16 帰りは怖い
東側の、少し雲が薄い空域に三々五々飛行機が集まってくる。雲ではぐれてから戦闘に突入したので大分バラバラになっていた。洋一が見えていた範囲でも何機か対空砲火で落ちていたような気がしたが、それでも各機の飛び方は浮かれているように見えた。
戦艦〈バーデン〉を撃沈、ボロジノ級空母一隻も恐らく駄目だろう。間違いなく、勝ち戦だった。
「それと丹羽君、五機目撃墜おめでとう」
前を飛ぶ池永中尉が、振り返ってこちらを見ているのが洋一には見えた。
「あ、ありがとうございます」
「まったく運だけは強いからって調子に乗りやがって」
熊木一飛曹が翼端で小突いてくる。洋一も彼らも、やはり勝ち戦に浮かれていた。
小隊ごと、中隊ごとで編隊を組み直している。洋一たちもひときわ目立つ紅い尾翼を目印に集合した。
戦闘機隊は九機揃っていた。みんな無事なのはありがたい。そう洋一が胸をなで下ろしたところで綺羅が声をかけてきた。
「洋一君、何か曳いてないか?」
言葉の意味がとっさに判らなくて上下左右を見回す。そして別の声が割り込んできた。
「丹羽君、機首の下から何か漏れてる!」
天蓋を開けて頭を出してみる。凍てつく寒風が顔に刺さるようだったが、残念ながら腹の下はよく見えない。何か出るとすると風に流されて後ろに行くはず。振り返るとかすかに霞の様なものを曳いていた。
「機首の下、翼の付け根辺りから。白っぽいからエンジンじゃない。ガソリンか、冷却水か」
下に潜り込んだ熊木一飛曹が様子を伝えてくれる。計器板を急いで見回したが、エンジンそのものは快調に回っている。燃料もおかしな減り方はしてないし、操縦席もガソリン臭くはないのでこっちの線も薄い。とすると。
「ラジエータっぽいな。何か当たった跡がある」
撃たれた記憶はないが、対空砲火の中を飛び回ってはいた。そういえばマヌールを墜とした直後の高射砲弾は結構近かった。
このまま冷却水が流失してしまえば、エンジンは冷やせなくなり焼け付く。そういえば 水温がこの寒さなのにいつもより高めな気がする。洋一の背筋に冷たいものが流れた。
「あの……自分も、まずいことになってるんですが……」
蚊の泣くような松岡の声が聞こえてきた。
「燃料が、漏れていて……還れるかどうか……」
振り返ってみると三小隊の三番機、松岡機は両方の主翼から白い霧をたなびかせていた。あそこにはたしか燃料タンクがあるはずだった。
「早く還りましょう」
「そうだな、攻撃隊もぼちぼち還り始める」
戦闘機隊も母艦に向けて進路をとる。先ほどまでの浮かれ気分は吹き飛んでしまった。
母艦まで百五十海里。巡航で一時間前後ほどの距離は、長大な航続力を誇る十式艦戦に取っては大したことの無い距離のはずであったが、それは五体満足の機体な場合である。エンジンが焼き付きそうになったり、そもそも還るための燃料を失った機体にとっては地球の裏ほどにも感じられる。
水温がじりじりと上がり続けるので、どうしてもエンジンを絞り気味にせざるを得ない。松岡も燃料消費が気になるのか、二機とも少しずつ中隊から遅れだした。
「こちらユウグレ一番。自分と二番が残りますから中隊は先に帰投してください」
池永中尉と熊木一飛曹が蛇行して損傷した二機に合わせる。
「判った。二人を頼んだよ」
ねぎらいの言葉を残して五機は僅かに増速、やがて雲の向こうに消えていった。
残された四機は寒空の中飛び続けた。少しずつ高度が下がってきている。ラジエータフラップを全開にしているのに水温計は九十度を超えたままだった。いや、冷却水がよく回ってなかったらエンジン自身はもっと過熱しているかもしれない。
下を見れば海面が随分と近づいてきていた。時折白波が見える。灰色に沈んだ海はどうにも寒そうであった。
この海水温では、泳いだら五分で死ぬと脅かされていた。五分どころか五秒ですら勘弁してほしい色をしている。こんな海面に不時着水したら凍り付いた土左衛門になるのは目に見えている。
そういえばさっき墜としたマヌールのパイロットはどうなっただろうか。
破壊したのは尾部で操縦席には当たらなかったはずだが、あの墜ち方で助かったとは思えない。よしんば生きていても、この海で泳いで助けて貰うまで生き長らえるのは不可能だろう。
叩きつけられて死んだ方がマシだろう。冬の海に投げ出されて冷たく凍えて死ぬなんて、想像するだけで嫌な死に方だった。まったく可哀想なことをした。
可哀想と云えば〈バーラム〉やボロジノ級空母の乗組員も大概だ。灼熱の炎で焼け死ぬか、氷の海に投げ出されて凍え死ぬか、船の中に閉じ込められて海底に引きずり込まれるか。どれもこれも願い下げだ。
そしてその悲惨な結末を与えたのは自分達だ。死にゆく彼らから鬼悪魔と呪われても仕方が無い厄災だ。だからこそ。
「なあ松岡」
気さくな感じを出そうとしたが、その声が震えているのが自分でも判ってしまった。
「死にたくないなぁ」
他人にそれを与えながら、洋一は心の底からそう願った。身勝手極まりないとは自分でも判っているが、悲しいかな人間とはそういうものなのだ。
「あったりめぇだろ」
強がっているがこっちの声も震えている。
「この前江戸に帰ったら、みんなの見る目が違うんだ。赤羽の呑み屋の倅じゃなくって海軍の下士官様だぜ。あそこで呑んだくれている奴らと違うところに行けるんだ。五年も辛抱すれば嫁さんだって貰える。十年頑張れば庭付きの家だって買える。ここで死んだら殴られ損じゃ無いか」
「そうだな。死んでたまるか」
こんなとき、松岡の図太さは心強かった。
「八時より接近する機有り」
熊木一飛曹の声で編隊に緊張が走る。しかし洋一たちは飛んでいるだけで精一杯で、最早回避もままならない。
振り返って洋一は眼をこらす。確かに真っ正面を向けてこちらに接近してきている。じきにその形がはっきりしてきた。
「なんだ、九式艦爆だ。友軍だ」
熊木機が翼を振って合図を送る。向こうも翼を振ったのが見えた。
「そこの戦闘機隊。母艦への針路を教えてくれ」
無線が聞こえ始めた。大分近づいてきたらしい。どうやら航法がうまくいってないらしい。二人乗っている艦爆が一人乗りの戦闘機に航法を尋ねるとは。しかし洋一には別のことが気になった。なんだか聞き覚えのある声だった。
「おい、福山じゃないか?」
「その声は丹羽か?」
九式艦爆の声の主は洋一の同期である福山三飛曹だった。彼は舞鶴空襲の時も志願して参加していた、一緒にブランドル艦隊に挑んだ仲であった。
「俺もいるぞ。どうしたんだ?」
不意に同期会が開かれたようになった。
「計器板に派手に食らって、コンパスから何から読めないんだ。おかげではぐれたらどっち向いてるかも判らなくって」
近づいてくると、大分あちこち煤けて撃たれた跡があった。どうも頭の上で高射砲弾が炸裂したらしい。
「それと、後席の今村少尉が負傷している。早くなんとかしないと」
後部座席に人影は見えるが、うつむいたまま動く様子が無い。残念ながら前席から手当は出来ない。
「どんな様子なんだ」
「さっきまではうめき声が聞こえてたんだが、今は聞こえない」
あまり良くはないらしい。これではまともな航法は出来ないだろう。
「福山三飛曹。母艦まであと八十海里ぐらいなんだけど、飛べるかな?」
「計器板が殆ど壊されて、どこが壊れているかも判りません」
ぱっと見飛行に支障はなさそうだが、知らないうちにガス欠になっていて、あと五分で止まるかもしれない。
「丹羽、高度今いくつだ?」
「一千m」
「だめだな、二千八百から動かない」
無事に見える計器も信用ならないとなると普通に飛ばすのもしんどい。
「なんとかしないとなぁ」
熊木一飛曹の言葉は全員の気持であった。洋一の機も、松岡の機も、あと八十海里飛べるとは思えない。