第8章(春雄)記憶
春雄は高校の廊下に立っていた。見えるもの全てが橙色に染まり、夕暮れ時独特の寂しさが春雄の体を包む。
これは明晰夢だ。今、自分が夢を見ていると理解できる。そしておそらくこの夢は数日前に見たものと同じ。そして俺自身の過去の記憶でもある。
春雄は後ろを振り返ろうとした。が、体が言うことをきかない。
なるほど。せっかくの明晰夢なのに、どうやら過去の記憶と同じようにしか動けないようだ。
春雄は廊下を進み、2-Bの教室前で立ち止まる。軋む扉をゆっくりと開けた。
そこには女の子が立っていた。
制服姿の彼女は茶色の髪をたなびかせ、そうして教室の中で佇んでいた。
『あの目』だ。何かを求める、訴えかけるような、哀願しているような、葵の目。
心がかき乱されていくようだ。切なくて、辛くて、愛しくて、高揚して、緊張する。そんな感情達が同時多発して俺の中に渦巻いている。当時の俺も、そして今の俺も。
春雄はただ立ち尽くしていた。そして葵もまた、春雄のことを見続けるだけだった。
一瞬か、あるいは長い時間なのか、そうして時が過ぎていった。
葵が口を少しだけ開いて言った。
「春雄、くん」
その言葉は小さくて、けれど確かに夕暮れの教室に響いた。
少しの間を空けて春雄は答えた。
「藍原さんだよね。えっと、俺は荷物を取りに来たんだ。鞄、教室に置いたままだったから」
不思議な感覚だ。記憶と一言一句違わない言葉が、勝手にスラスラと口から出てくる。
そうだ。俺はこの時初めて葵と会話した。そもそもクラスメイトの葵が他の誰かと話しているところすら、俺は見たことがなかった。
「葵でいい」と葵は言った。
やはり声量は小さくとも何故か通る声だ。
春雄は再び葵の目を見た。
もう『あの目』ではなくなっている。冷たくて、美しくて、静かで、どこか可愛らしくて、暗い。そんな普段の葵の目に戻っている。
「じゃあ、葵。葵はどうしてここにいるの?」
正確には覚えていないけれど、確かこの時はその日の授業が終わってから1時間は経っていたはずだ。
葵はしばらく考え込んでから、言った。
「私は、飛べなくなったから」
要領を得ない答えだ。葵は部活には入っていなかったはずだし、跳躍するような陸上競技だとかスポーツの話ではない。
「そりゃあさ、俺だって、いや誰だって飛びたいよ。でもそうは上手くいかない。だからきっと皆這いずり回って生きて、飛ぼうとしてるんだ。飛ぼうとし続ければ誰だって飛べるって信じるしかない」
そうだ。確かにこの時、俺はこう言った。葵の発言の意図はわからずとも、正直に思ったことをそのまま言おうと思ったのだ。
「私はこの先ずっと、ううん、私が死んだって、ずっと背負って、抱えていかなきゃいけないものがあるの」葵はゆっくりと、言葉を繋いだ。
だから飛べない、ということだろうか。
この時の俺は、葵の背負わなくてはいけないもの、抱えて生きなければならないというものを下ろしたいと、強く思った。
それは人助けをしたいだとか、同情の気持ちだとか、そういう類の思いではなく。ただただ『あの目』をもう二度と見たくはないと思ったのだ。
『あの目』はとても魅力的だった。惹き込まれ、美しかった。けれども同時に『あの目』はとても悲しい目でもあった。俺の感情を混沌とさせる『あの目』を、俺はもう見たくなかったのだ。
そして同時に『あの目』を他の誰にも見せたくないという気持ちも生まれていた。その理由まではわからない。けれど『あの目』を見るのは自分だけでいい、と高校生の俺はそう強く願った。
そしてそれを強く願っているのは、夢を見ている今の俺も同じだった。
春雄は言った。
「葵、飛行機は飛べるんだよ。あんなに大きくて重い鉄の塊が。何かを背負ってたり、抱えてたっていい」
葵はよくわからないような表情を見せ、そして次第に呆れた様子へと変わった。
「春雄くん、そうじゃないの」
構わず春雄は続けた。
「抱えていかなくてはならないものがある葵は飛べない、そしてそれを捨てられないんだろう。それなら俺が半分持って一緒に飛ぶよ。5年だって、10年だって、それを半分預けてくれる時を待ってやる。それがどんなに重かろうと、背負いながらだって飛べるってことを教えてやる」
何故これ程まで確信を持って話せるのか、俺自身にもわからなかった。しかし言わずにはいられなかったのだ。
この最後の言葉を聞いた時の葵の表情を、俺は覚えていない。そしてこの明晰夢もまた、葵の表情を見ることなく終わるのだった。




