15 撃墜数 5
天井の低い空域を四方八方から無秩序に飛び交うのでとにかく落ち着かない。栄町の真ん中でまごまごしている気分だ。ひったくりや巾着切りに気をつけてときたもんだ、と洋一が周囲を見回すと、成瀬一飛曹率いるアカツキ小隊が脱兎のごとく飛び出していた。
何事か思ったその先に、アブのようなマヌール戦闘機が紛れていた。さすが先任、この乱戦でよく気づいたな。こっちもうかうかしてられないなと思ったところで洋一は何だか寒気のようなものを感じた。
特に変わったことは無いはずなのだが、強いて云うなら空がわずかに暗くなったような。何の気なしに空を見上げた洋一は、次の瞬間無線機に手を伸ばしていた。
「ユウグレ小隊、上に敵!」
雲の底から黒い影が飛び出してきた。ずんぐりと太い機首。ロシア製の艦上戦闘機マヌールだった。池永機と熊木機が左へ、洋一機は右へと回避する。
マヌールはその間を降下していった。こちらの回避が早かったので後ろには付けなかったらしい。そのまま去るかと思いきや、マヌールは上昇に転じて、なんと洋一の方に向かってきた。
一機の方なら相手になると思ったのだろうか。受けて立ってやろうじゃないか。洋一の中で敵愾心がメラメラと燃え上がってきた。ラダーで降下率を修正すると操縦桿を強く引き、垂直旋回に持ち込む。
見上げると頭上にマヌールの姿を捉える。向こうもこちらに垂直旋回をしている。典型的な巴戦の形だ。
かつて欧州で戦ったフォッカー109に比べればマヌールはけして速くない。むしろ艦上戦闘機らしく旋回戦が得意なようであった。そして十式艦戦も旋回戦が得意である。ならどっちが上か勝負だ。操縦桿を握る洋一の手にも力が入る。
引き合いでは遜色ない。これならやれる。向こうの方が若干高度がある分有利なはずだが、洋一は不安を感じなかった。
「こちらユウグレ一番、丹羽君無理しなくていい。すぐ助けに行くから」
池永中尉の声が耳に入る。周りを見回す余裕はないが、回避してからこちらに向かっているらしい。周りは味方の方が多い。少々しくじってもなんとかなるだろう。洋一は安心して目の前の敵に集中する。
むしろとっとと片を付けないと獲物をとられてしまう。例えば尾翼が紅い人とか。そういう意味では無理をする必要があった。
太陽は雲の向こうなのでこっちも向こうもその手は使えない。ちょっと誘うかな。洋一はちょんちょんと右のラダーペダルを踏んで高度を下げる。速度が足りなくなってきてずるずると高度を失っている、ように見えるかなと洋一は期待していた。
向こうのマヌールが僅かに上昇してから旋回を強めた。より小さい半径となり、こちらの後ろに食い込もうとする。
かかった。洋一はラダーペダルを更に強く踏み込んで降下し、ロールを少し戻す。腹に当たらんばかりに一気に操縦桿を引く。十式艦戦は上昇に転じ、斜め宙返りのような機動に入った。
こちらも勝負所とばかりに洋一は渾身の力で操縦桿を引く。身体全体に巨人の手で押されるようなGがかかるが、兄の作ってくれた飛行靴が少しばかり血が下がるのを抑えてくれる。
苦しくて視界が狭くなった気がするが、その向こうでマヌール戦闘機がずるずると前に出てきているのが見えた。ざまみろ。さっきの急旋回で速度を失って、こちらの上昇旋回についてこれないんだ。目が回るほどの急旋回は小さく回れるが、その分失う速度も大きい。切り札の使い所を間違えたな。
十式艦戦が降下旋回に入ったところで、明らかにマヌール戦闘機の後方に食い込むことが出来た。十式艦戦の一番素晴らしいのはこの縦を使った旋回だと洋一は確信していた。
マヌールは挽回しようと無理に操縦桿を引いて、更に速度を失っていた。さっさと逃げに転じていればまだ可能性はあっただろうに。しかし洋一は同情してやらないし、している余裕もない。あれは獲物。数少ない機会で目の前に飛び出してきた、美味しそうな獲物。そういえば丸々と太っている。
牛のように太いマヌール戦闘機の胴体が目の前に迫っていた。端が大きく丸い主翼も手を広げるようだった。無理がたたって翼の端が震えている。どうやら失速が近いようだ。洋一は照準をマヌールの頭一つ、いや二つ先に合わせる。
左の親指で、機銃が両連射になっているのを確認する。半呼吸分だけ息を吸い、そして止めた。ほんの数秒、気持の上では心臓も止めて、目標に集中する。
全身が止まった中で左手だけが動き、銃把を握りこんだ。魂を蹴り上げるような鼓動が、洋一と十式艦戦を揺さぶる。しかし照準はぶらさない。
機首上部の七・七㎜機銃二丁と、そしてプロペラ軸より放たれた二十㎜がマヌールの巨体に突き刺さった。弾は洋一が想定していたよりも後方、後部胴体から尾翼にかけて命中した。
こっちも旋回を続けていたからかなり前を狙ったのだが、それよりも更に後ろにずれる。あの辺りにエンジンやら燃料タンクやら、あるいはパイロットといった重要なものはない。失敗したかな。そう思ったところでマヌールの後部胴体がポッキリと折れた。
安定を司る尾翼を失い、糸の切れた凧のように縦に回転しながらマヌールは針路をそらし、海面へと叩きつけられた。
撃墜だ。マヌール戦闘機を一機撃墜。これで通算五機。射撃を終えて上昇に転じた洋一は指を一本一本握りこんで、自分のこれまでの撃墜戦果を確認した。開戦時の舞鶴空襲でセバスキー・ドミトリー雷撃機一機、マヌールが1/2の二つで一機、欧州でフォッカー109とスツーカ爆撃機をそれぞれ一機。そして今ここでマヌール戦闘機を一機撃墜した。合計五機。これで「小エース」だ。
先の欧州大戦では十機撃墜でエースと称えられ、空の騎士道物語が華やかに語られていた。「遣欧滋野航空隊」でもきら星のごとき英雄豪傑がこのエースの称号を目指す姿が書かれていた。その中で、年齢を偽って参加した孤児の少年飛行兵「小太郎」が五機撃墜を達成したところで滋野隊長が彼を称えた。なりは小さな痩躯なれど、その秋津魂まさしく益荒男なり。小なりといえど英雄なり。
愛読していた少年達にとって、小エースは憧れの的であった。夢への入り口だった。しかしざそれを目指してみると、長く苦しく、何度も死にかけなければ手に入らない称号だった。もう五機撃墜で「エース」と呼んでもよいのではないだろうか。ようやく「入り口」に到達した洋一にはそう思われてならなかった。
しかし五機撃墜か。五機。すごいよな。洋一はこみ上げてくる喜びを抑えられない。中隊でも五機撃墜している人は数えるほどしかいないはずだった。成瀬一飛曹は七、八機行ってたはずだし、小暮二飛曹も達成してたかな。
そうそう、肝心な人を忘れてた。紅宮綺羅。彼女はさっきの空母上ので十機撃墜を達成していたはずだった。文句なしのエースだ。
あの人も、初撃墜は自分と同じ開戦時の舞鶴空襲だった。同じだけ戦闘に参加して、自分はかなり運に恵まれて五機なのに、向こうは十機か。まったく上には上が居たものだ。
感慨に浸って居たところを下から突き上げるような衝撃で揺さぶられる。近くで高射砲弾が炸裂したらしい。
「丹羽君、東側に行こう。そこで待機だ」
いつの間にか近くに居た池永中尉から指示が入る。敵戦闘機も排除したのでいつまでも高射砲の届くところを飛んでいても危ないだけだ。操縦系統は無事だし、エンジンの音もとりあえず問題なさそうだ。
「攻撃も大体終わったよ。大戦果だ」
振り返ると黒い煙が幾つも立ち上っていた。空母の甲板が派手に燃えていた。駆逐艦が水をかけているようだがとても追っつかない。あの炎の勢いでは接舷も出来ないのではないだろうか。
〈ビスマルク〉も一発命中したらしい。こちらは軽傷だったらしく、派手に対空砲を撃ち上げている。出来ればあまり近づきたくはない。
そして機関が破壊されて漂流していた〈バーデン〉。置物と化して回避も出来ない艦に攻撃が殺到して空母と同様燃え上がっていた。何より傾斜が止まらず、すでに四十五度以上傾いていた。
「追加で魚雷三本命中したからね。避けられないんじゃ演習の的だよ」
防御に定評のあるブランドル戦艦も、ああなってしまってはどうしようもない。
そして遂に浸水に耐えきれなくなったのか、見る間に傾斜を増して、秋津の航空隊や護衛の駆逐艦が見ている中で〈バーデン〉は横転、ひときわ大きな煙を上げた。
まるで燃えた松明を水の中に突っ込んだときのようだった。燃えさかる炎が水で消えると同時に断末魔のような奇妙な音と、派手な水蒸気。ボイラーに海水が入ったのか、悲鳴のような甲高い音が、空を飛んでいる洋一の耳にも届いた。
それを名残に、〈バーデン〉は冷たい北海の中へと沈んでいった。上から見ると海面に白い泡の群れが、まるで冬に咲く椿の花のようだった。