第57章(春雄)幸
日が落ちていく。暗くなり始めた山。
雪が降っていた。ゆっくりと、ゆっくりと落ちていく氷の結晶達。ぽつりぽつりと立つ木々はすっかり葉を落としていて、降りしきる雪がその頼りない枝に積もっていく。
春雄と葵は夜の西山の短い登山道を登っていた。
その西山と呼ばれる丘のような小さな山は、実際には違う名前があるようだが、春雄も葵も西山という呼び方しか知らなかった。
山肌に積もった雪は数センチほど。一歩歩く度にその薄い結晶を押しつぶす音がした。
「もうすぐ、夜になっちゃうよ」
葵は右手で小さな枝をびゅんびゅんと振り回しながら、そう言った。
「大宮でのんびりしすぎたかな」
「高崎で2時間もご飯食べてたからだよ」葵は口を尖らせる。
「楽しい旅だった」
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。だっけ?」
「そんな感じだったと思うけれど。俺、本は読まないからさ」
「雪だなあ」
葵はそう言うと、少しずつ黒くなっていく空を見上げた。
葵の顔にぽつりと雪が落ちる。それを見た春雄もまた空を見上げたが、星はまだ見えなかった。
俺の残りはおそらくもう、あとほんの少しなのだろう。
死にたくない。死にたくない。まだ、もっと葵と一緒に過ごしたい。いつの日か結婚して、同じ家で暮らして、子供を育てて、仕事をして、そうして心置きなく死んでいく。そんな普通の人生があれば。
死にたくない。
「……わあ」
葵が感嘆の声を洩らした。
そこは山頂、とはいえ標高は麓とさして変わらないのだが、山の上にある小さな公園だった。
少し開けた土地に雪が一面に敷き詰められていて、その中心には高さ3mほどの小さな塔が立っている。塔には僅かに明かりがついていて、雪がふわりと落ちていくのを仄かに照らしていた。
誰もいない。いや、それはそうか。クリスマスイブの夜に、こんな小さな山に登る人なんていないものな。
立ち止まってぼんやりと公園を眺めている葵。春雄はゆっくりと歩き、塔へと近付いた。
何の塔なのだろう。ただの白い長方形。記念碑のようなものなのかもしれないが、文字も何も刻まれていない。ただ明かりがついているだけ。
「葵。おいで」
春雄が葵を呼ぶと、葵もまた塔へと近付く。
「……この子は、いつでもここにいるんだね」
葵は塔を見ながらそう呟いた。
「でも、不自由ではなさそうだ」
「うん。自分の意志でここにいるみたい」
「葵、今日は何の日?」
「何?」
「クリスマスイブだよ」
そう言うと春雄は小さな袋を葵に差し出した。
「えっ、ごめんなさい。私、プレゼントなんて何も……」
「そんなこといいんだよ。開けてみてくれる?」
葵は袋を受け取り、そして中身を取り出す。それは折り紙で折られた一羽の鶴だった。紫の花が模様になっていて、それは柔らかな鶴だった。
「ふふっ」
葵は鶴を大事そうに手のひらの上に乗せて、笑った。
「気に入ってくれた?」
「こんなにお金のかからないプレゼント、こんなに子供みたいなプレゼント、初めて見たよ」
「俺も」
「でも、こんなに嬉しいプレゼントも、初めて」
「よかった」
「それじゃ、私からもプレゼント」
「ん?」
次の瞬間、葵は春雄にキスをした。
短く、長いキスだった。唇と唇が小さく重なるだけのキス。雪は淡々と降っていて、小さな塔と一緒に春雄と葵を包んでいた。
その時。
春雄に葵の全てが流れ込んだ。
夕暮れの教室で救われたこと。月の下で絶望したこと。夕暮れの教室で、飛び始めることが出来たこと。
心だとか、気持ちだとか、そういったものが全て繋がったように思えた。
俺と葵は、ただ生きていた。
生まれて、育って、ただ生きた。
俺は葵を必要としていて、葵は俺を必要としていた。その意味がようやく理解できた。
ああ。俺は飛べたんだ。葵と一緒に。俺は俺のしなくてはならないことをやり遂げた。
俺が生きていたことに、意味はない。葵が生きていることにも、意味はない。敦志だって、楓さんだって、きっと皆、生きていることに意味なんてないのかもしれない。
でも俺は、確かに生きた。それは俺にとっては大切なことで、葵と一緒に飛ぶことができた。
それならそれで、いいんじゃなかろうか。
そうしてキスが終わると、葵は恥ずかしそうに俯いて言った。
「私の気持ちが全部、春雄くんに流れていった」
俺にとって、唯一の人。葵と出会えて、葵に惹かれて、葵と過ごせて、俺は。
俺は本当の#幸__さいわい__#に生きたんだ。
「葵」
葵は春雄の顔を見上げて。
「春雄くん?」
「今までありがとう。また、いつか」
「……え?」
春雄は雪に倒れこんだ。
ぐしゃりと崩れるその様子は、尋常ならざるものであった。まるで操り人形がその糸を全て切り離されたかのように。
「春雄くん!?」
葵が叫んでいる。と思う。聞こえないけれど。
ああ、声も出ない。まさかこんなに苦しいとは想像もしなかった。意識がなくなるまであと2秒もないだろうな。
もう怖くはない。恐怖を感じるほど余裕があるわけじゃないからかもしれないが。しかし俺は、もう十分なのだから。
葵には、申し訳なかったな。こんなことになってしまって。綺麗な葵の顔がぐしゃぐしゃだ。
ああ、見えなくなった。もう終わりだ。
『ありがとう』
消えていく意識の中、葵の声が春雄の中に優しく響いた。
すっかり暗くなった山。
雪が降っていた。
星が夜空に瞬いていて、月が朧に浮かんでいる。
山の上には半狂乱の葵。その腕に抱かれる春雄は穏やかに微笑んでいる。
佐倉春雄。20年と7ヶ月であった。




