7 寒いのは苦手だよ
大小合わせて三十隻以上に膨れ上がった大艦隊は北東経向かう。目的地はアイスランド。北上するにつれて波濤が白く砕けるようになり、何より身を切る風が冷たくなってきた。合羽を着ないと甲板作業が辛くなってきて、洋一たち搭乗員も防寒着を重ね着するようになってきた。
帽子も裏に毛皮が付いた寒冷地用を支給して貰い、ひもの長さを調整する。そういえば先月の帝都空襲の時もこうだったなと洋一は思い出していた。あの時は高高度試験で八千mの高さを飛んでいた。しかしこの北海の寒さは、あの時より厳しそうだった。内側にもう少し着た方が良いかな。毛糸ものが欲しいところだが、艦内ではないからなぁ。良い手段はないものかと天井を見上げた。
空はもっと寒いのだろう。しかしここ一週間飛んでいないとその寒空すら恋しくなる。鉄の天井の向こう、鉛色の空を洋一は思い出していた。何だか寂しくなってきた洋一は三段ベッドの真ん中から降りると、搭乗員控え室へと向かった。
確かに艦隊は作戦行動中である。それでもいつもなら何のかんのと理由を付けて飛びたがる人に付き合わされていたのだが、そういえば今回はそれが無いな。そんなことを考えながら搭乗員控え室に入った。
中は北海航行中と思えないほど暖かかった。煙路がすぐそばを通っているため、夏は灼熱地獄になるこの部屋も、冬は天国のような暖かさだった。中には洋一と同じく暇を持て余した搭乗員や手すきの整備員たちがたむろしていた。
「早く閉めろ、寒い」
小言が飛んでくるので扉を閉める。隅に腰掛けるとずいと湯呑みが突き出された。
「ほら、あんたの分」
見ると朱音が湯気の立つ湯呑みを渡してきた。
「ん、ありがと」
洋一は受け取ってそれを口に運ぶ。殆ど味も香りも無い出がらしではあるが、暖かいのはありがたかった。
「今日は飛行は無いんですか」
洋一は中隊先任下士の成瀬一飛曹に尋ねた。
「ないな。明日あたりから哨戒に上がるかもしれないが」
青森で積み込んだ最後の新聞を読みながら成瀬一飛曹は答えた。
「今日飛ぶのは周辺索敵の艦攻だけだな」
とすると今日も一日座学やら手記の執筆やら飛行以外のことで時間を費やすことになりそうだった。
「なにせ姫様が、おっと中隊長が珍しく大人しいから」
そこでふと成瀬の言葉が止まった。
「そうだ丹羽、お前朱音ちゃんと一緒にこれ中隊長へ届けてくれ」
成瀬は中隊日報を洋一にわたす。渡された方は二人で顔を見合わせたが、ここで時間を費やすよりはお使いの方が有意義に思えた。
「紅宮大尉? こちらにはいないよ」
士官次室を覗いてみたがそこにも綺羅様は居なかった。
「この時間だと自室だと思うよ」
中隊のもう一人の士官、池永中尉は代わりに日報にサインしながら答えてくれた。
「いつもなら元気に飛んでいるだろうに、最近は朝の点呼以外で見かけないんだ。どこか悪くしてなければ良いのだが」
戦闘機第二中隊長の麻倉大尉が落ち着かない様子で気を揉んでいた。
「お加減悪いのですか?」
つられて朱音も心配そうな顔をする。
「そんな大層なことでは無いと思うよ」
池永中尉は優しく笑ってくれた。
「そうだな、丹羽君と小野君、二人で中隊長のところに暖かいものでも届けてくれないか」
そう云ってお駄賃とばかりに一円ほど渡してくれた。それを見て麻倉大尉は十円札を出そうとするがそれは丁重にお断りした。
厨房へ寄って様々な交渉の後、ありもので汁粉を作ることにした。烹炊長に隠し味に生姜を入れることを教わって、洋一と朱音は綺羅の自室へと向かった。
通常なら士官の自室はさきほどの士官次室の隣だが、この〈翔覽〉では女性用の居住区が特別に用意されていた。そこで居住しているのは綺羅に朱音、朱音の同期の沢村整備員、それと綺羅の侍女である槙さんの四名のみであったが、多くの乗組員にとっては近寄りがたい空間であった。洋一も、朱音と一緒で無ければ入れなかっただろう。
恭しく汁粉を掲げながら綺羅の自室前に二人は立つ。洋一は唾を飲み込む。ここが、綺羅様の、自室か。三段ベッドに押し込まれた自分の寝床とは大違いである。これは気を引き締めなければ、そう思っている洋一を尻目に、朱音は早々に扉をノックした。
「綺羅様、朱音です。失礼しますよ」
勝手知ったる様子で朱音は扉を開けた。すぐそばで寝起きしている朱音にとっては大したことでは無いのだろう。
「丹羽三飛曹、入ります!」
意を決して洋一は扉をくぐった。
「いらっしゃい朱音ちゃん、お、洋一君じゃないか」
拍子抜けするほど気楽な声が彼らを出迎えた。士官の私室は折りたたみ式のベッド一つと机一つにちょっとした箪笥とそれほど広いわけでは無い。場合によっては士官でも相部屋のこともあるそうだ。それはそうと、この部屋はおかしなものが奥にあった。
「いらっしゃいませ小野様、丹羽様」
綺羅付の事情である嶋村槙が出迎えてくれる。どうしたわけか、もう二人分のお茶の準備が出来ていた。
「あの、こちらお汁粉です。よろしかったら」
汁粉を載せたお盆を渡すと、綺羅は実に嬉しそう受け取った。
「お、これは美味しそうだ。寒いときの汁粉は格別だねぇ」
喜んでくれて、作った方も報われるというものだった。
「さ、君たちも入っていきたまえ」
朱音と顔を見合わせてしまったが、意を決すると二人は綺羅様の入っている櫓炬燵に足を入れた。
「……あの、これなんですか?」
入ってしまってから洋一は自分の脚の方を指さした。
「ん? 炬燵だよ。君の家では使わないのかな?」
「いえ、そういう意味ではなく」
当たり前のように綺羅様が入っているので自分の方がおかしくなった気がしてきた。
「普通、士官私室に炬燵はないと思うんですが」
しかも本来は普通の床の上が少し高くなっていて、二畳ほど畳敷きにまでしていた。
「ほら、この前まで鳥羽の工員たちが乗っていただろ。ちょっと頼んだんだ」
対空銃座の増設のついでにこんなものまで作っていたとは。
「やっぱり冬は炬燵だよ。格好付けて洋風にしなくてもいいのに」
海軍としては士官たるもの世界に通用する人材であるべきと積極的に洋装を取り入れていた。身の丈に合わないという批判もあったが、守るべき体面もある。こうして炬燵に根を下ろしている綺羅様は、士官としてふさわしいとは少々云い難かった。
「みんな心配してましたよ。ここのところ顔を出さないって」
「だって寒いんだもん」
子供みたいなことを云い始めた。
「なんで十月過ぎてから蝦夷より北に行かなければならないんだ? 国際条約で冬に戦争するのは禁止にすべきだよ」
そんな世の中なら世界は平和だろうに。始まる前は結構乗り気だったのに、北上して寒くなったらこれである。
「しかもこれから向かう先がアイスランドだよアイスランド。名前からしてもう寒い」
まあ洋一も勝手に地の果てみたいな所かなと思っていた。まさか自分の人生でそんな北に行く日が来るとは思ってもみなかったが。
「寒いのは苦手だよ。何もやる気が起きない。こうして槙さんのお茶を飲む以外のことはしたくないのだよ」
我が儘な主人を見て槙さんは少しばかり苦笑した。
「しょうがないですねぇ。自分の知っている艦内の暖かい場所教えますよ」
まるで猫のようだが、下士官兵にとってそういうことは詳しくなってくる。
「それこそ下士官用の搭乗員待機室、あそこ煙路がすぐそばを走っていて暖かいですよ。夏は死ぬほど熱いけど」
「そうか、今度顔を出してみるか」
少しは活動的になってくれるのなら良いのだが。そこでふと洋一は思考を巡らせる。
すごく、怒られそうな提案である。しかしそれなりに効果は期待できるのではないだろうか。
士官次室に炬燵を置くというのは、どうだろうか。そうすれば綺羅様が居着いてくれる気がする。
後でこっそり池永中尉に伝えてみようか。麻倉大尉はどうであろうか。綺羅様のためだと聞いたら、乗ってくれるだろうか。むしろ馬車馬のごとく推進力で推し進めそうだ。
「安心したまえ洋一君。実戦になったら本気出すから」
「そうでなくては困りますよ」
こんなことで大丈夫なのだろうか。些か心配になりながら洋一はお茶のぬくもりを味わった。