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手紙  作者: サワヤ
55/58

第55章(春雄)夜

 築30年のアパートは冬の夜風を浴びていて、けれどもただその冷たさを耐えていた。そしてそのアパートの一室、春雄の部屋の中。



 ベッドに座る春雄。ふと小さな卓上カレンダーを見た。


 12月23日。


 そうか。時間がもう無いんだな。葵はあと3ヶ月。そして俺は。



「春雄くん?」


 葵が春雄の顔を覗き込む。


「どうかした?」


「春雄くんが、悲しそうな顔をしてた」


「……ああ、何でもないんだ」


「そっか。何でもないんだね」



 そう言うと葵は立ち上がり、シンクの中で水につけていた食器を洗い始めた。



 何でもないわけがない。そんなことは葵だってわかっている。ただ、必要以上に現実の話をする必要はない、いや、するべきではないと、俺も葵も理解しているのだ。



 俺は心臓麻痺のことを誰にも言っていない。葵が知っているのは、俺が最初に3年の余命宣告を受けたことだけ。


 言えやしない。もはや葵にとっての俺は、葵を支えるただ一つの命綱。そんな俺が、実は葵よりも先に死ぬだろうなどと、どうして言えよう。



 がちゃがちゃと音を立てて食器を洗いながら、葵が言った。


「今年は雪、降らなさそうだね」


「ここは、そうだね。去年も降っていなかったから」


「私、雪が見たいな」


「それなら群馬、帰ろうよ。もう降ってるってさ」


 葵はぱっと春雄を見て、目を輝かせる。


「……うん! 行こう! 明日行こう?」


「そうしようか」


 葵は笑った。春雄ですらめったに見ることのない、葵の笑顔だった。




 俺は葵に何をしてあげられるだろう。葵は残りの3ヶ月を、どう生きるのだろう。俺にできることは、何だろう。


 結局、これほどに短い時間では、葵とちゃんとした恋人になることはできなかった。キスもしなければ、もちろんその先も。


 でも、大事なのはそんなことじゃない。俺と葵は、きっとそうだ。世界中のどんなカップルよりも深く繋がっている、そう思える。



 葵は食器を拭いて、食器かごに入れる。そうしてタオルで手を吹くと、再び春雄の横へと座った。


「私さ」


 葵は隣の春雄を見ることなく、そう言った。


「ん?」


「時々わかるんだ。春雄くんの考えていること」


「それはまあ、これだけ一緒にいるからね」


「違うよ。理由はわからないけれど、春雄くんが私の中に流れてくる時があるの」


「それは……」


「ほとんどはね、とっても暖かいの。だから私、春雄くんが流れてくる時が、とっても好きなんだ」


「俺は、葵が好きだから」


「それで、でもたまにね。少し違ったやつもあるの。私はそれも、嫌いじゃないんだ。というより、嬉しかった。でも、私にはあんまりよくない過去があるから、どうしようって思ってた。そんな私じゃ、春雄くんに失礼かなって」


 ああ、そうか。そういうことか。


「俺が、葵としたい、って思っていること。俺の中をすっかり見られていたんだね」


「そう。でもね、春雄くんがそれを望むなら。私は応えようと思う」


 そう言う葵の体は小さく震えていた。


「気持ちは嬉しいよ。でも、別に無理してまでするようなことじゃない。俺にとって何が大切なのか、きっとそれも伝わっていると思う」


 葵は春雄を見て、困ったような表情をした。


「春雄くんは、わかってないなあ」


「わかってない?」


「うん。でも、今、どうしなくちゃいけないか、本当はわかっているはずだよ。春雄くんがしなくちゃいけないのは、そんな上辺の気遣いかな?」


「上辺じゃないって」


「わかっているよ。春雄くんは私を大切にしてくれている。でもね、私だって女なんだ。そして春雄くんは、男の子でしょう。それは良いことでも、悪いことでもないんだ。ただ、そうして存在しているだけなの」


「……葵?」



 葵は春雄の手を掴む。そして葵のスカートの中へと、春雄の手を導いた。奥へ、奥へと導かれ、すると春雄の指先に、何かが濡れている感触が伝わった。



「ほら。私だって、今、普通じゃないでしょう。私は春雄くんのことが好きなのだから」


「……そうだね。そうみたいだ」


「だから、春雄くんは好きなようにすればいい。私はただ、それに応えるだけ」



 春雄の中で、何かが湧き上がる。心拍が暴れ、そうして穏やかに、けれども確かに、性欲が形を成していく。



 葵は続けた。


「私達はもう、繋がっているけれど、一緒に飛び始めているけれど。それでもその前に、男と女なの。だから……」


 葵が言い終わるのを待たずして、春雄はゆっくりと葵と共にベッドに倒れた。



 仰向けになった葵。彼女は落ち着いた目で春雄を見つめた。



「葵」


「おいで、春雄くん」



 それは長い、長いキスだった。何十分か、あるいは何時間もそうしていたかもしれない。


 そうしてとろけて、唾液が混ざり、春雄と葵の境界線が曖昧になっていく。


 永遠に続くのではないか、そんなキスをようやく終えた時、葵は春雄のシャツのボタンをゆっくりと外していった。



「子供は、欲しいよ。春雄くんとの子供なら、尚のこと」


 そう葵が呟く。



「俺も」


「でもね、私達には許されない。私達はあと少ししかこの世界にいられないから。だから、ね」


「そうだね」


 そう言って春雄は立ち上がり、棚の中から小さな紙袋を取り出す。


「えらいね、春雄くん」


 そう言って、葵は春雄に笑いかけた。その笑顔を見た春雄は、部屋の電気を消し、そしてゆっくりと葵を抱きしめた。



 そうして長くて短い夜が始まった。春雄は葵の中へと、深く、深く埋もれていくのだった。


 それは優しく、しかし激しく、春雄と葵を繋げる行為だった。快楽の為でもあり、愛の為でもあり、そして2人は1つに溶け合っていった。






 春雄は目を覚ました。


 隣には裸で布団に包まっている葵。すうすうと寝息をたてている。窓の外はまだ暗い。枕元にあるデジタルの目覚まし時計には、AM3:40と表示されていた。



 もう一度眠ろう。体が重い。あと10時間は眠れそうだ。どうして今、目が覚めたのかわからない。



 この夜は葵にとって、いいものだっただろうか。いい思い出になってくれただろうか。きっとそうであったと俺は思いたいけれど。


 俺が葵よりも早く命を落としてしまうだろうということを、葵は気付いているのだろうか。言ってはいないけれど、どうやら俺の考えがいくらか伝わってしまっているようだし。


 まあ、それならそれで、仕方のないことだ。俺は残された時間を全て葵に使う。ただそうするだけなのだから。





 その瞬間。


 春雄の脳裏に何かが浮かぶ。断片的なイメージが次々と通り過ぎる。まるでそれは走馬灯のように、ぼんやりしたいくつもの映像が一瞬のうちに過ぎ去っていった。


 雪。月。葵。山。星。そして。



 根拠はなかった。しかし、春雄は直感で『それ』に気付いてしまった。



 ああ。頼むよ。石田の奴、嘘をつきやがった。


 いや、まあ石田が嘘をついた、というわけではないだろうな。実際に予測では、俺は1月の頭に心臓麻痺が起きてしまう、ということだったのだろうから。


 くそ。あと数週間は生きていられるつもりだったのに。



 春雄は葵を起こさないようにゆっくりと起き上がり、ベッドから立ち上がって椅子に座る。そして机の引き出しから小さな便箋を取り出すと、ペンを握った。



 今、俺にできること。葵を救う為に。


 急げ。俺にはもう時間がない。



 なぜなら俺は、今日、死ぬのだから。



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