第56章(春雄)朝
「……春雄くん?」
まだ眠たげな葵の声。窓の外は少しだけ明るくなり始めていた。
葵は掛け布団をぐるぐると巻きつけたままゆっくりと起き上がり、春雄を見やる。
春雄は椅子に座って天井を見上げていた。その天井はただ白く広がるだけで、そこには何もない。
葵が起きたことに気がつくと、春雄は葵に笑いかけて言った。
「おはよう、葵」
「春雄くん、いつ起きたの?」
「何時間か前にね。葵と出かけるのが楽しみで」
「……私も、楽しみだもの」
葵はそう言うと、ベッドから飛び降りた。
裸の葵は掛け布団の代わりにハンガーに掛けていた大きなバスタオルを羽織り、そしてバタバタと洗面所へと急いだ。
「転ばないように気をつけて。それに、準備はゆっくりでいいよ。まだ朝だからさ」
春雄は慌ただしい葵に声をかけた。
「春雄くんより、私の方が楽しみにしていたの!」洗面所から返ってくる葵の声。
「うん。楽しみだね」
しばらくして、春雄と葵はアパートを出た。
ベージュの厚手なPコートとマフラーで装備した葵。春雄は長丈のトレンチコート。まずは朝食をと、2人は喫茶店に向かって歩いた。
からりとした空気が冷たく刺さり、しかし空は広く晴れ渡っていた。
「春雄くん、その格好じゃ寒いよ?」
「そうかな」
「私みたいに暖かくしないと、風邪だよ」
そう言って葵は、両手を水平に広げた。コートの袖にすっかり手が隠れたまま。厚手のコートにも関わらず、その丈は葵の膝まで届こうかという長さだった。
葵、そのコート、サイズが大きすぎやしないだろうか。葵はどんな格好をしていても何故か似合ってしまうから、あえて大きなサイズを選んでいるのかと思えてしまう。実際にはただ気にしていないだけなのだろうが。
「葵、そんなに寒がりだったっけ?」
「風邪を引いて、時間を無駄にしたら嫌だから。春雄くんの中の私は、元気な私でいたいから」
そう言って葵はおもむろにスキップをし始めた。
そうか。やはり葵は気付いていない。俺が葵よりも先にいなくなってしまうこと。俺が今日、命を落としてしまうことも。
葵に言うべきなのだろうか。いや、駄目だ。大切な今日を捨てたらいけない。
春雄よりも5mほど先に進んだ葵。そしてくるりと振り返ると。
「ねえ、春雄くん」
「ん?」
「私が死ぬまでは、私のために生きてくれる?」
「ああ」
「その後はね、私のことを忘れて楽しく生きるんだよ。これは命令だからね」
「そんなことできるかな」
「私のことはたまに思い出すくらい。ああ、そんな人がいたなあ、って」
「頑張ってみるよ」
「うん」
葵は笑う。朝日がその笑顔を照らしていた。
喫茶店に着くと、春雄と葵は小さなテーブル席に腰かけた。春雄はホットコーヒーとサンドイッチを、葵は紅茶とトースト、そして小さなサラダを頼んだ。
「8時ちょうどの電車に乗ろうか。ここでゆっくりしても間に合うだろうし」春雄はサンドイッチを頬張る。
「私思ってたの。そのまましばらく群馬にいようかな。お母さんと一緒に」
「それはいいね」
「春雄くんは?」
「葵がそうするなら」
でも葵。俺はもう一緒にはいられないんだ。俺は、今日。
突然だった。
春雄は手に持っていたサンドイッチをテーブルの上に落とした。
「……春雄くん?」
葵は春雄の顔を覗き込む。
しかし春雄は視点を変えず、そしてサンドイッチを拾うこともせず、まるで突然固まってしまったかのようだった。
なんだこれは。この感覚。とにかくすごく嫌な気分だ。なんと表現すればいいのか、悲しいような、辛いような。
石田の言っていた、誰かの感情が流れてくる、という現象だろうか。この感情は普通じゃない。寒い。悪寒がする。ここは店の中。寒いわけがないのに。
風邪を引いたのかもしれない。葵の言うように、体調にもっと気を使うべきだった。
いや、違うな。体調が悪いわけではない。これは。
ああ、そうか。
怖いんだ。
誰かの感情ではない。俺の感情。自然な、そして当然の、俺から生まれた死への恐怖。
俺は怖い。死ぬのが怖い。命が消えるのが怖い。自我が無くなるのが怖い。葵と一緒にいられなくなるのが怖い。間も無く自分が無くなってしまうことが、怖くて仕方がなくなってしまったのだ。
心臓麻痺は苦しいだろうか。いや、そんな理由ではなくて。死ぬ、俺は死ぬ。だから怖いんだ。
消える。俺という存在は無くなってしまう。今まで考えていたことも、今考えていることも、死んだら全てが無になってしまう。死んだらもう何もできない。何も感じない。何も考えられない。全ての記憶も思い出も消え去って、意識も無くなって、そうして俺は死ぬ。
死ぬのだ。
春雄はがたがたと震えていた。その揺れでテーブルも震えて、コーヒーカップとソーサーがカチャカチャと小さな音を立てる。
葵はそんな春雄を見て困惑した表情で言った。
「春雄くん、気分が悪いの? 春雄くん?」
「……ああ、大丈夫。大丈夫だから、ちょっと待ってくれる?」
春雄の声は弱く、か細かった。
どうして今更、死ぬのが怖いだなんて。死ぬことも、生きることも、俺にとっては同じだと思っていたはずなのに。
いざ死ぬとなると怖くなったのだろうか。俺は、死ぬということの恐怖を、今まではまるで想像できていなかった、そういうことだったのだろうか。
違う。俺の中で何かが変わっている。これは電磁波の影響なのか、あるいは。
春雄はゆっくりと顔を上げて、葵の顔を見る。葵は春雄を心配して眉は下がり、額に皺ができていた。そんな葵を見て、春雄の震えは次第におさまっていく。
そうだ。葵がいるから。葵がいてくれたから。だから俺は、普通の人間になれたのだ。
俺はもう、嫌な記憶ばかりの群馬に帰ることもできる。俺はもう、スロットの刺激がなくても生きていられる。俺はもう、自分のことだけではなくて、葵と共に生きている。
俺には何の価値もない。得意なことも、情熱を持てるようなことも、夢も、特別な能力も、向上心も、何もない。
でも、それでも。
俺は俺として生きている。心臓が動いていて、血液が身体中をめぐっていて、脳で物事を考えて、心で感じて、そしていつでも呼吸をしている。
俺は葵のことを愛していて、そして自分自身を愛している。葵が大切な存在になり、そうして俺は、俺自身をも大切にするようになってしまった。だから俺は死にたくない、死にたくないのだ。生きていたい。
葵と一緒に、少しでも長く生きていたい。
俺は死ぬ。これから死ぬ。
怖いものは怖い。でも俺は、今はまだ生きている。それならば今、できることをするだけ。そうだろう。俺には、それしかないのだから。
春雄は伝票を掴んで立ち上がった。コートを羽織り、バックを肩にかける。
そんな春雄を見て、葵が言った。
「……行く?」
「ああ、行こうか。もう大丈夫」
葵が立ち上がってコートを着ると、春雄は手を差し出した。葵は少し驚いた様子。しかしにこりと笑って、葵は春雄の手を握った。
葵と手を繋いだのは、初めてだな。
春雄と葵は小さく手を握り合って、そうして喫茶店を後にした。




