまったが、「二才に満たぬ者はいかなる罪にも問われる事はない」という聖王法典に基づき、二才未満の者は生き永らえているはずだった。どこかへ養子に出されたとしても……おそらくそうだろうが……ここディアドラ系譜図書館ならば必ず記録が残っているはずだ。
それにしても………
よくもまぁ、あんなふうにスラスラと口からでまかせを言えるよなぁ。
顔色ひとつ変えず嘘八百を並べ立てるマリエルに、カナンは内心感心していた。
しかし、それに対するラーキンの返答に、カナンはもっと驚いた。
「紋章にツタイチジクの意匠を用いている准貴族は七家あります。うち三家はボルトカ国、残る四家はネイスアーデン国、ガベナール国、アイネスバロウ国、そしてカルデナン国にそれぞれ一家ずつです」
マリエルがツタイチジクの意匠の紋章を持つ准貴族を探しに来たと、ラーキンは前もって知っていたわけではない。たった今、初めて聞いたのだ。
それなのに………
「どの貴族がどんな紋章を使っているのか、あなたは全部覚えているんですか?」
思わず尋ねたカナンに、ラーキンは至極当然というふうにあっさりと頷いた。
「はい。それが司書の仕事ですので」
それから、マリエルに視線を戻して、
「七家の系図を全てご覧になるのは時間がかかります。他に何か手掛かりはございませんか?」
「他に、ですか………」
マリエルは思案するように眉をひそめた。
名演技だ。
「そうですわね………その七家の紋章を見れば、また何か啓示があるやしれません」
ラーキンは頷いた。
「わかりました。では〈紋章の間〉へご案内しましょう。こちらです」
ラーキンに先導され部屋を出たカナンたちは、突き当りが見えないほど真っ直ぐに続く長い廊下を進んだ。
くすんだ色の石壁の廊下は古い建物独特の重苦しい空気に満ちていて、平坦な廊下を歩いているはずなのに深く暗い水底へ沈んでいくような錯覚を覚えた。空気は乾いているのに、何となくかび臭い。上部が半円形の細長い窓から、西に傾き始めたオレンジ色の日差しが斜めに差し込んでいる。日が落ちると灯されるのだろう、窓とは反対側の壁には、頭に蝋燭を頂いた真鍮製の猫の像が一定間隔で並んでいた。両眼に嵌め込まれた琥珀が冷やかな光を放っている。まるでじいっと見つめられているようで、落ち着かない。
どれくらい歩いただろうか、ようやく辿り着いた両開きの扉の前でラーキンは止まった。
「ここが〈紋章の間〉です」
複雑に枝を絡ませた大樹が彫刻された重厚な樫材の扉の両脇には、胸に太陽の意匠の刺繍を施した純白の制服姿の二人の警備の騎士が厳めしい表情で立っていた。
右脇に小部屋のような空間があり、ラーキンと同じ司書のローブを着た初老の男が、古めかしい石の机の前に座っていた。高すぎる鼻がやけに目立つ、骸骨のように痩せた男だ。癖なのか、それとも古傷か何かのせいなのか、右肩が不自然に上がっている。
初老の男は一礼すると、関節の目立つ指で机の上に開いて置かれた分厚い記帳簿を示した。
「恐れ入りますが、〈紋章の間〉にご入室される御方は、これにお名前とお国を記帳して頂く決まりになっております」
「これに、ですか?」
戸惑うマリエルに、ラーキンがすまなそうに説明した。
「申し訳ありません。保安の為、いつどなたがお見えになられたのか記録しておく決まりになっているのです」
マリエルは苦笑した。
「ずいぶんと物々しいですわね」
「正貴族、准貴族の完全な系図を記録・保管している唯一の場所ですので、万一の事があっては一大事です。どうかご容赦下さい」
「もちろんですわ。全員の名前を書くのですか? 護衛の騎士や、従者の名も?」
「いえ。貴女だけで結構です」
「従者」という表現にカナンはいささか抵抗を覚えたが、賢明にも黙っていた。
エイデンも異論があるのでは? と、そっと彼を見やったが、黄金の額飾りをつけた白く端正な顔はいつもと同じく無表情だった。
ガラハイド国を出立してから二十二日、カナンはこの黒衣の男が愉快げに笑い声を上げたり、怒って声を荒げたりするところを一度も見た事がなかった。腰に佩いた黒い水晶の長剣のように常に冷やかで、静かで、それでいて時折物事の本質をつくかのごとき鋭い言葉を放つ。
何と言うか………エイデンには相手を緊張させる独特の雰囲気があるのだ。
頼りにはなるが、スヴェアと話す方がカナンはずっと気が楽だった。
マリエルが自分の姓名と国名を書いた横に、ご丁寧にラーキンが自分の名前を記入した後、ようやく〈紋章の間〉の扉が開かれた。
中は眩い光に満ちていた。
カナンは思わず感嘆の呟きを漏らした。
「………すごい」
室内は円筒形で、恐ろしく天井が高い吹き抜け構造だった。
カナンたちが入って来た入口の他に、正面と左右にひとつずつ、計三つの扉がある。部屋の中央に、横長い扇形をした大きな石のテーブル。その横には、テーブルなのか長椅子なのかよくわからない中途半端な高さの石台が据えてある。調度はそれだけだ。壁は書棚で埋め尽くされており、ところどころ階段でつながった通路が張り巡らされている。
………いや、違う。
よく見ると、書棚に並んでいるのは本ではなかった。本にしては色もサイズも厚さも同一すぎる。背表紙には、タイトルも著者名も何ひとつ書かれていない。
整然と並んでいたのは、石版だった。
しかし、それよりもカナンが驚いたのは天井だった。
緩やかなカーブを描くドーム型の天井一面に、様々な色硝子を組み合わせて絵が描かれていたのだ。
中央に黄金色の太陽が輝き、その周囲は細かい文様が刻み込まれた金属の枠によって五つに区切られていて、それぞれ別の物語が表現されている。
「初代聖王陛下であらせられる〈双子王〉ディアティス陛下とディアドラ陛下が、大予言者カラグロワの予言によって集った四十四人の騎士を率いて〈地の民〉を統べる礎を築かれるまでを、五つの場面で表わした硝子絵です。ここは、系譜図書館で最も古い場所なのです」
ラーキンの説明を背で聞きながら、カナンはただただ言葉を失い、天井を仰ぎ見ていた。
夕刻とは思えぬほど眩く差し込む光が、硝子絵の色彩を六角形の石を敷いた象牙色の床にくっきりと映し出している。床だけでなく、その上に立つカナンの髪や肌や服にも。まるで、いにしえの歴史が色鮮やかな光の欠片となって、カナンの身体に降り注いでいるかのようだ。
なんて幻想的な光景だろう。
自分がどこにいるのかさえ忘れてしまいそうになる。
〈双子王〉の息遣いまでもが聞こえてくるかのようだ。
記憶の都。
カナンは、ここが何故そう呼ばれるのかわかった気がした。
「こちらへ」
ラーキンは、横長い扇形のテーブルへとカナンたちを手招いた。
天井の硝子絵の太陽の真下に位置する巨大な扇形のテーブルは、正面に立つと三方をぐるりと取り囲まれているような圧迫感があった。表面は四角いカードを並べたように区切られており、そのひとつひとつに動植物や武器などが彫られている。
「これは、意匠をもとに紋章や家系図を探し出す為の装置です。刻まれているのは紋章の意匠です」
「つまり、意匠の見本というわけですわね?」
「そうです。全種類が刻まれています」
一番上の列の中央に、一か所だけ三つの意匠がまとめて彫られたやや大きな区切りがあった。
〈地の民〉ならば誰もが知っているその紋章を示して、ラーキンは言った。
「これは聖王陛下……シーグリエン家の紋章です。太陽と水晶の塔とアザミ。この三つの意匠だけは、例え正貴族であろうと紋章に使う事は許されていません。大予言者カラグロワが、アザミの咲き乱れる水晶の塔のたもとで、赤子だったディアティス陛下とディアドラ陛下に出会ったという創世記に基づいています」
カナンはもう一度天井の硝子絵を仰ぎ見た。
五つの絵のひとつに、たった今ラーキンが語った通りの場面が描かれていた。
鮮やかな赤紫の花々に囲まれて眠る双子の赤ん坊。その前に立つ、杖を持ちフードの付いたローブをまとった男。杖には青々とした葉が生い茂る枝が一本だけ生えており、その向こうに空を貫く水晶の塔が見える。
マリエルは、聖王家の紋章の真下に彫られた、ひと枝だけ葉が茂る杖の意匠を指差した。
「これはカラグロワの紋章の意匠ですわね」
カラグロワ家の紋章は、樫の杖とフクロウと月だ。予言者が……マリエルもだが……フクロウの護符を身に付けるのも、この希代の大予言者の紋章が由来である。
同じ理由で、予言者はよく自宅の庭に樫の木を植えている。
ラーキンは頷いた。
「そうです。カラグロワは正貴族の筆頭でしたが、生涯独身を貫いたので、彼の代でカラグロワ家の紋章を使う者はいなくなりました」
「それじゃあ、正貴族は今、四十三家しかないんですか?」
何気なく発したカナンの問いに、ラーキンが変な顔をした。
マリエルとスヴェアも、困惑したように互いの顔を見合わせている。
カナンは内心「しまった」と思った。また奇妙な事を言ってしまったらしい。外界とは隔絶された山奥の寒村で生まれ育ったせいか、自分では全くそんなつもりはないのに、時々突拍子もない事を口走ってしまう。
そして、その度に、今の彼らのような目で見られる。
それまでひと言も発せず沈黙を保っていたエイデンが、そこで初めて口を開いた。
「三千年ほど前、一部の正貴族が聖王に反旗を翻した。〈地の民〉六千年の歴史の中でも一、二を争う大規模な内乱で、二十年以上に及んだ。最後の戦いが行われた地名を冠して『エギンテの反乱』と呼ばれている。結局は鎮圧され、反乱を起こした六家が滅亡した。ゆえに、現存する正貴族は三十七家だ」
「そうなんだ………」
低く呟くカナンの横顔を、ラーキンが不審そうな表情で見つめている。
「それで、この装置はどのように使うのですか?」
マリエルの問いに、ラーキンは我に返ったようにカナンからマリエルに目線を移した。
「実際に使ってご覧にいれましょう。お探しの紋章はツタイチジクでしたね?」
数ある意匠の中から、てっぺんに人の掌に似た葉が茂る、三本の細い幹が互いに絡み合った植物の意匠を探し出す。
これがツタイチジクだ。
別名「絞め殺しの木」と呼ばれ、他の木に絡みついて成長する。絡みつかれた木は太陽の光を浴びる事が出来ず、やがて枯れてしまう。
強烈な甘い香りを放つ果実は熊の好物である為、山村では集落の近くにこの木を見つけた時は必ず切り倒す。でないと、果実の匂いに誘われてやって来た熊に村人や家畜が襲われてしまうからだ。
反対に、猟師は熊を狩る時、この木の近くで獲物を待ち伏せる。
ラーキンは、ツタイチジクの意匠をぐっと力をこめて押した。
すると、ガクンッと意匠が引っ込んだ。
続いて、ガラガラと馬車の車輪が回るような音が室内に響き渡る。
「何が………」
周囲を見回したカナンたちの目前で、壁一面を覆う書棚から複数の石版が十㎝ほど飛び出した。
飛び出した石版は八枚あった。
「このテーブルの意匠を押すと、それを使っている紋章の貴族の名がわかるようになっているのです。紋章の一部しかわからない時に利用します」
まるで講義をする教師のような口調で、ラーキンが説明する。
「驚きましたわ。一体、どういう仕掛けなんですの?」
「歯車と滑車を使っています。詳しい仕組みは私にもわかりませんが。ディアドラ陛下の時代に、〈海の民〉より伝わった技術だと聞いています」
「六千年も前に造られたものなのですか?」
マリエルが驚いて聞き返す。
カナンも同じ気持ちだった。
六千年も経っているとはとても思えない。
第一、未だにきちんと動いているという事自体が驚きだ。
ラーキンは微笑んだ。
「王都にはもっと精巧で大仕掛けな、翡翠と黄金で造られた〈大歯車〉という装置があるそうですよ。大地と大海を隔てる門〈銀馬門〉を動かす為のものだとか。私は見た事はありませんが」
マリエルのように、尋ね人の紋章しか手がかりがないという来訪者は珍しくなかった。ふさわしい結婚相手を予言者に尋ねる貴族が多いからだ。
それに、旅先で恩義を受けたり、あるいは被害を被った貴族が、垣間見た紋章を頼りに相手の身元を確かめに来た、という事もままある。
そういう時、この〈紋章の間〉はとても役に立つのだ。
しかし、大抵は当主が代替わりしたとか結婚したとか子供が生まれたとかで、家系図に加筆・修正する為に訪れる貴族がほとんどだった。そういう者たちは、この〈紋章の間〉は素通りして次へ進む。
その前に、見事な天井の硝子絵にしばし目を奪われて。
「さあ、どうぞご覧になって下さい」
ラーキンは飛び出た八枚の石版のうちの七枚を次々と引き抜くと、扇形のテーブルの横の石台に並べていった。
「あの………そんないっぺんに引き抜いてしまったら、どれがどこにあったのかわからなくなってしまうんじゃ………」
心配になって言うカナンに、ラーキンはにっこり笑って答えた。
「大丈夫です。場所は覚えていますので」
スヴェアがカナンに耳打ちした。
「言うだけ野暮だって」
カナンは苦笑するしかなかった。
ここに来る道中、スヴェアから「系譜図書館の司書はずば抜けた記憶力の持ち主にしか務まらない」と聞いてはいたが………
ここまでくると常人離れしすぎていて、ついていけない。
マリエルは、ラーキンが引き抜かなかった八枚目の石板を指差した。
「あれはよいのですか?」
「あれは正貴族ボルトカ家の紋章ですので、ご覧になる必要はないかと存じます」
「なるほど。確か、ボルトカ家の紋章は熊と………」
「戦斧とツタイチジクです」
全部を思い出せないマリエルに代わって、ラーキンが言う。
紋章にツタイチジクを使っている准貴族がボルトカ国に複数いるのも、主君であるボルトカ家がこの意匠を使っているからだ。
今では行われなくなったが、かつて一部の正貴族の間では、大きな功績を上げた准貴族の家臣への褒美として、自らの紋章の意匠のひとつを下賜するという習慣があった。
ナセルの生家であるホーデンクノス家も、そうやって時の領主からツタイチジクの意匠を下賜された名家だったのだろう。
それなのに滅ぼされてしまった。領主の逆鱗に触れるほどの傲慢さゆえに。
マリエルは並べられた七枚の石版の前に立つと、片手をかざしながら端から順に石版に刻まれた紋章を見ていった。
これは演技ではなく、単にホーデンクノス家の紋章を探しているのだ。
やがて、マリエルはツタイチジクと交差する二本の矢の紋章が刻まれた石板の上で手を止めた。
「これですわ」
ラーキンの表情に明らかな困惑の色が浮かんだ。
「これで間違いありませんか? レディ」
「ええ」
ラーキンは言葉を濁らせた。
「これは、その………ずいぶん前に断絶してしまった准貴族の紋章なのですが。ボルトカ国のホーデンクノス家です。先の大戦で七賢者と呼ばれたナセル=フレイズの家です。貴女も、名前はご存知かと思いますが………」
「本当に? ですが、これに間違いありません。断絶と仰いましたが、生き残りは一人もいないのですか?」
全く揺るがぬ美しい予言者に、ラーキンは戸惑いつつも頷いた。
「調べてみましょう」
そう告げつつ、ラーキンはホーデンクノス家の紋章が刻まれた石版の端に記された数字と文字を確認した。
何をしているんだと言わんばかりに覗き込んできたスヴェアに、
「これは、系譜図書館のどの区域に家系図が保管されているか示す記号です」
「すげぇな。恐れ入ったぜ」
騎士らしからぬ物言いをするスヴェアに、ラーキンは微笑んだ。
「司書の記憶だけでは限界がありますので。ホーデンクノス家の系図は西館です」
入って来たのとは違う扉を示す。
紙一枚も差し込めないほどぴったりと閉じられた巨大な金属の扉は、濃い緑と黒と鳶色が入り混じったような不可思議な色をしていた。鉄とも銅とも異なる、見た事もない金属だ。表面は鏡のように真っ平なのに、そこに映るカナンや他の者たちの姿はうねうねと奇妙に歪んでいる。ちょっと不気味だ。
この扉も、紋章の意匠を探す為の装置と同じく、六千年前に〈海の民〉から伝わったものなのだろうか?
カナンはそう思った。
はるか昔に滅びてしまった〈海の九王国〉の残滓………民は絶え、言葉も失われてしまったのに、こうして技術だけが残っている。
そういう意味でも、ここは「記憶の都」と呼ばれるのにふさわしいのかもしれない。
ラーキンは、嘶く馬の頭を模したドアノブを掴んだ。
扉は、その見かけからは想像もつかぬほどスーッと滑るように音もなく開いた。
開いた扉の向こうはまた長く薄暗い廊下だった。天井は高く、横幅も広いが、やはり圧迫感がある。先ほど通った〈紋章の間〉へと続く廊下より窓も小さく、そしてカナンの身長よりずっと上方にあった。まるで洞窟の中にいるようだ。夜中にひとりで通るのは少し怖いかもしれない。
「さあ、どうぞ。こちらへ」
再び先頭に立って歩き出したラーキンの表情がわずかに硬くなっている事に、カナンは気付かなかった。
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
第2巻でも様々な出来事が起こります。カナンの受難度合いも、第1巻の時よりグレードアップします。
まあ、主人公っていろいろな目に遭うものですから(笑)
次章は、〈天の民〉側のお話となります。
引き続きお読み頂けますと大変嬉しいです。
ではまた。