第四話 リバティ
愛衣が着られる適当な服はない。サイズの合わない自分のパジャマだけを着せるくらいなら、バスローブの方がマシと考えて、とりあえず今夜はそれで過ごさせることにした。
「愛衣ちゃん、晩御飯はルームサービスを頼みましょう。この中から好きなのを選んで」
流石にバスローブでレストランに行くわけにはいかない。パジャマでも同様。置いてあったメニューを渡しながら、ヴィルマはそうお願いした。そして、指示が足りないことに気付く。
「決まったら、どれを選んだのか教えてね?」
決めるだけで終わりかねない。そう付け加えると、自分はバスローブを脱いで、ゆったりとしたワンピースに着替えた。クリーニングを頼みに行ったりなどで、外に出る必要がある。
着替え終わると、愛衣はもう一通りメニューに目を通したのか、閉じてテーブルの上に置いて待っていた。ヴィルマが向かいに座っても、愛衣は無言のまま。自分の発言を思い返してみたが、指示に不足があったとは思えない。
決まったら、と条件は付けた。しかし、決まっていないのなら、決まるまで命令を実行し続けるのが愛衣という人間だと認識している。メニューを置いた以上、決めたはず。ヴィルマは首を傾げながら、愛衣の瞳を覗き込むようにして訊ねた。
「嫌いなのしかなかった? どれがいいのか、どうして教えてくれないの?」
「これ、わかんない」
わからない。どうしてなのか理解出来なかった。命令されないと実行に移せないだけで、判断までは可能なはず。意思がないわけでもない。料理の名前を見ただけでは、内容が想像出来ないのだろうか。まともな食事をしたことがなく、名前ではわからないという意味なのだろうか。
「どうしてわからないの?」
思いついた理由を口にするのは躊躇われて、ヴィルマはそう質問した。愛衣は、機嫌を探るような感じで、上目遣いで見ながら、メニューを指差す。
「これ、読めないの。この言葉は知らない。文字もわからない」
流石に読み書きを教えていないわけはない。そう思いながらメニューを手に取ると、確かに読めなかった。文字自体は、大抵のものを知っている。しかし、見慣れない文字も含まれていて、読み方も意味もわからない。
「あら……何語かしら、これ? 日本語のじゃないのね……」
表紙だけ見てルームサービスのメニューと判断し、中身を確認しなかった。読めない言語のものが置いてあるとは想定外。日本語のものを探してみるも、もう一つのメニューも同じもの。
仕方なしに、フロントに電話を掛けた。すぐに感じの良い従業員の応答があった。
「ルームサービスを頼みたいんだけど、日本語のメニューってないかしら?」
「もちろんございます。今すぐ、お届けいたします」
「二つお願い。それと、これ別にクレームってわけじゃないんだけど、どうして外国語のメニューだけなの?」
「ドイツから観光にお越しになられたということなので、日本語のものよりそちらの方が良いと判断したのですが、何か問題がございましたでしょうか?」
ホテルを手配したのは藤堂。観光目的という建前で来ているから、そう説明したのだろう。フロントの判断は、別におかしいとは思えない。
「わかったわ。なるべく早くお願い」
それだけ言って電話を切ると、時間つぶしも兼ねて携帯端末を手にソファに戻った。
「愛衣ちゃん、これ使い方わかるかしら? クリーニングは多分明日までに終わると思うけど、毎日同じのってわけにはいかないし、お洋服買いましょう」
確かホテルでも届けてもらえるはずだったと思い、通販サイトの子供服のページを開いてから、愛衣に渡す。受け取った後、しばし探るようにヴィルマを見上げてから、愛衣は端末を操作して、女の子向けの服を色々と見始めた。しかし、見るだけだった。
洋服を買うためには、選ばないとならない。勝手に操作して良いのかどうか迷って、様子を探ってきたのだろう。渡した以上、叱られないと判断したから、選び始めた。
今は、気に入ったものを伝えるのを躊躇っている状態かもしれない。恐らく理由は値段。いくらまでなら怒られないか、判断出来るわけがない。この状況ではヴィルマでも無理だ。相手の資金力は知らないし、性格だってわからない。駄目元で言える子ではないのだ、愛衣は。
ドアがノックされて、ヴィルマは席を立った。予算を伝えればきっと自分から結果を言い出すだろうと思いつつ、届けに来てくれたメニューを受け取る。もちろん日本語のもの。それを手に、愛衣の元に戻った。
「愛衣ちゃん、先にご飯を選びましょう。今度はちゃんと読めるはず。値段は……そうね、いくらでもいいわ。食べたいものを好きなだけ選んで」
はっきり言って安くはない。しかし、一番高いものを十個も二十個も頼まれなければ、どうということはない値段。
愛衣が指差したのはスパゲッティ。ソースのところで指がふらついて迷いを見せたので、どれがどういうものなのか説明すると、ボロネーゼを選んだ。ヴィルマはバジルソースを頼む。食べたことがないのか、説明してもピンとこないようなので、味見させた方が良いと考えた。
ヴィルマが内線で注文している間に、愛衣は自発的に携帯端末を手に持っていた。ロックが解除出来ないようで、色々と試してみている。
それを見ながら、ヴィルマは出逢ったときのことを思い出す。母親を懸命に探していた。ロッカーまで何度も開け閉めして、愚直に母の姿を求めていた。
部屋に入る前に、護衛の者たちに母親の側に行くよう言われていた。ヴィルマが消してしまい、実行出来ない状態だったから、そのために必要な行動をとっていたのだ。判断力は正常にあるのは間違いない。ただし、護衛に母の居所を訊ねるという手段はとらなかった。
恐らくは、叱られる可能性があるかどうかが基準なのだろう。叱られないことが確実ならば、自分で判断して必要な行動をとれる。あの部屋には誰もいなかった。探し回っても咎められるわけがない。護衛に訊ねた場合、どう反応されるかはわからない。
愛衣の行動原理が見えてきた。最優先は命令順守。守ることで叱られる可能性があっても、命令の方を優先する。命令が実現不能な場合、自力で実現方法を考えるが、叱られる可能性があることはしない。
今もロックが解除出来ずに困っているようだが、ヴィルマの様子を探りつつも、質問はせずにただ操作を繰り返している。それを見ているヴィルマが叱らないから、操作はしていいと考えているのだろう。質問はどうなのか判断が出来ないから、してこない。
どうも学ばなければならないのは、自分の方だとヴィルマは悟った。愛衣の行動原理をきちんと理解し、彼女が自由意思を持てるよう、少しずつ誘導していくしかない。
まずは命令ではなく、許可というある程度の自由裁量が持てる方法で行動出来るように。その後は、許可の範囲を広げ、曖昧にしていって、本当の自由になるように。
「愛衣ちゃん、わからないことがあったら、何でも訊いていいのよ? 少なくとも私は、何を訊かれても怒らない。今、何か質問したいことはあるかしら?」
早速許可という方法で、愛衣が今困っていることを解決するための提案をしてみた。ずっと訊ねたかったのだろう。即座に質問が返ってきた。
「暗証番号はいくつ?」
「みんなには内緒だからね? 愛衣ちゃんにだけ、教えてあげる」
そう前置きして、PINコードを教えた。愛衣は自力で解除して、洋服選びの続きを始める。それを眺めながら、ヴィルマは思った。愛衣はこのPINコードを今後どう扱うのだろうと。
一度教えてもらったからには、勝手にロックを解除して、いつでも端末を使用していい許可が得られたと考えるのだろうか。それとも、洋服選びが目的の時ならいつでも使っていいと、ある程度限定するのか。はたまた、今回だけと判断するのか。何とも言えない。
ソファに全身を預けて力を抜きながら、ヴィルマは深く息を吐いた。この子と付き合っていくのは、なかなかに難儀だと改めて思う。同時に、藤堂が言っていたことの真意を、今更ながらに理解した。単独では政権にとって不都合な存在とは言えないという話。
突然目の前に現れた、見知らぬ他人であるヴィルマの指示に忠実に従った。それまでよく一緒にいたであろう、護衛たちを置いてまでついてきてしまった。彼らはあの時愛衣に対して、何か指示と受け止められる発言はしなかった気がする。だから見知らぬヴィルマに従い続けた。
つまり、愛衣は命令されれば誰の指示でも聞く。恐らくどんなことでもやる。人を殺せと言えば、殺すのだろう。本来やってはいけないことと知りつつ、それでも命令に従う。
自分の意思で殺すということはしない。だから単独でなら不都合はない。しかし、政権に敵対する者の手に渡れば、当然不都合な存在に変わる。
今後リストに入るかどうかは、ヴィルマ次第とも言った。ヴィルマが愛衣に何をさせるのか次第ということだろう。あるいは、政権に敵対することがないよう、躾けられるかどうかか。
(一杯食わされたわね……すべて計画済みだったのかしら?)
見せられた資料には、愛衣のこの性格などは記載されていなかった。しかし、知っていたに違いない。だから、ヴィルマが保護するよう仕向けた。勝手に処分してしまったら、それはそれで自分のせいではないと、藤堂は考えたのだろう。
暗殺ではなく抹殺を好む人間。汚職に手を染めるよう誘導はするのかもしれないが、捏造はしない。その印象は間違っていなかったと確信出来る。油断ならない男ではあるが、少なくとも悪人ではない。こちらが敵対しなければ、彼は何もしてこない。
(とはいえ、前途多難ね……)
選び終わったのだろう。愛衣は端末の画面を消して、ヴィルマに返却してきた。もちろん、何を選んだのかは教えてくれない。予算を勝手に想定して、頭の中に選択肢だけ用意して、問われるのを待っているのだ。
きちんとした大人にするために、どう育ててあげればいいのかはわからない。ヴィルマだってまだ子供に過ぎない。だが、将来ではなく、今を生きるために必要なことだけはわかる。
自由。愛衣は自由を知らなければならない。彼女の絶対支配者はもういない。それを教えることは出来ないが、人は元々自由に生きていいということだけは、教えられるだろう。
その先には、恐らく試練と決断が待っている。ヴィルマと愛衣の双方に。既にもう、取り返しがつかないのだから。その時に備えて、ヴィルマは覚悟をしておかなければならない。
だからこそ、共に居ようと思う。誰に委ねてもいけない。今の愛衣には、付きっきりで守る保護者が必要だ。そして十字架を背負うべき人間は、ヴィルマしかいない。