第7章(春雄)神がもしいるのならば
電気の点いていないアパートの部屋。外の路地を照らす街灯の光だけが微かに差し込んでいる。どこか離れた大通りでの車の往来が、その騒音の残滓を部屋まで運んでいた。
家具のシルエットだけが僅かに視認できる暗闇の中で、春雄はただじっと座っていた。
動けない。怖いのだ。
もし少しでも体を動かしてしまったら、世界の全てが崩れ落ちて無くなってしまう。そんな恐怖。
いや、それどころか頭で考えを巡らすことさえあまり気が進まない。もし頭を動かすことも体を動かすことになるのなら、物事を考えるだけでも世界を崩してしまうかもしれない。
確か人間が物事を考えるときには、脳の中の神経伝達物質が盛んに電気信号を送り合って、脳の中はてんやわんやに働いているはずだ。
しかしどうだろうか。頭を動かすなんて言うけれど、それは比喩表現だ。脳の中は動いているかもしれないが、頭蓋骨は動かない。
そもそも、この場合は誰が審判するのだろう。春雄が体を動かした、と判断するのが第三者ならば、頭の中の動きは悟られない。当然外見からはわからないからだ。
よかった、今考えていたことはセーフだ。
いや。待て。
もし仮に、体を動かしたという判断を下す審判が全知全能の神ならば、もしくは神に近しい何らかの概念が判断するのならば、俺が今考えていることは全て筒抜けになる。
それどころか、それどころかだ。『考えていることが全て筒抜け』と考えていることも筒抜けだ。と、考えていることも筒抜けだ。と、考えていることも筒抜けだ。の永遠ループになってしまうことになる。
自分は無神論者だと思っていた。いや、自分に限らず現代日本人のほとんどはそうだろう。神社で二礼二拍手一礼してあれこれ自分勝手なお願いをしてはいるが、神様が実在するなんて思ってはいない。
地下鉄サリン事件から、日本では宗教は危険な思想団体だというイメージが刷り込まれた。神、もしくは神に近しい概念は、弱い精神を救うというマインドコントロールに近いものだと。
しかし概念として神が存在することを否定できはしない。誰にもわからない。悪魔の証明とでも言うべきだろうか。そんなことに何故今の今までずっと気付かなかったのだろう。
もう遅い。もう遅いのだ。今から思考を停止したとして、神に近しい概念は今までの思考を見逃さない。見逃さないからこそ神という概念になり得る。
駄目だ。脳を止めるなんてできるはずがない。
仕方がない。審判が下るまでの間、自由に頭を動かさせてもらおう。開き直って生きてやろうじゃないか。
さて、思考すら読み取る概念があるとしたら、今まで持っていた、体を動かすことが怖い、ひいては頭を動かすことが怖い、という感情すら読み取られていることになる。
人はこれを心の動きと定義するが、心とは一体なんなのだろう。
脳科学のことはちっともわからないが、おそらくは脳のどこかに感情を司る分野があるのだろう。となれば心の動きとは、結局は脳の働きによるものだということになる。
しかし確かになるほど、脳が感情を生み出しているとするより、心に感情がある、という方が遥かにしっくりくる。その理由は何故だかわからない。人としての先天的な感覚なのか、もしくは社会や環境にそう教えられてできた後天的な感覚なのか。
ああ。なんだろう。今はもう少しも怖くなどなくなっている。いや、それどころか。
うん。
馬鹿馬鹿しい。体を動かしたら世界が崩れるとか神がどうとかそんなわけないだろうに。
春雄は立ち上がり、電気を点けて部屋を片付けた。それから再び電気を消して布団に潜り、目を閉じるのだった。




