42話 恩義
ゴリベアは、向日葵と功を蛍二のもとへ送り届けたあと、血濡れのまま、リマンの治療所へ向かった。距離はそう遠くなかったが、あらゆる箇所が斬られ、口内は鉄の味がじんわりと染み込んでいる。いつもならなんてこと無い道のりも、今のゴリベアには、地獄への坂道でもがいているように感じられた。
上空では太陽が輝いているのに、村には全く人がいなかった。ヴィラージュの命で、魔族も、神族も、そして今もオプサを探し出そうと懸命に働いている隆之介たちも、出払っているからだった。
ゴリベアは、とうとう命の危機を感じて、すぐ近くにあった魔族の家の扉を叩いた。腹から湧き出る声で家主を呼ぼうとしたが、実際に出たのは、蚊の羽音のようなただのかすれた声だった。しかも、中には誰もいない。ゴリベアは後ろを振り向いた。ほんの数十メートル先に、リマンの治療所が見える。リマンは戦闘能力を持たず、仲間の治療に専念している。治療所に鍵をかけて出かけるというのはありえない。どんな有事にも備えられるように、夜遅くの限界の時間まで、睡魔と戦いながら薬草の研究をしている。着々と近づいてくる死神を拒否しながら、ゴリベアはそんなリマンを誇りに思った。
ゴワゴワとした分厚い毛を突き抜け、ゴリベアを寒気が襲う。ついさっきまで見えていた治療所の明かりも、暗がりに包まれ見えなくなった。まるで、黒い霧が全身を覆ったかのように。もうここで終わりなのだろうか。まだヴィラージュ様に恩を返せていない。スラムから拾って、育ててくれた恩を。強い無念を胸に、ゴリベアの意識はそこで潰えた。
目が覚めると、建物のベッドの上にいた。ここはどこだろう。まさか天国に逝ったとでもいうのか。ツンツンとした刺激臭が鼻を突く。キョロキョロと辺りを見渡すと、自身の隣に、穏やかないびきをかきながら眠るクライゼルの姿があった。何百回と来ているはずなのに、どうして気づかなかったのか。ゴリベアは、ここが治療所の中であることに、ようやっと気付いた。命を拾ったのだ。
入口のドアが開いた。リマンが立っている。幼い頃から気が強いが、今は怒りをまとっているかのように見えた。細長い脚を動かし、ゴリベアの隣に座る。包帯だらけの右腕に触れ、深く息を吐き、口を開いた。
「ほんと……心配したんだから」
泣きそうになるリマンを見て、ゴリベアは小さく「すまん」と呟いた。
互いに黙ったまま時間が過ぎる。ゴリベアの胸中に様々な思いが去来する。功は大丈夫だろうか。オプサは戻ってこないだろうか。そんな中、一つの疑問が湧いた。
「誰が僕をここまで運んでくれたんだ?まさか非力なお前が、僕を持ち上げたというんじゃないだろう?」
「違うわ。……エリーと偲よ。タッグを組んでいた魔族がオプサに襲われて、二人とも独りになってしまったの。そのまま二人は一緒に行動してたってことね。もともと子供たちの中でも実力は折り紙付きだし、ヴィラージュ様もオッケーを出したわ。二人がたまたま村に帰ったとき、血だらけで倒れるアンタを発見したの。引きずりながらも、一所懸命運んでくれたわ。せいぜい二人に感謝することね」
「それで、エリーと偲はどこに行ったのだ?」
「また捜索に出かけたわ。まぁ、私の考えが正しければ、そんな必要は無いのだけど。黙っていてもわかるわよ。アンタ、オプサを殺したんでしょう?」
リマンの口角がニヤリと上がった。
「まさかアンタが成し遂げるとは思わなかったけど。結果オーライね」
「いや、僕は途中で動けなくなった。トドメを指したのは向日葵と功さ」
「あら、そうなの。それより、オプサの体はどこにあるの?」
ゴリベアは口を閉じた。リマンが片方の眉毛を釣り上げ、訝しげにこちらを見ている。
「それが……見逃したんだ」
「は?」
「僕の独断で、オプサは捕らえなかった。ヤツは元気に帰っていったよ」
リマンは立ち上がり、拳を握りしめた。そこには激しい怒りが宿っている。
「何やってんの?ありえない!そんなことしたら、またヤツが襲いかかってくるに決まっているじゃない!」
「もちろん、僕も当初は捕縛するつもりだったさ。しかし、向日葵が『かわいそう』って言って、僕の考えに反対した。事実、オプサを戦闘不能にしたのは向日葵だし、その意見にも一理あると思った。だから、向日葵の提案を尊重したのだ。向日葵がヤツと約束を結んだし、大丈夫だとは思うがな」
隣のベッドからガサゴソと音がした。クライゼルが不機嫌そうに目をこすっている。猫のような耳はペタッと下がっており、ゴリベアと同じく、全身包帯だらけだ。
「まったく……リマンの声がデカくて目が覚めた。いったい何があったというのだ」
ゴリベアがオプサと接触したこと。命を落としそうになったこと。向日葵がオプサを倒したこと。そして―、逃がしたこと。リマンはこの一日に起きたことのすべてを説明した。ゴリベアはクライゼルもまた、怒りが爆発してしまわないかと内心ヒヤヒヤしていたが、意外にも、クライゼルは冷静な表情を崩さなかった。
「なるほどな。話を聞いて分かった。ゴリベア、お前になにか考えがあるのだろう?」
「いや、特に無い」
思わぬ回答に、クライゼルとリマンはひっくり返りそうになった。クライゼルはため息をつきながら、頭の後ろあたりをポリポリと掻く。
「昔から、脳が全部筋肉でできているのではないかと思っていたが、今もそれは変わらずか……」
「なんだと!お前だって、体が弱くて、ずっと訓練場のベッドを占領していただろう!」ゴリベアが牙をむき出しにして怒鳴る。
傷が開くのもお構いなしに、二人は互いに掴みかかった。リマンが止めに入ろうとしたその時、聞き覚えしか無い落ち着いた声が、部屋中に響いた。
「まぁまぁ、落ち着くのじゃ」
音の方向に目をやると、ドアの一歩手前に、向日葵ほどの大きさに体を縮めたヴィラージュが佇んでいるではないか。三人は軽くお辞儀をした。クライゼルが、これまでのことを報告しようとしたが、ヴィラージュはヒレをその口元に当てて静止した。ヴィラージュはゴリベアの方を向いて、微笑んだ。
「偲とエリーが、お主のことについて教えてくれての。おおよそ2分前には病室の前におったのじゃが、いざ来てみたら、リマンが大きな声で怒鳴り散らし、さらにはお主とクライゼルが喧嘩をしておるではないか。ちょっと面白くなって、入るのを少し待ったのじゃ」
ヴィラージュは、三人を拾ったときと同じような、温かい笑顔を浮かべた。ヴィラージュも随分年を取ったが、その器の大きさは、年々大きくなっているように感じる。いくら幼馴染といえども、些細なことで逆上してしまったことを顧みて、ゴリベアとクライゼルは気恥ずかしくなった。
笑いが収まると、ヴィラージュはゴリベアに真剣な眼差しを向けた。そして低い声で問う。
「ゴリベアよ。オプサを逃がしたというのは本当じゃな?」
「えぇ、本当です」
返答と同時に、ゴリベアは勢いよく頭を下げた。あまりのスピードに、ベッドから軋むような音がなった。
「すみません!判断を間違えたのは僕です!提案したのは向日葵ですが、全責任は僕にあります。どうか、向日葵を責めないでやってください!」
ヴィラージュは黙ったままだった。茶色い床とリマンの脚くらいしか見えないゴリベアにとって、その時間は異様に長く感じられた。いつ叱責が飛んでくるかとドキドキしていると、ヴィラージュのヒレが、つむじ辺りにあたった。ゴリベアは思わず頭を上げた。
「別にお主も責めるつもりはない。当然向日葵もじゃ。もちろん、わしはオプサを捕まえ、殺すつもりで捜索していた。しかし、よくよく考えて見ると、ゴリベアがヤツを見逃したことで、わしらはオプサに恩を売ったことになったのじゃ」
「と言うと?」クライゼルが尋ねる。
「オプサが任務に失敗したことで、ヒノカグツチは怒り狂うじゃろう。それだけならまだしも、現在のヒノカグツチはもはや正気ではない。執事の代わりはいくらでもおる。間違いなく、ヒノカグツチはオプサを処刑するはずじゃ。ばか正直に帰還することに意味はない。むしろ、人生が終わってしまう。そんなことはオプサも分かっているはずじゃ。ヤツが行うとしたら、虚偽を話すか、魔神軍から離脱するか。そんなところじゃろう。向日葵との約束もある。それに、魔族であれ神族であれ、自分の命というのはかわいいものじゃ。わざわざ、自分で終わらせるようなことはしまい。それか―あるいは―」
ヴィラージュは言い淀んだ。三人には、ヴィラージュがわざと言葉を切っているように見えた。
「とにかく、これでオプサの件は終わった。子どもたちにはそう伝えるのじゃ。わしも明日には、上様のところへ行くとしよう」
ヴィラージュは半ば強制的に話を終わらせた。
「次は……軍団長ですね……」
リマンが呟き、辺りに一気に緊張感が走る。クライゼルはつばを飲み込んだ。それほどまでに、軍団長というのは強く、恐ろしい。
「ヴィラージュ様。最初に来る軍団長は、誰でしょうか?」
眉をひそめながら、ヴィラージュが言う。
「おそらくヴィレッサムじゃろう。やつは金で雇われた傭兵であると聞いておる。忠義もなく、魔神にしても特に思い入れはない。捨て駒のように扱うとしたら、一番の存在じゃろう。失うことに大きな損もなく、かつ軍団長の名に恥じない強さを秘めておるのじゃからの」
強大な敵との衝突を憂いて、ヴィラージュは下を向いた。
リマンが窓を覗くと、空には灰色の雲が立ち込めていた。




